説教「真実の証し」
2024年9月22日、六浦谷間の集会
説教・「真実の証し」、鈴木伸治牧師
聖書・箴言3章13-20節
ローマの信徒への手紙11章33-36節
賛美、(説教前)讃美歌21・226「輝く日を仰ぐとき」
(説教後)讃美歌21・448「お招きに応えました」
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本日は9月の半ばでありますが、やはり秋の深まりを示されています。秋を迎え、思うことは秋の味覚ということです。最近は秋の味覚、ナシであるとかブドウをおいしくいただいています。さらに冬のミカンも出始めて、楽しみとなりました。味覚の秋でありますが、信仰の道を歩む私たちにとりまして、秋は信仰をふかめる意味でも修養会が開かれるのであります。もっとも、そういう取り組みは、昔のことであり、今はコロナウィルス感染予防対策で、人が集まることは避けられており、感染がおさまった今日でも修養会といえども開催することはできない状況です。しかし、私はこの修養会が信仰の出発点でもあるのです。
私はこの修養会によって信仰の道を歩むようになりました。中学生時代から横浜の清水ヶ丘教会に出席していました。そして高校生でありましたが青年会の修養会に参加したのでした。修養会で、葉山ですから海水浴の時間があり、水泳を楽しむときがありました。みんなで泳いでいたのですが、気がつくと、私は牧師と並んで泳いでいるのでした。牧師と並んで岸辺に向かって泳いでいたとき、その時、自然に洗礼の決意を並んで泳いでいる牧師に告白したのです。泳ぎながらの洗礼の告白は、牧師も驚いたようでした。しかし、泳ぎながら喜んでくださり、「よかったね、よかったね」と言いながら泳いだのでした。それが8月のことであり、そして10月6日、その日は「世界聖餐日」であり、私の洗礼式が執行されたのでした。修養会により、洗礼の告白が導かれました。泳ぎながらの告白でしたが、その修養会で信仰が導かれ、霊性が高められていたのです。それが告白へと導かれたということです。修養会を通して、今朝の旧約聖書の箴言で示されるように、「神様の富と知恵」を知り、その道へと導かれたのでした。今朝のローマの信徒への手紙11章33節で、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」と示されていますが、主の御心を尋ね、求めれば求めるほど、このパウロの言葉になるのであります。どんなに私たちが修養しても、神様の深さ、高さ、大きさには、もちろん到達できません。しかし、その道に導かれていることを喜びたいのであります。そして、神様の富と知恵を求めて歩むことが「真実の証し」として歩むことになるのです。
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今朝の旧約聖書は箴言3章13節からであります。「いかに幸いなことか。知恵に到達した人、英知を獲得した人は」と示しています。神様の知恵に到達した人は幸いであると示しているのです。「知恵」とは神様の御心であります。神様の御心に到達した人は幸いであると言っています。到達すると言われていますが、到達といわれると、私たちは、到達は無理だと思ってしまいます。なぜならば私たちは到達するどころか、まだ途上だと思っているからであります。到達した人は幸いでありますが、しかし到達できない私たちであるのです。すると、この箴言の言葉は困難な言葉として示されるのです。「いかに幸いなことか」と示されるとき、私たちは詩編の言葉を思い浮かべます。詩編1編1節、「いかに幸いなことか。神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」と示されています。幸いな人とは、到達した人と言ってはいません。幸いな人は、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人だと言うのです。そうであるなら、それは私たちが求めていることなのであり、幸いは私たちの中にあることを示されるのであります。到達は完成ではありません。まだ途上でありますが、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人としての歩みが導かれているのであります。
「いかに幸いなことか」と言い、一つは「知恵に到達した人」であり、もう一つは「英知を獲得した人は」であります。「英知」は「深遠な道理を知りうるすぐれた知恵」と説明されますが、聖書がこの言葉を使うとき、神様の創造の秩序を知るということでありましょう。それを別の言葉で言うなら、「神様の富」ということになるのです。すべてが神様の創造に与かっているからであります。神様の富を獲得することはできませんが、創造の恵みを知ることができるということでありましょう。「いかに幸いなことか」と示し、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさみ、神様の創造の恵みを喜びつつ生きる人を示しているのです。14節、「知恵によって得るものは、銀によって得るものにまさり、彼女によって収穫するものは金にまさる」と示しています。「彼女」とは「知恵」のことであります。主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人の果実は金にまさるというのです。あるいは17節、「彼女の道は喜ばしく、平和のうちにたどっていくことができる」と示しています。ここでも「彼女」は「知恵」であります。主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人は、平和のうちに人生を生きることができると示しているのです。
箴言は、神様の「富と知恵」、すなわち「創造の恵みと御心」に生きることが、どんなにか祝福であるかを示しているのです。今朝の箴言は3章12節からでありますが、3章3節に、「慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び、心の中の板に書き記すがよい」と示しています。先ほどの詩編では、「教えを昼も夜も口ずさむ人」と示しています。私たちが、私たちの生きる根源から離れないための努力が必要であることを教えているのです。その努力がないと、神様の「創造の恵みと御心」から離れてしまい、祝福されない人生になるとの警告であります。
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旧約聖書に示されることは、「教えを昼も夜も口ずさむ人」であり、「慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び、心の中の板に書き記すがよい」でありました。これらは人に求められる努力であります。努力を怠ると祝福に与れないのです。しかし、私たちは自分で努力しますが、限界も知ることになるのです。
この時、私たちは主イエス・キリストの導きをいただいております。今朝のヨハネによる福音書14章15節以下の示しに励まされましょう。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」と示されています。イエス様は、今はお弟子さん達に別れの説教をしていますが、この後、捕らえられ十字架に架けられるのです。死んで葬られ、復活して天に昇られるのです。するとイエス様がいなくなってしまうわけですが、ここで示されていることは、「別の弁護者」が神様から遣わされるということです。それは真理の霊であります。別の弁護者と言っていますが、イエス・キリストが霊の存在として遣わされるということなのです。19節、「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る」と示しています。十字架に架けられて死んでしまったイエス様を、世の人々は忘れていくのです。「去る人は、日々に疎し」と日本でも言われるところです。しかし、イエス・キリストの十字架の贖いを信じる人々は、再びイエス様とまみえるのです。弁護者として、真理の霊として、私たちと共におられるのです。
