説教「すこやかな人生を歩む」

2024年2月4日、六浦谷間の集会

降誕節第6主日

                      

説教・「すこやかな人生を歩む」、鈴木伸治牧師

聖書・ヨブ記23章1-10節、

   ヤコブの手紙1章2-8節

   ヨハネによる福音書5章1-18節

賛美・(説教前)讃美歌21・289「みどりもふかき」

   (説教後)讃美歌21・527「み神のみわざは」

 すこやかな体を持つことが願いですが、すこやかな体を持ちつつも、精神的には悩みつつ歩む場合もあるでしょう。また、逆に体に障害があり、それらの人を見ると「お気の毒に」と思う場合もあるのですが、しかし、ハンディキャップを持ちつつもすこやかに過ごされておられる皆さんもおられるのです。今年はフランスでオリンピックが開催されることになり、それと共にパラリンピックが開催されます。ハンディキャップを持ちながらも、スポーツの世界で力強く活躍しているのです。報道関係でもパラリンピックに出場する人々を紹介することが多いようです。なるべく多くの皆さんがパラリンピックを応援し、観戦してもらいたいこともあります。ハンディキャップを持つ皆さんの競技を体験していることも報道されています。目が見えない人の競技を体験するために、目を覆って見えなくし、競技を体験することでした。そのような傾向は、ハンディキャップを持つ人々を体験し、理解が深まると思います。イエス様が病気の人を癒されたとき、イエス様は必ず心の励ましを与えています。「あなたの信仰があなたを救ったのですよ」と言われているのです。体が回復されるとともに、心も健やかに導いておられたのです。今朝の聖書から「すこやかに導かれる」歩みをしたいのです。

 今、置かれている状況を神様に投げかけること、それが今朝ヨブ記23章の主題となります。ヨブ記は1章、2章で主題が設定されています。人間は神様の前にどう生きるかであります。天上において神様の前に天使たちが集まります。神様は天使サタンに言うのです。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」。これを聞いた天使サタンは神様に反論します。つまり、神様がお恵みを施しているから、ヨブは信仰があると言い、お恵みが無ければ神様を呪うというのです。神様は天使サタンがヨブに害を与えることを許します。それにより、ヨブの財産は無くなり、10人の子ども達まで失ってしまうのです。しかし、ヨブはお恵みが無くなったからと言って神様を呪いません。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」というのでした。天使サタンは、「ヨブは自分自身に命の害が無いので、そんなことを言うのです。彼の体に害があるなら神様を呪う」と主張します。天使サタンは神様のお許しを得て、ヨブに危害を与えます。ヨブは全身に皮膚病ができ、陶器のかけらで体中をかきむしるようになりました。そういう中でも、ヨブは神様を呪いませんでした。「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸をもいただこうではないか」というのでした。

苦難のさなかにあるヨブを三人の友人が見舞うのですが、その中でも最年長者のエリファズがヨブを説得しているのが22章です。このようにヨブが苦しむのは、結局は罪の故であり、悔い改めない限り癒されないとして説得しているのであります。そのような説得は因果応報的な考えであります。今朝の聖書23章はヨブの反論です。「今日も、わたしは苦しみ嘆き、うめきのために、わたしの手は重い。どうしたら、その方を見出せるのか。その方にわたしの訴えを差し出し、思う存分わたしの言い分を述べたいのに。答えてくださるなら、それを悟り、話しかけてくださるなら、理解しよう。」

 この現実の意味を知りたいとヨブは叫んでいます。友人達が口を揃えて、お前の罪の故だと言うのですが、身に覚えのない罪であり、一口に罪を悔い改めなさいと言われてもできるはずがないのです。神様こそ現実の意味を示される方であると信じているヨブでした。答えてください、悟らせてくださいと叫んでいるのです。神様だけはわたしを真実に証明してくださると信じています。このわたしは人の評価ではなく、神様のみが正しく評価してくださるのであります。叫んでも叫んでも、この声は受け止められないのですか。神様は何処におられるのですか。どうぞ、僕の声を受け止めてくださいと独白が続けられます。

 ここに至って、ヨブは神様が自分を捕らえてくださっていることに大きな希望をもっているのです。現実を見る限り、それは悲しみの現実です。その現実から目をそむけたくなります。しかし、この現実は紛れもない現実なのであります。この現実を真実受け止めるとき、私たちはその現実にこそ神様の御心があり、導きがあることを示されるのであります。苦しい、悲しい現実であるが故に、逃げたり、別の自分になろうとする私たちへの警告であります。

