説教「祝福されるささげもの」

2024年3月10日、六浦谷間の集会

「受難節第4主日

                      

説教・「祝福されるささげもの」、鈴木伸治牧師

聖書・サムエル記上9章27-10章1節、6-7節、

           コリントの信徒への手紙<二>1章15-22節

           ヨハネによる福音書12章1-8節

賛美・(説教前)讃美歌21・300「十字架のもとに」

          (説教後)讃美歌21・567「ナルドの香油」

 受難節第四週の歩みとなりました。今年は2月14日から受難節に入りました。イースター、復活祭が今年は3月31日であり、2月14日から3月30日までの40日間、イエス様の十字架への道を示され、その十字架が私をお救いくださる根源であることを示されつつ歩むのであります。今はその受難節のさなかを歩んでいます。受難節の歩みは十字架を仰ぎ見つつ歩むことです。それが私達の祝福への道なのです。

 2月29日に大塚平安教会に所要がありまして行くことになりました。木曜日でして、聖書研究・祈祷会が終わった所でした。小林牧師と共に三人の方がおられました。その中に、昨年の5月28日のペンテコステ礼拝で洗礼を受けられた姉妹がおられ、大変うれしく示されたのであります。この方は生まれたときからお母さんと共に礼拝に出席されていました。私が2010年3月に退任するとき、まだ中学生であったと思います。彼女のお兄さんは私が退任する年のクリスマスに洗礼を受けておられました。その後、彼女とはお手紙等で消息を示されていました。私の退任後、新しい牧師が就任されていましたが、礼拝に出席しつつも洗礼には至りませんでした。そして、その新しい牧師も12年勤めましたが転任されたのです。その後、すなわち昨年の4月からは専任の牧師が決まりませんので、代務者を立てての歩みとなっていたのです。それで、昨年のペンテコステ礼拝の説教にお招きをいただいたのでした。それにより、先ほどお話しました姉妹が洗礼を申し出られたのでした。私の在任中に私から洗礼を受けられなくて悔やんでおられたのです。先日、私が久しぶりに大塚平安教会をお尋ねした時、祈祷会に出席されていたことを示され、大変うれしく存じました。牧師として、洗礼を授けた方が、聖書研究・祈祷会に出席されておられること、信仰の歩みを力強くされておられることを感謝したのでした。まさに祝福される信仰の歩であり、今朝、示される祝福されるささげものであると示されたのでした。

  今朝はメシアについて示されています。メシアとは「救い主」という意味ですが、正確には「油注がれた者」との意味です。指導者となるべき人の頭に油を注ぐのです。油注がれた者は指導者となり、人々をよりよく導く使命があります。今朝の旧約聖書サムエル記上におきまして、サウルという人が油を注がれます。従って、サウルはメシア、救い主にならなければなりませんが、彼は救い主にはなれなかったのであります。その頃、聖書の人々は12部族による歩みでした。祭司サムエルの指導の下に歩みを進めていたのです。祭司とは神様の御心を示し、人々を導く働きをする人です。人々は何事も祭司に相談し、あるいは指示を受けて歩んでいたのです。人々は周辺の国々との関りの中で、我々にも王様を選任してほしいと申し出るのでした。これに対してサムエルはこの民族の中心は神様なのに、王様を選ぶことはよろしくないと思います。それで神様にお祈りします。しかし、神様は、人々の気持ちは変えられないから、望む通りに王を選任しなさいと示すのです。

 こうして王様が立てられることになりました。サウルは当初は神様の御心を求めては、人々の指針としていました。しかし、次第に人間的な思いになって行くのであります。サウルは王として周辺の国々と戦い、勝ち戦をしていきます。しかし、サウルは神様のお心ではなく、家来達の心になびくようになります。ひたすら敵の戦利品ばかりを求めるようになるのです。神様はこのようなサウルを見捨てることになります。そして、次に油を注がれるのは少年ダビデでありました。油注がれた者は忠実に神様のお心を行わなければならないのであります。メシアは油注がれた者として、人々を救い、人々を平和に導かなければなりません。サウルの次の王、ダビデは忠実に御心に従い、実行します。しかし、ダビデも極めて人間的な生き方があり、神様の怒りを買うこともありました。しかし、ダビデは総合的には神様の御心に忠実に生きた人です。人々を平和に導いたのです。従って、後の世の人々は再びダビデのような人が現れ、我々を救ってもらいたいという希望を持つようになったのです。これが旧約聖書の中にある「救い主待望思想」でありました。その希望はイエス様が現れた新約聖書時代でも人々が持っていたのです。ですから新約聖書福音書にはイエス様が救い主であると信じる人々、いや違うと思う人々の姿が記されているのです。新約聖書は、今や「救い主が現れた」ということを人々に示しているのですが、それを信じない人々の記録であります。主イエス・キリストが現れ、結局、人間はどうしても救われないので、十字架にお架りになって「救い」を実現されたことが、新約聖書の証しということなのです。