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時々、マレーシアのクアラルンプールで集会を開いている諸江修さんからお便りをいただいています。その集会に関わる方ですが、「追悼文集」が送られてきました。「相浦和生先生追悼文集」です。相浦先生のお連れ合いから送られました。相浦和生先生とは、特別に親しくお交わりをしたのではありませんが、特別な出会いを与えられています。1979年に大塚平安教会に赴任しましたが、それから数年後であったと思いますが、牧会者共同研修会に参加しました。これは日本基督教団の主催で、現場の牧師たちの研修会ですが、何を研修するか決められてなく、集まった人々によって学習が決められるのです。そのとき、相浦和生先生も参加しておられたのでした。しかし、その後、相浦先生とはお会いすることはありませんでした。お会いしないままお交わりが深められたということです。2013年にマレーシアのクアラルンプールのキリスト教日本語集会のボランティア牧師として三ヶ月でありましたが、勤めてまいりました。その集会は2012年3月までは専任の牧師がおられましたが、退任されました。そのため、日本基督教団の隠退牧師がボランティアで務めるようになったのです。その集会の最初の牧師が相浦和生先生でした。私は五番目の牧師でしたが、最初の相浦先生が、いろいろとメモを残してくださっていましたので、なんとかお勤めを果すことができたのです。私たちが在任中に、娘の羊子のチャペルコンサートを開くことができたのですが、そのとき、相浦先生が私や娘の羊子について役員会に紹介してくださったのでした。そして、その後、羊子が関西でコンサートを開いた際、ご夫妻でお出で下さり、羊子ともお交わりくださったのでした。
一人の伝道者が天に召され、その追悼集が発行されたとき、生前、イエス様の十字架の救いを人々に示され、そして今はイエス様の豊かな祝福をいただいていることを示されているのです。私達も真実の証しをしつつ歩むことを示されたのであります。
<祈祷>
聖なる神様。御心を御示しくださり、真実の証しをお導き下さり感謝致します。真実の証しをしつつ歩ませてください。主の御名により、アーメ
説教「神様が耳を傾けられるので」
2024年9月15日、横須賀上町教会
説教・「神様が耳を傾けられるので」、鈴木伸治牧師
聖書・歴代誌下7章11-16節
賛美、(説教前)讃美歌21・224「われらの神、くすしき主よ」
(説教後)讃美歌21・495「しずけき祈りの」
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久しぶりにこちらの教会の講壇に立たせていただくお恵みを感謝しています。9月の歩みが導かれていますが、9月になるといつも示されていることがあります。今朝は、9月15日ですが、実は、私の父の誕生日は9月27日であります。父は1995年に98歳で亡くなりましたが、明治30年の9月27日が誕生日でした。今更、父を思い出していたのは、実は今朝の聖書から示される、私たちのお祈りを神様が聞いてくださるということで、お祈りしている父を示されたからであります。父は典型的な日本人であったと思いますが、非常に信仰深い姿がありました。朝起きると、東の空に向かってお祈りをしていました。それは朝日に向かってのお祈りなのです。雨の日も、いつも朝起きれば東の空に向けてお祈りしていたのです。それが終わりますと、神棚の前に行きお祈りをささげています。神棚には鎌倉八幡宮を始め、瀬戸神社、雷神社等のお札が掲げられています。神棚が終わると仏前に行きます。先祖が祀られているわけです。チーンと金を鳴らし、何やら声を出してお祈りしていました。それで終わりかと思いますが、まだあります。今度は台所に祀られている荒神様にお参りをするのでした。こうして毎日、お祈りをささげていた父でありました。
最初から父のお参りの姿を紹介しましたが、私たちもいろいろな姿勢において神様にお祈りをささげているのです。その場合、私たちのお祈りを聞いてくださる神様を示されているのでしょうか。一方的にお祈りをしていますが、ひたすらお願いをするものの、神様が聞いてくださっており、お導きを与えてくださっていることまで示されないのです。そのような私たちの姿勢ですが、今朝は、改めまして私たちのささげるお祈り、そして聞いてくださる神様を示されたいのであります。
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「神様が耳を傾けられる」信仰は、旧約聖書ではソロモンでした。それを示しているのが歴代誌下7章の示しであります。ソロモンがダビデ王の後継者として聖書の国の王様になったとき、まずしたことは神殿の建築であり、自分のための王宮を造ることでありました。父のダビデも神殿を造ろうとしましたが、神様はナタンという預言者を通して、神は人の造ったものの中には住まわないと示したのであります。それでダビデは神殿を造ることは思いとどまりました。しかし、ダビデの子どもソロモン王が神殿を造ることになったとき、神様は何も示さないで、ソロモンの計画に任せたのであります。それは、ソロモンの神殿造りに深い意味があるからでした。ソロモンは大変立派な神殿を造りました。そして、完成したとき、ソロモンは人々を集め神様にお祈りをささげました。それは6章に記されております。17節以下、「イスラエルの神、主よ、あなたの僕ダビデになさった約束が、今後も確かに実現されますように。神は果たして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることはできません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、昼も夜もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが御名を置くと仰せになったところです。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください」とお祈りしています。ソロモンが神殿を造ったとき、この神殿に神様がお住まいになる、ということではなく、この神殿に神様が昼も夜も、神様の御目を注いで下さり、耳を傾けてくださるということであります。従って、この神殿に向かって祈りをささげることは、御目を注いで下さっている神様が祈りを聞いてくださるのであります。
そこで、今朝の聖書は神様の御心が示されるのであります。「わたしはあなたの祈りを聞き届け、この所を選び、いけにえのささげられるわたしの神殿とした。わたしが天を閉じ、雨が降らなくなるとき、あるいはわたしがいなごに大地を食い荒らすよう命じるとき、もし私の名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす。今後、この所でささげられる祈りに、わたしの目を向け、耳を傾ける。今後、わたしはこの神殿を選んで聖別し、そこにわたしの名をいつまでもとどめる。わたしは絶えずこれに目を向け、心を寄せる」と示されたのです。まさにソロモンが建設した神殿は神様が耳を傾ける場であったのです。人々は神殿に来ては、耳を傾けてくださっている神様に向かったのでした。
この事は教会の存在の基本であります。教会の中に神様が鎮座していると言うのではなく、教会に神様が御目を注ぎ、そこでの祈りに耳を傾けてくださっているのであります。だから教会は建物であり、礼拝以外は空いているので、いろいろな活動をしても良いと考える人もおられます。そのことについて反対を示しているのではなく、基本は神様が耳を傾けておられる場であるということです。祈りの場を求めて教会に来られる方がいます。前任の大塚平安教会時代、教会は、前の通りは県道であり、道行く人も多くいました。そのため、時にはお祈りに来られる方がいました。礼拝堂の前の席で、しばらく頭を垂れてお祈りしています。何か晴れ晴れとした顔で帰られる方もいました。教会に行っても、何かの集いで人がいる。いつ行っても人がいるのでは、祈りの場がないのです。従って、教会は空いているのではありません。祈りの場を提供しているのですから、何もしていないのではないのです。家庭ではその様な祈りの場がないのです。やはり周囲に邪魔されない場が教会なのです。そこには十字架が掲げられており、祈りつつ、イエス様の十字架の救いへと導かれるのです。
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主イエス・キリストは私たちのお祈りを励ます意味でこの世に宿られたのであります。ヨハネによる福音書はこの世に宿られた主イエス・キリストに、人々がどのように向くか、詳細に報告しているのであります。
今朝の聖書、10章19節以下、「この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。多くのユダヤ人は言った。『彼は悪霊に取り付かれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。』他の者たちは言った。『悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。』」このように、主イエス・キリストをめぐって、信じない人々の姿を浮き彫りにしているのであります。22節以下はユダヤ人がイエス・キリストを拒絶することが示されているのであります。救いが人々の間に宿っているのに、あえて拒否し、受け止めようとしない悲しい姿をヨハネによる福音書は報告しているのです。そうではなく、永遠の命を与えるために、私たちの現実に宿られている主イエス・キリストを受け止めるならば、私たちは主の導きのままに永遠の命へと導かれるのです。