 置かれている状況を神様に投げかけること、このヨブ記の示しを受けつつ、ヨハネによる福音書5章のメッセージとなります。エルサレムには羊の門の傍らに、「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊がありました。この回廊には病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていたのであります。つまり、池の周りに長い廊下のような小屋が建てられており、そこには多くの病の人がいたというわけです。その中に38年間も病気で苦しんでいた人がいました。イエス様はこの池にやってきて、横たわっている38年間病気の人に、「良くなりたいか」と声をかけたのであります。何か不思議な問いでもあります。38年間も病気であり、良くなりたいのは当然であります。しかし、あえてイエス様はそのような質問をしたのでした。それは、イエス様の問いに、38年間病気である人の答えに現れているのです。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、他の人が先に降りていくのです」と言っています。ベトザタの池は間欠泉であるようです。地面から新しい温泉が出てくる、その新しい温泉を浴びることで病が癒されると信じられていたのでした。従って、池の水が動き出すと、五つの回廊にいた人たちが一斉に池の中心に向かいますから、池の中はいっぱいになり、入れなくなるということです。38年間病気の人はそのような言い訳を言っているのであります。イエス様が「良くなりたいか」と聞かれた意味がここにあるのです。つまり、この人は、誰かがこの人を抱っこして水に入れてくれなければ治らないと思っています。しかし、誰も自分を水に入れてくれないと諦めきっているのです。

 「良くなりたいか」とイエス様が尋ねたのは、あなたは誰かの助けではなく、まず自分を神様に投げかけなさいと示しているのであります。今の状況、38年間病気であること、誰も助けてくれないこと、一人さびしく治らないと思い込んでいることを神様に投げかけなさいと言われているのです。自分であのようでなければ駄目だ、このようでなければ駄目だと決めるのではなく、そのままの姿を神様に投げかけなさいと導いておられるのです。そして、イエス様は言われました。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。38年間病気の人は、今まで考えたこともないことを言われたのです。驚きました。何か新しい自分になっていることを知ります。歩ける思いが強くなっていきます。そして、立ち上がり、言われたように、床を担いで歩き出したのでありました。叫び求める人々にはお答えになり、叫ぶことを知らない人々には、自分を神様に投げかけることを教えておられるのです。「なおりたいのか」とイエス様は私たちにも問いかけておられます。「治りたいのは、当たり前でしょ」と言わないで、もう一度、自分の現実を見つめることなのです。そして、この現実を、そのままイエス様に投げかけることを示しているのであります。

 イエス・キリストは十字架にかけられる前、ゲッセマネの園でお祈りをいたしました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」。杯とはイエス様が十字架にかかることですが、自分の気持ちにおいては十字架にはかかりたくないのです。しかし、すべてを神様に委ねられたのであります。そして、十字架にかけられ、いよいよ息を引き取るとき、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのであります。どうして神の子イエス・キリストがこのような叫びをするのだろうか、と思われるのでしょうか。一人の人間としてこの世に現れたイエス様です。死の苦しみは人間の苦しみなのです。絶望の叫びでもあります。しかし、この絶望の叫びを神様に向けているのです。

 人々の叫びを受け止め、叫ぶことのできない人々には叫びを示したイエス様は、自らが神様に叫びを上げていたのです。このイエス様に示される叫びを私たちも持ちたいのです。自分の何もかも、どのような状況でも、この私を神様に投げかけることです。そうすれば祝福が与えられますとは申しません。そのようなことを言えば、極めて人間的な理解になるからです。今朝の示しは、この自分を神様に投げかけるということなのであります。そのことで、「すこやかへと導かれる」のです。「すこやか」になること、私たちは健康な身体、日々楽しく、心配なく過ごすことを思いますが、「すこやかへと導かれる」とは、いつも、自分を神様に投げかけて歩むことなのです。新しい自分へと導かれるのです。神様に自分を投げかけても痛みは続くでしょう。その痛みは神様が受けとめてくださっているのです。私を励ましてくださっているのです。

<祈祷>

聖なる神様。何事も神様に投げかけ、現実をしっかりと受け止めつつ歩めるようにしてください。主イエス・キリストによって。アーメン。

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