  「メシア」との語は旧約聖書が書かれているヘブル語であります。メシアをラテン語で言えばメサイアとなります。そして、新約聖書が書かれてギリシャ語で言えばキリストであります。従って、「イエス・キリスト」は名前と苗字ではなく、「救い主イエス」との告白なのです。イエス様を信じて歩むことが「油注がれた者」であります。メシアは「油注がれる」との意味ですが、新約聖書の時代には油を注ぐという儀式はなくなりました。それに類することを考えれば「洗礼」がその意味になるでしょう。なぜならばメシアは神様のお心を実行するからです。洗礼を受けた者は神様のお心に生きるからであります。今朝のコリントの信徒への手紙<二>1章21節には、「わたしたちとあなたがたとをキリストに結びつけ、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です」と示されています。洗礼を受けてイエス様を信じて歩む、「油注がれた者」としての歩みとなるのです。

今朝のヨハネによる福音書はイエス様への油注ぎが示されているのです。イエス様はマルタさんとマリアさんの家に行きます。弟子達も一緒でありますので、夕食の接待は大変であったでありましょう。マルタさんは一生懸命に給仕をしています。同じような状況がルカによる福音書10章38節以下に記されています。そこでもマルタさんとマリアさんの家にイエス様が来られました。マルタさんは接待に忙しくしているのに、マリアさんはひたすらイエス様のお話を聞いているのです。そこでマルタさんはイエス様に、「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようおっしゃってください」と言います。その時イエス様は言われました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアはよい方を選んだ。それを取り上げてはならない」とイエス様は言われています。この部分と今朝の状況は似ているようです。相変わらずマルタさんはもてなしに忙しくしています。しかし、マリアさんは純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持ってきて、イエス様の足に塗り、自分の髪の毛でその足をぬぐったのであります。家の中は香油の香でいっぱいになったということです。1リトラは326gです。

 マリアさんがイエス様に香油を注いだとき、弟子のイスカリオテのユダが、「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と批判します。当時の世界では1デナリオンは一日分の生活費です。300日分の生活費を無駄にしていると言っているのです。聖書も記しているように、イスカリオテのユダは人間的な損得しか考えなかったのです。これは損得ではなく、マリアさんの信仰であることをイエス様は示しています。イエス様は言われました。「この人のするままにさせておきなさい。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」と示されたのであります。まず信仰であると示しているのです。まず神様に委ねる、その様な生き方が求められているのです。この社会には、私達がしなければならないことがたくさんあります。だから私達はいろいろと心を寄せているのです。そのような状況でありますが、まず神様への信仰が大切であるということです。神様に自分をささげて生きるとき、自ずとしなければならないことが導かれて来るのです。私達の人生は損得を計算しながらの歩みではなく、神様に委ねつつ歩むことなのです。マリアさんのイエス様への香油注ぎは信仰であることを示しているのであります。祝福されるささげものになったのであります。

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  「祝福されるささげもの」は十字架にお架りになり、私達をお救いくださったイエス様を信じて生きる人生であります。その歩みが祝福のささげものなのです。そのため、私達はいつも十字架を仰ぎ見つつ歩むこと、そこに祝福のお導きがあるということを今朝は示されているのです。損得の計算では人生の祝福はないということであります。本日の旧約聖書で、「メシア」を示しているのは、神様の御心に生きる姿として「メシア」を示しているのです。メシアに選任されながら、損得に生きたサウルの失格をも示していたのでした。十字架を仰ぎ見て生きる人生が祝福であるのです。そして、私たちも油注がれた者であり、メシアとしての歩みが導かれていることを示されているのです。メシアとしての人生は自己満足、他者排除を克服し、イエス様が教えてくださった「自分と同じように隣人を愛する」ことであります。その人生が「祝福されるささげもの」の人生なのです。祝福されるささげものをいよいよささげたいのであります。 

<祈祷>

聖なる御神様。十字架の救いを与えてくださり感謝致します。いよいよ十字架を基として歩ませてください。イエス様の御名により、アーメン。

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