このヨハネによる福音書は今朝の聖書に示されるように、イエス様を拒否する人々を記していますが、それと共にイエス様を受け入れ、救いが宿り、祈る者へと導かれるに至った人々をも示しているのであります。本来そのことを記すことが目的でありますが、ヨハネにとって、イエス様を証する時、あまりにもイエス様を拒否する人々が多かったということであります。ヨハネによる福音書4章には、サマリア人が救いを信じる姿が記されています。サマリアの女性がイエス様と出会い、まさにこの方は救い主だと信じます。そして、サマリアの人々にイエス様の証をするのです。最初は、この女性によってイエス様を示されていましたが、もはや主体的にイエス様の救いいただき、祈る者へと導かれたのであります。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であるとわかった」と言うのでした。
「祈りが導かれる」とは、この私が救いを信じて生きるということです。主イエス・キリストの十字架の救いを信じ、十字架を仰ぎ見つつ歩むこと、「祈りが導かれる」人生なのであります。使徒パウロはエフェソの信徒への手紙で、心から祈っています。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強め、信仰によってあなたがたの心のうちにキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださいますように」と祈っています。祈りの人生こそ祝福の人生なのであります。
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私たちはお祈りすることの喜びを持っています。最初にも紹介しましたが、特別な信仰を持たなくても、いろいろな存在に向かってお祈りをささげるているのです。新約聖書の中で、パウロという人がアテネという街を訪問した時、あまりにも多い神様に驚いてもいるのです。その中には「知られざる神」のあることから、「まことの神様を知らせてあげます」とパウロは示しているのです。私たちの神様は主イエス・キリストの証しされた「耳を傾けてくださる神様」なのです。その神様にお祈りをささげることです。神様がお祈りを聞いてくださっているという喜びとなり、力となり、お導きとなるのです。日々、お祈りをささげつつ歩むことを今朝は示されたのであります。
<祈祷>
聖なる神様。いつも私たちのお祈りに耳を傾けてくださり感謝致します。何事も神様に委ねて歩ませてください。イエス・キリストのみ名によりお祈りいたします。アーメン。
説教「神さまの愛」
2024年9月1日、六浦谷間の集会
説教・「神さまの愛」、鈴木伸治牧師
聖書・エレミヤ書28章1-17節
ヨハネの手紙<一>5章10-21節
賛美、(説教前)讃美歌21・358「小羊をばほめたたえよ」
(説教後)讃美歌21・566「むくいを望まで」
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9月になりまして、やはり、秋になったとの思いが深まります。この夏は猛暑の日が続き、いつも熱中症にならないよう呼びかけられていました。8月も終わりになりましたら台風の警戒が始まり、本日もまだ関東地方の近くにあり注意が呼びかけられています。日本の国は、今までも台風や大雨などの災害が発生しており、まだ復興の最中なのです。このように自然災害が多いのですが、今、心配されているのが、国の指導者を誰にするかと言うことです。アメリカでは大統領選挙があり、日本の国もいろいろと関係しますので、その成り行きが注目されています。そして、日本の国も、誰が総理大臣になるか、いろいろな人が立候補していますが、人によっては危険な状況になる場合もあります。私達は何もできずに、その結果を見守るばかりですが、改めまして、平和の根源であるイエス・キリストの十字架の救いをお祈りしなければならないのです。
このような状況ですが、神さまは愛を持って導いてくださっていると示されます。各地で戦争が起きています。戦争に巻き込まれている国の人々は困難な生活をしなければならないのです。このことに関しても、私達は何もできないのですが、神様の愛を信じて、平和へと導かれることをお祈りしたいのであります。
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旧約聖書は預言者エレミヤが神様の御心をいただきながら、世の人々の不安を導いています。エレミヤ書に登場する預言者エレミヤは、聖書の国ユダの人々がバビロンという大国の前に不安におののいている状況で、御心に聞き従うよう説得しているのです。神様はエレミヤに申しわたしています。バビロンの国に抵抗するのではなく、今は降伏してバビロンに従うということです。しかし、ユダの人々はバビロンに降伏することなど考えもしません。むしろ対抗して戦う姿勢を持っているのです。神様はエレミヤに軛をはめさせます。「軛」とは牛や馬につけて、荷物を引かせる首輪の様なものです。エレミヤが軛を自分の首に付けるということは、バビロンによってこのようになるのだから、戦うのではなく降伏しなさいと勧告しているのです。これは神様の御心であるのです。小さな国ユダが大国バビロンと戦っても滅ぼされることは必定です。だから降伏してバビロンの王様に仕えなさいと神様が示しているのです。そのバビロンはいつかは滅びて行くのです。その時には解放されて、再び都の生活ができるというのです。エレミヤは神様に示された通り、自分の首に軛をつけ、人々に降伏を迫るのでした。すると、ハナンヤという預言者が登場します。ハナンヤは人々に、神様は2年のうちにはバビロンを滅ぼし、既に奪われている神殿の祭具を始め、バビロンに連行されている人々を解放する、というのでした。そして、ハナンヤはエレミヤがつけている軛をはずし、これを打ち砕いたのでした。バビロンによって軛をはめられないと人々に言うのです。そこでエレミヤはひとまず立ち去ります。
しかし、神様は再びエレミヤに告げます。直接ハナンヤに通告することでした。すなわち、木の軛ではなく、神様は鉄の軛を用意しているということです。鉄の軛とは、バビロンに滅ぼされることです。ハナンヤの気休め的な預言ではなく、現実をしっかりと受け止めることなのです。いたずらに人々を安心させようとしていますが、置かれている状況は、気休めを言ってはいられないのです。結局、ハナンヤは偽りの預言者として死んでいくことになります。エレミヤの軛の預言は差し迫った状況であります。それでも指導者たちはエレミヤの示す神様の御心に聞き従うことなく、エジプトに頼ろうとしたりするのです。結局、ユダの国はバビロンに滅ぼされてしまいます。そして50年も長きにわたって囚われの身で過ごすことになるのです。ハナンヤのような預言者、一時的に気休めを言って人々に、あたかも神様の御心であると示す偽預言者が多くいました。エレミヤ書6章14節に、「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う」と示しています。あるいは7章4節に、「主の神殿、主の神殿、主の神殿という。むなしい言葉により頼んではならない」と示しています。偽預言者たちが、我々には主の神殿があるから安泰であると言っていることに対する批判であります。エレミヤは神様の御心をいただく者として、偽りの預言者たちとの戦いを展開したのです。
一時的な気休めを言う人々は、いつの時代も、どこの国にもいるものです。毎日のように「オレオレ詐欺」について報道されています。簡単に詐欺にかかってしまう人々には気の毒ですが、巧みな言葉、その言葉を信じればよいことがあるという、そういう言葉を信用してしまう場合が多いのです。人々の言葉はみんな詐欺であるとは言いませんが、人の言葉は信用できません。この時、何が神様の御心なのか、祈り求めることでありましょう。昔、私の母が詐欺にかかりました。私が外出しているとき、一人の青年が訪ねてきて、「お兄さんはいますか」と言われます。「お兄さん」と言われ、母は「ノブハルですか」と聞きます。するとその青年は、それからは「ノブちゃん、ノブちゃん」と言うものですから、母は私の友人だと思うようになるのです。結局、いくらかのお金が必要ということで渡したのでした。適当な言葉を言っては人々に希望を持たせること、今の世の中にも多くあるのです。何が神様の御心なのか、私達はいつも御心に従う姿勢を持ちたいのです。自分の気持ちなのか、神様の御心なのか、常に求めることなのです。
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御心に従うのかと示されるとき、その反対は自分の思いに従うことでありましょう。主イエス・キリストは神様の御心を人々に示しているのです。それに対して、イエス様の御心に反対する人々がいるのです。今朝のヨハネによる福音書であります。ヨハネによる福音書8章には、罪の現場で捕えられた人を、人々がイエス様のところに連れて来ます。イエス様なら、この罪人をどう扱うかということです。聖書の人々は定められている律法、掟、規則によって歩んでいます。罪を犯した人は石打の刑が定められているのです。イエス様ならどうするかと迫っているのですが、人々はイエス様の答え方により訴える口実を作ろうとしているのです。すなわち、律法通り、罪人を石打の刑に処しなさいと言えば、人々の反感を買うことになります。しかし、赦してやりなさいと言えば、律法を無視しているということになるのです。どちらの裁定も不利になるということです。その時イエス様は、「あなたたちの中で、罪を犯したことのない人が、まずこの人に石を投げなさい」と言われたのです。すると年長者から始まって、一人去り、また一人去って、結局誰もいなくなるのです。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。もう罪を犯してはならない」と祝福されたのでした。
前週の聖書も今週の聖書も、その続きとして示されています。前週はイエス様が「世の光」として人々に御心を示されていることでした。今週もその関連で示されています。すなわち、人々はイエス様を排除しようとしている状況になっています。イエス様が神様の御心を示していることに対して、聖書の人々の先祖アブラハムを持ちだして、アブラハムは自分達の父であると言い、その父の教えに従って生きていると言っているのです。それに対して、イエス様は神様の御心に聞き従わないことは、人間の思いによって生きていると指摘しています。アブラハムは神様から祝福されたとしても、人間であることです。人間は自分の思いで生きるのです。アブラハムは全体的には祝福された人です。しかし、いつも神様に対して自分の思いで歩んでいる姿もあるのです。神様はアブラハムを祝福し、「あなたを大いなる国民にする」と約束されました。しかし、アブラハムとサラとの間には子供が生まれなかったのです。それで人間的な思いで、サラに仕える女性から子供を得ることになります。しかし、神様は約束どおり彼らに子供を与えるのです。その様なアブラハムでしたが、神様の御心に従ったアブラハムでしたので、祝福された存在として、その後の人々はアブラハムを父と称するようになったのです。神様の御心ではなく、父であるアブラハムに従おうとする姿勢は、イエス様によれば、人の思いに従うということです。その姿勢は悪魔であるとも言われています。「あなたたちは、悪魔である父から出たものであって、その父の欲望を満たしたいと思っている」と厳しく示しています。
イエス様が人々に対して悪魔を父としていると示されたとき、私達はイエス様の荒野の試練を示されます。イエス様は人々の前に現れるにあたり、荒野で祈りの40日間を過ごします。それが終わると悪魔が現れるのでした。40日間の断食なので、まず食べることの誘惑です。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言います。それに対してイエス様は、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と示されたのでした。人間の思いはまず「食べること」です。しかし、人間は、もちろん食べることが課題ですが、何よりも「御心をいただきながら」生きることなのです。次に悪魔は、イエス様を都の建物の一番高いところに連れて行き、「飛び降りろ」と言うのです。必ず神様が支えてくれるということでした。それに対してイエス様は、「神様を試してはならない」と悪魔を退けました。そして、悪魔はこの世の栄華をイエス様に示します。悪魔を拝むなら、これらの栄華を与えると言うのです。するとイエス様は、「退け悪魔、神様だけを拝むのだ」と言われたのでした。
この悪魔の誘惑は、人間が持ち、望んでいることなのです。人間は悪魔の思いで生きようとしているのです。そういう意味で、「あなたがたは悪魔の子」であると示されたのです。「神様の御心をいただく」人生でなければならないのです。自己満足、他者排除の悪魔の姿勢は、私達の中に重く存在しているのです。その時、イエス様は「神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである」と示されています。「神様に属す」ということが、私達の生き方であると示されています。
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9月は敬老の日を迎えます。その高齢者は、今日まで神様の御心をいただきながら歩んで来られたと思います。そして、私自身高齢者ですから、今までの人生を振り返ったとき、神様の豊かなみ言葉により導かれていることを示されているのです。今回は事例を挙げませんが、私の存在を見つめるだけで、「神様の愛」をいただいて歩んできたことを示されているのです。
<祈祷>
聖なる神様。神様の御心により歩ませていただき感謝致します。神様の愛をしっかり受け止めて歩ませてください。主のみ名により、アーメン。
説教「社会を明るくする存在」
2024年8月25日、三崎教会
説教・「社会を明るくする存在」、鈴木伸治牧師
聖書・出エジプト記13章17-22節
賛美、(説教前)讃美歌21・155「山べにむかいて」
(説教後)讃美歌21・493「いつくしみ深い」
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8月の日曜日の礼拝は今日で終わりとなり、次週からは9月の礼拝です。この夏は暑い日が続きましたので、ようやく涼しくなるという思いとなります。そのような思いを持つとき、聖書に「時が来れば実現する神様の言葉」が示されてくるのです。この言葉はルカによる福音書の最初に、ザカリヤへの預言の言葉をザカリヤが信じなかったので、彼は口がきけなくなります。その時、天使が言った言葉が「時が来れば実現する神様の言葉」でした。御心が示される、必ず実現することを示しているのです。その時を待つということで、私も大変な経験を与えられました。本日、こちらの教会でみ言葉を取り次がせていただいていることも、お導きと示されています。4月4日のことですが、所用で横浜の桜木町に行きました。駅の近くに川があり、その川辺にベンチが置かれてあり、しばらくそこで休んでいましたが、約束の時間となりましたので、道路の向こう側に行かなければならず、横断歩道もありましたが、歩道橋がありましたので、その歩道橋は橋げたが木造であり、珍しい造りでもありましたので、渡り始めたことはなんとなく覚えています。その後、気が付いたところは病院のようで、しきりに連絡先を問われていたのでした。どうやら、その橋の上から転げ落ちたということです。それは後でだんだんと示されたことでした。連絡先を問われているのですが、実はその日は木曜日であり、連れ合いがデイサービスに行っているのです。夕刻の5時頃に送り届けられても、私以外はだれもいないのです。それで、いつもお世話になっているケアマネさんがいる六浦ケアプラザと言うことができました。そして、持っているスマホを示しながらラインとまでは言えたようで、そのまま意識を失ってしまったようです。階段から転げ落ちましたが、骨折はなく、しかし首を損傷したので、首が腫れあがり、気道が狭くなり息ができなくなったのでした。お医者さんが言うには、「あんたは死んだんだよ」と言うことでした。喉から管を肺まで通し、空気を送って命を取り戻したと言われました。一方、喘ぎながらの連絡先で、ケアマネさんとも連絡が取れ、ケアマネさんも我が家の事情を知っているので、連れ合いをショートステイに入れる手続きを取ってくれました。ラインには病院の電話番号をしるして、連絡するように書き込んでくれました。それで家族にも連絡がついたのでした。当初の病院の状況は全く記憶にありません、6月28日に退院しましたが、約三ヶ月の入院生活でした。橋の上から転げ落ちて、どなたかが救急車を呼んでくださり、運ばれた病院は脳卒中・神経脊椎センターでした。首を痛めているということで、その病院に運ばれたのですが、身体の全身の機能が止まってしまい、動かなくなってしまいました。三ヶ月の入院はリハビリに明け暮れたということです。喉の腫れもおさまりましたが、水ものはトロミを付けて飲むことにしています。三ヶ月の入院生活で、先ほども引用しましたが、聖書の言葉「時が来れば実現する神様の言葉」を示されながら過ごしていました。そして、退院してこちらの教会にお招きをいただいたとき、まさに「神さまの御心は実現する」と示されています。
2.
旧約聖書は出エジプト記13章17~22節により神様の導きが示されています。「火の柱、雲の柱」との表題であります。21節に「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた」と示されています。常に神様の導きが先立っていることを示しているのです。出エジプト記は聖書の人々がエジプトの国で奴隷として生きること400年間、その苦しみを神様が受け止め、モーセを通して脱出させたことが記されています。当初はエジプトに寄留する聖書の人々ですが、次第に聖書の人々が増えていくことに恐れをなしたエジプトの王様ファラオが、聖書の人々を奴隷にしてしまうのであります。希望もなく、日々、苦しみに生きていた人々でした。神様はモーセを通してエジプトに審判を与え、聖書の人々を解放したのでありました。それについては出エジプト記に記されています。
17節、「さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかも知れない、と思われたからである。神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた」と示しています。今、聖書の人々は新しい歩みが導かれているのです。しかし、人間は困難な状況になると、元の道に引き返そうとするのです。それで、モーセに詰め寄るのです。それは14章11節以下に記されます。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なしめるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」というのです。この時、神様は海の水を分け、人が通れる道を海の中に造りました。人々はその道を通って向こう岸に行くことができました。追いかけてきたエジプトの軍隊もその道を通っていくのですが、その時、海は元のようになりエジプトの軍隊は海に沈んでしまうのでありました。雲の柱、火の柱が新しい歩みを導いているのです。神様は現実におられて、先立って進まれているということです。日々、新しい歩みへと導いてくださっているのです。従って、その導きに委ねて歩むために、社会を明るくする存在を信じて歩むことなのです。
3.
主イエス・キリストは、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と示されています。新約聖書はヨハネによる福音書8章12~20節が今朝の聖書であります。今朝の聖書の冒頭、12節に「イエスは再び言われた」と示しています。再び言ったということ、それは前の段落で言われたことでありますが、8章11節で「わたしもあなたを罪に定めない、行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われたのであります。この8章には罪を犯した人が、イエス様と出会ったことが記されています。 人々が罪を犯した人をイエス様のところに連れてきます。この罪を犯した人は石で打ち殺せと戒律に定められているが、あなたならどうするかと言うのです。それはイエス様を試すためで、答え方によっては訴える口実になるのです。その時、イエス様は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この人に石を投げなさい」と言われました。これを聞いた人たちは、一人去り、また一人去り、結局、この人を連れてきた人たちは誰もいなくなってしまったのです。「あなたを罪に定めない」と言われたイエス様は、再び言われたのです。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と示されたのであります。イエス様の光に従う者は暗闇の中を歩まないのであります。もはや罪を犯す状況はありません。イエス様の光の中にいるからであります。ヨハネによる福音書は主イエス・キリストが世の光として来られた事を証しています。まず1章1節以下に「初めに言があった」と書き始め、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と示しています。この言をイエス・キリストに置き換えれば良いのです。9章5節にはイエス様が「わたしは、世にいる間、世の光である」と示されています。12章35節にはイエス様が「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい」と示しています。このようにイエス様を光として人々に示していますが、それは、ヨハネによる福音書はイエス様が世の人々に永遠の命を与えるために来られた事を証するからであります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と示されています。これがヨハネによる福音書の示しなのであります。社会を明るくする存在を示しているのです。
4.
社会を明るくする人々は多くおられます。先ごろの能登半島の地震にしても、すぐにボランティアの皆さんの協力があり、被災された皆さんは喜ばれています。各地で地震による被災があり、いつもボランティアの皆さんがよろこばれています。年末になると路上生活者の皆さんのために炊き出しが行われ、食事を提供する人々が紹介されています。この社会は決して暗いのではなく。いつも社会を明るくする人々がいるのです。その様な中で、イエス様も社会を明るくする存在と申し上げているのではありません。主イエス・キリストは永遠の命の光なのです。8月は平和をお祈りする歩みでありましたが、示されたことは「イエス様が私達の平和であると言うことでした。「キリストは双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現された」と示されています。私達は平和を叫びながらも戦争に巻き込まれているのです。イエス様こそ御自分を十字架にささげて、人と人とを結び合わせてくださっているのです。イエス・キリストは社会を明るくする存在ですが、社会に光を与えているのは永遠の命への道しるべなのであります。その場かぎりの明るさではなく、永遠の命への光として私達を導いてくださっているのです。
<祈祷>
聖なる御神様。イエス様を与えてくださり、ありがとうございます。十字架の救いの光に導かれて歩ませてください。主の御名により、アーメン。
説教「御心によって生きる」
2024年8月18日、六浦谷間の集会
説教・「御心によって生きる」、鈴木伸治牧師
聖書・出エジプト記34章4-9節
ローマの信徒への手紙7章1-6節
賛美、(説教前)讃美歌21・372「幾千万の母たちの」
(説教後)讃美歌21・402「いともとうとき」
1
8月も半ばとなっていますが、まだ日々暑い日を過ごしています。8月中は、平和についての示しをいただきながら過ごしています。前週は8月15日を迎え、いわゆる終戦記念日ですが、私達は敗戦記念日として迎えています。終戦記念日と称しますと、何の問題もなく、平和のうちに戦いが終わったというような思いになりますが、日本の戦争によって多くの人々が苦難と悲しみを持ったのであり、穏やかな終戦ではないのです。敗戦なのです。そこに示されている多くの悲しみを今も受け止めなければならないのです。その平和への祈りはまだ続いているのです。8月6日に広島に原子爆弾が落とされ、9日には長崎に原子爆弾が落とされ、二度と繰り返さない戦争を誓っています。そして8月15日には終戦記念日であり、戦争を起こさないことを宣言しているのであります。そうでありながら日本の平和憲法を改正しようとしています。世界的にも各地で戦争が起きており、日本が戦争に巻き込まれた場合、そのために日本の軍事力を強化しようとしているのです。
歴史を導く神様は、悪の歴史があったとしても、慈しみをもって導いてくださっているのです。今朝は、神様が常に御心をくださっているので、しっかりと御心を実践しつつ歩みたいのであります。
2
今朝の旧約聖書は、慈しみを持って導いてくださる神様を示しています。出エジプト記が示されています。聖書の人々はエジプトに寄留するようになります。それはアブラハム、イサク、そしてヤコブの時代になりますが、飢饉、冷害があり、エジプトの大臣になっていたヤコブの子ども、ヨセフのもとに身を寄せるようになるのです。ヨセフ物語は割愛しますが、すべては神様のお導きでありました。時代を経て、聖書の人々がエジプトに住むようになる経緯を知らない王様が、民族が増えて行く聖書の人々に脅威を感じて奴隷にしてしまうのです。奴隷の苦しみが続きます。その奴隷の人々を神様はモーセを立てて救い出すのでした。エジプトを出て、モーセが神様から奴隷の人々を救い出すように申しわたされたシナイ山の麓で宿営をするようになります。数字は確かではありませんが、100万人にもなる人々です。モーセは奴隷の人々を救いだした報告をするため、シナイ山に登ります。そこで神様は十戒を与え、これからは十戒を中心に生きるように示すのでした。十戒は人間が生きる基本的な戒めであります。モーセがシナイ山に登ったまま、なかなか戻らないので、聖書の人々は不安になります。それで、金の子牛の偶像を作り、これからは偶像を中心にして生きようと、お祭り騒ぎをするのでした。そこへ、モーセがシナイ山から下山します。偶像を中心に踊り狂っている惨状を見たとき、モーセは授かった十戒を偶像に投げつけます。偶像を拝んだ人々は滅ぼされたのでした。
モーセは再びシナイ山に登ります。神様が授けた二枚の石の板、十戒が刻まれていましたが、それを偶像に投げつけたので、十戒はなくなっていたのです。神様はモーセに石の板を用意させ、再びシナイ山に登るように命じるのでした。そこで、再び十戒が与えられるのです。それが今朝の聖書です。神様はモーセに言われました。「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」と示しています。神様がご自分の姿勢をモーセに示しているのです。この言葉は十戒にも示されています。神様の戒め、十戒を守らなければ、その責任を子ども、孫の代の三代、四代まで問うと言います。しかし、守れば幾千代にも及ぶ慈しみを与えると約束しているのです。十戒を守らなければ孫の代まで責任を問うのは、酷い神様だと思いますが、しかし、守れば永遠に、末永くお恵みをくださるというのですから、神様の慈しみ、お恵みは大きいと言えるのです。
今、神様が改めて十戒を与えたとき、聖書の人々の偶像礼拝という大罪を許しておられるのです。まさに神様は憐れみ深く、慈しみを与えられる神様なのです。そこで、モーセは人々の大罪の赦しを願い、この罪深い人々を神様の祝福の民としてくださいとお願いしているのです。こうして再び与えられた十戒です。モーセは奴隷の人々を救い出す使命を果たしましたが、更に人々が神様の祝福の民となるために、十戒を中心にして導いていくのです。十戒を中心にして、いろいろな掟や約束事が定められます。それらを守りながら歩むことが聖書の人々の歩むべき道なのです。その後も神様の約束を守らない人々ですが、神様は時には罰し、滅ぼされますが、忍耐強く、慈しみを与えられる神様なのです。
3
旧約聖書では、十戒に示されるように、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」との戒めがあります。そのため聖書の人々は神様の名を呼びません。神様の名を言わないで、「主」(アドナイ)と呼ぶようになるのです。このように聖書の人々の信仰に従い、今の聖書は神様の名を直接記さないで、神様の名の部分を「主」と訳しているのです。昔の文語訳聖書は「エホバ」と書いていましたが、口語訳聖書になったときから「主」と書き、神様の固有名詞は書かないことになっています。今の新共同訳聖書も同じようにしています。それ程、畏れ多い神様なのです。旧約聖書の人々にとって、神様は畏れ多い存在なのです。しかし、主イエス・キリストが人々の前に現れたとき、イエス様は畏れ多い神様を「父なる神様」として人々に示したのでした。イエス様は旧約聖書が証しする本来の神様、「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」神様を人々に示されたのでした。
それが今朝の聖書の示しなのです。今朝はヨハネによる福音書8章に記される「赦し」のイエス様であります。イエス様のもとに社会の指導者たちが、一人の女性を連れて来ました。この女性は罪の現場で捕えられた人です。指導者たちはこの女性を連れてきて、イエス様に言うのです。指導者たちは、罪の現場を捕えたので、モーセの戒めによれば、石で打ち殺せと命じているので、イエス様ならどうするかと問うているのです。イエス様を試して、訴える口実を得るためであると聖書は記しています。指導者たちの言い分に対して、イエス様が、この女性を赦してやりなさいといえば、モーセの戒めをおろそかにしているというでしょう。赦さないで、モーセの戒め通り石で打ち殺せといえば、情けを知らないと批判するでしょう。どちらの答えも指導者たちの批判の的になるのです。この様な狡猾な質問は度々ありました。イエス様は意地悪な質問をされても、しばらくはかがみこんで地面に何か書いていました。しかし、しつっこく質問するのでイエス様は立ち上がり、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この人に石を投げなさい」と言われたのです。「どうする、どうする」と答えを求めていた人々は、このイエス様の言葉に胸を刺されたのです。一人去り、また去り、結局、そこにはイエス様と女性の他は、誰もいなくなったのでした。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。もう罪を犯してはならない」と言われたのです。ここにイエス様の慈しみ、憐れみが示されています。新しい歩みを導いてくださっているのです。
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罪を犯した者が更生する、その取り組みが保護司の制度であり、刑務所や少年院です。大塚平安教会時代、まず横浜保護観察所の保護司を担当しました。少年院や刑務所を出所した人は、しばらくは保護司の指導下に置かれます。毎月、一度は保護司に生活状況を報告するのです。面接をしながら、人々と共に歩むことを示していました。また、その後は刑務所の教誨師、少年院の篤志面接委員を担いました。刑務所では、最初の30分間は聖書をみんなで読み、お話しをし、讃美歌を歌います。その後の30分間は懇談をします。出所したら教会に行ってもいいですか、という質問もありました。おおいに勧めましたが、その後の消息は分かりません。刑務所で聖書のお話しを求めている人たちは、他の人たちも同じでしょうが、自らの罪を悔い改めているのです。神様は慈しみを与えてくださっているのであり、新たに歩むならば、必ず祝福の人生へと導いてくださると示していました。皆さんが出所して、社会復帰したならば、まさに慈しみの神様のお導きを信じて歩んでもらいたいのです。少年院では、一対一の面接でした。刑務所ではグループの集会でしたが、個人面接で、今後のことを話しあうのでした。少年たちが悩んでいるのは、出所して、自分の家に帰ることです。近所の人たちは、悪い姿の自分を知っているのです。だから帰るのはつらいというのでした。確かに辛いけれど、もはや昔の自分ではないこと、皆さんに自分から心を開いて声をかけて行くこと、皆さんは必ず受け止めてくださることをお話していました。神様の慈しみ、お導きが与えられていることを示していたのです。
イエス様はいつもいつくしみ深きお導きを与えてくださっているのです。そのお導きを喜び、感謝しつつ歩みたいのであります。
<祈祷>
聖なる神様。常に慈しみを与えてくださり、お恵みをくださり感謝致します。新しい歩みへと導いてください。キリストのみ名によって。アーメン。
説教「真実を受け止める」
2024年8月11日、六浦谷間の集会
説教・「真実を受け止める」、鈴木伸治牧師
聖書・ヨブ記28章12-28節
コリントの信徒への手紙(一)2章11-3章9節
賛美、(説教前)讃美歌21・425「こすずめも、くじらも」
(説教後)讃美歌21・463「わが行くみち」
1
暑い日々を過ごしていますが、8月も半ばとなり、あと二週間もすれば終わりとなります。猛暑の戦いをしつつ歩んでまいりましたが、猛暑との戦いは間もなく終わりますが、常に真実を示されながら歩みたいのです。
8月はお休みと言う認識ですが、私の家にはお医者さん、看護師さん、ケアマネさん、ヘルパーさん、マッサージ師さん等が出入りしていますので、働き人の存在を示されています。私の連れ合い、そして私を含めてむお世話になっているのです。そのため、8月と言ってもお休みと言う感覚は薄らいでいるのです。そのような8月の歩みですが、8月は平和への願いが強く示される月でもあります。この暑い時に「平和」の祈りが深められたということです。8月6日は広島に、9日は長崎に原子爆弾が落とされ、多くの人々が犠牲となりました。それにより8月15日に、日本は敗戦を宣言したのであります。そのような報道が多くありましたが、平和への願いとしてのいろいろな取り組み等が紹介されていました。
私は敗戦の翌年、小学校1年生に入学しました。私は横須賀市浦郷というところで生まれました。すぐ近くに追浜飛行場という軍の施設がありました。戦争が激しくなってきて、飛行場の周辺の人々は強制移転をさせられたのでありました。横浜市金沢区六浦に移転したのは、私が4歳のときでした。1943年(昭和18年)8月でした。それから2年後に敗戦を迎えますが、戦争が激しくなっていくときであり、住んでいた家の上空をアメリカのB29という戦闘機が編隊をなし、横浜・東京方面に飛んでいく情況をいつも見ていたのです。そして、横浜方面の空が赤く染まっていたことも心に焼きついています。実際的な戦争体験、戦時下の苦しい体験はありませんが、戦争の悲惨は心に染み付いています。
日本の今の時代は多くの人々が戦争を知らない人々です。ゲームの世界では次々に相手をやっつけて勝利者になります。相手を倒すことをゲームの世界で覚えていく時代であります。青少年ばかりではありませんが、人を殺すことを平気で、ただ自分の感情で実行していくのであります。人間は努力して平和を実現していますが、真の平和ではありません。神様により人間が生きるために「真実を受けとめる」歩みでありたいのであります。。
2.
平和の実現は十字架を基としなければなりません。この十字架は神様の知恵によるものであります。「十字架の言葉は、滅んでいくものにとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(コリントの信徒への手紙<一>1章18節)と示されています。まさに、ここに神様の知恵があるのです。十字架という、世の人々にとっては愚かなことが救いの根源であるのです。知恵は神様の「真実の示し」なのであります。
旧約聖書はヨブ記が示されています。今朝のヨブ記の示しは神様の知恵を賛美しているのであり、人間は神様の知恵に向かわなければならないことを示しているのです。28章1節から11節までは、人間が知恵によってすべてを究め尽くしていることを歌っています。人間は金銀を掘り出し、鉄や銅、鉱石を地の底から掘り起こし、他のどんな動物も見つけることができない宝物を、人間は知恵によって探し出し、作り出していることを示しています。そのような知恵を持つ人間でありますが、「では、知恵はどこに見いだされるのか」と問いかけているのです。つまり、人間は知恵を持っているのでありますが、その知恵はどこから来るのであろうかということです。知恵は高価な金によっても買うことができず、海の中にも山の上にもないというのです。20節でも再び、「では、知恵はどこから来るのか」と繰り返しています。
23節に「その道を知っているのは神。神こそ、その場所を知っておられる」と示します。「その道」、「その場所」とは知恵の存在そのものであります。「神は地の果てまで見渡し、天の下、すべてのものを見ておられる。」と示しています。自然の移ろいは神様の知恵によって導かれているというのであります。それを、あたかも人間の知恵で金銀を掘り出し、宝物を積み上げていくというのであれば、それは間違いであるということなのです。神様の知恵が与えられて、すべてが導かれていることを知らなければならないのであります。「主を畏れ敬うこと、それが知恵。悪を遠ざけること、それが分別」と結論を示しています。「知恵」と言っていますが、平たく言えば「神様の御心」であります。従って、旧約聖書の示しは「神様の御心」、神様の知恵に向きなさいということなのです。
3.
主イエス・キリストが人々に現れ、神様の「真実」を示されているとき、人々はイエス様が示される「神様の真実」を受け止めることができなかったのであります。今朝の聖書、ヨハネによる福音書7章45節から52節までにはイエス様は登場していません。イエス様の示された知恵の波紋が記されているのであります。イエス様が示された神様の知恵に向く人、向かわない人を記しているのが今朝の聖書であります。今朝の聖書の前の段落で、主イエス・キリストは「乾いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われています。これは、神様から与えられる聖霊によって、人々が真実に生きることを示しているのであります。このヨハネによる福音書には「霊」、「真理の霊」、「弁護者」、「聖霊」と示していますが、旧約聖書が示す「知恵」「神様の真実」なのであります。
イエス様は神様の知恵を示し、聖霊を証しているのでありますが、人々はどのように受け止めてよいのか戸惑っている様子を今朝の聖書は示しています。「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、「この人はメシアだ」と言う者がいましたが、「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」と言う者もおり、群衆の間に対立が生じたと記されています。戸惑っている人々です。一方、指導者達は下役たちにイエス様を逮捕させるため差し向けるのであります。しかし、下役たちはイエス様に「真実を示され」、神様の知恵を示され、手を出すことができないで指導者達のところに帰りました。「今まで、あの人のように話した人はいません」と報告するのです。「お前たちまでも惑わされたのか」と指導者達は怒りを表すのでした。
ところが、この指導者の中にニコデモという人がいました。このニコデモという人は、ヨハネによる福音書3章に登場した人です。指導者ですから、昼間にイエス様とお話するのをはばかり、夜ひそかにイエス様のところに来るのです。その時、ニコデモはイエス様の知恵の言葉を聞くのですが、悟ることはできませんでした。しかし、今朝の聖書に示されるように、悟りが導かれつつあるようです。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と指導者達に言うのでした。それに対して指導者達は、「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」と言うのでした。ニコデモはイエス様の「真実」、神様の知恵に向かうようになります。その姿勢が、イエス様が十字架にかけられ、墓に埋葬されるとき、没薬と沈香を混ぜた物を持ってきて、共にイエス様を埋葬したのでありました。ニコデモが信仰を持ったとは記されませんが、イエス様の知恵、真理の霊に真実向かう人に導かれていたのであります。
こうしてヨハネによる福音書は戸惑う人々を記していますが、ヨハネの示しはイエス様の「真実を示されながら」、神様の知恵に向かうということであります。
4.
神様の知恵、神様の真実に向かうこと、聖霊の導きに委ねること、それが私たちの人生なのです。その人生が平和を作りだす存在へと導かれるのです。8月は平和への願い、祈りが深まるときであると冒頭に示されましたが、私たちは「神様の真実」を示され、受け止めています。平和を実現する者へと導かれているのです。エフェソの信徒への手紙2章14節以下の示しをいただき、今朝のメッセージの締めくくりとしたいと思います。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」と示されています。「神様の真実」に生かされている私たちは、どのような状況の中を歩みましょうとも、真実を受け止め、力強い人生を歩んでいるのです。
<祈祷>
聖なる神様。イエス様の十字架の救いは平和の基であります。この真実を受け止めつつ歩みたいのであります。主キリストのみ名により、アーメン。
説教「祝福の信仰」
2024年8月4日、六浦谷間の集会
説教・「祝福の信仰」、鈴木伸治牧師
聖書・士師記6章36-40節
ヨハネの手紙(一)5章1-5節
讃美、(説教前)讃美歌21・430「とびらの外に」
(説教後)讃美歌21・421「となりびとは」
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いよいよ8月の歩みになっています。8月は夏の盛りであり、暑い日々を歩むのですが、ようやく昨日の8月1日に関東地方の梅雨明けが発表されました。この8月の暑い時に「平和」の祈りが深められることに意味があると思います。8月6日は広島に、9日は長崎に原子爆弾が落とされ、多くの人々が犠牲となりました。それにより8月15日に、日本は敗戦を宣言したのであります。しかし、原子爆弾が落とされたことで、日本は敗戦を宣言したと申しましたが、アメリカ人の中には、それによって戦争が終わったのであるから、原爆投下を評価している人々がいるのです。しかし、日本人は原爆投下により多くの犠牲者が出たことについては、悲しむべきこととして受け止めています。原爆投下に対して、日本の真珠湾攻撃による犠牲者を悲しんでいる人々がアメリカには多くいるのです。日本人は原爆投下を謝罪すべきであると主張する人々がいますが、アメリカでは真珠湾攻撃を謝罪すべきだと主張している人々がいるのです。原因は戦争であります。戦争が起きてはならないのです。多くの人々が犠牲になったのでありました。戦争は悲しみを生むばかりで、例えば侵略して他の国を得たとしても、それは決してよいことではないのです。人の死を犠牲にして、国力が強くなったところで、国民は喜びません。人間は努力して平和を実現していますが、真の平和ではありません。神様により人間が生きるために、「永遠の命に至る食べ物」をいただことで、平和な世界が出来上がっていくのです。
2.
ギデオン物語は士師記6章から始まります。冒頭に、イスラエルの人々が神様の目には悪とされることを行っていたことが記されます。すなわち、偶像礼拝でありました。それで神様は偶像礼拝を懲らしめるために、ミディアン人の力を強くするのでした。ミディアン人はイスラエルの人々を苦しめます。6章6節に、「イスラエルは、ミディアン人のために甚だしく衰えたので、イスラエルの人々は主に助けを求めて叫んだ」と記されています。それで神様は助け主、士師を選びました。それがギデオンでありました。ギデオンは常に神様に御心を求める人でした。
神様のお使いがギデオンに現れ、ギデオンがイスラエルの危機を救済するために選ばれたことを告げます。するとギデオンは、お告げのしるしを見せて欲しいと願います。神様のお使いはギデオンが用意したパンと肉を岩の上に置かせます。神様のお使いが杖を岩に触れると岩から火が燃え上がり、パンと肉を焼き尽くしたのでありました。それによりギデオンは自分が士師、救助者として選ばれたことを確信いたします。そのギデオンに神様は偶像礼拝の祭壇を破壊するように命じます。ギデオンは言われたとおり、バアルの祭壇を打ち壊したのでした。そのとき、町の人々は祭壇を壊したギデオンを責めるのですが、それよりもミディアン人やアマレク人が結束してイスラエルに攻め上ってくるのです。ギデオンはイスラエル人に呼びかけて、せめて来る大軍と戦おうとするのです。そこで今朝の聖書になります。「もしお告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっているなら、羊一匹分の毛を麦打ち場に置きますから、その羊にだけ露を置き、土は全く乾いているようにしてください。そうすれば、お告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっていることが納得できます」と神様のお心をいただこうとしているのです。神様はそのように答えてくれました。さらにギデオンは、今度は反対に、羊の毛だけが乾いていて、土は一面に露が置かれることを願うのです。そのようになりました。このことにより、ギデオンは自分を通してイスラエルを救おうとされていることを確信するのです。旧約聖書において、士師と言われる人々は、自分を超えた神様が、自分を通して人々を救ってくださることを示されて、神様のご使命に応えたのでした。神様がお力を与えてくださっているのです。私たちは自分の力に頼っていますが、力は神様が下さることを聖書は示しているのです。
3.
聖書には仮庵の祭りがあります。奴隷の時代から解放されて、40 年間荒れ野の度を続けますが、その時代はテント生活でした。それが仮庵であり、後の時代になっても記念のお祭りがあるのです。その仮庵の祭りにイエス様が行くように勧めるのがイエス様の兄弟達であります。仮庵の祭りが近づいているとき、兄弟達は兄であるイエス様に言います。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちに見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」と言うのでした。つまり、こんな地方にいないで、都のエルサレムに行き、一旗あげなさいといっているのであります。イエス様がガリラヤ地方で神様の御心とその業をなしていることについては、イエス様の兄弟達も見たり聞いたりしていました。しかし、信じる姿勢ではなく批判的に見ていたということでしょう。きわめて人間的な思いで一旗あげなさいといっているのであります。その時、イエス様は都には行かないと言います。それはイエス様の時がまだ来ていないからであります。時とは、イエス様の救いの時なのです。後の十字架の救いであります。イエス様は後で都に行くことになるのです。しかも、隠れるようにして都に行ったのでありますが、公然と人々に教え始めるのでありました。隠れるようにして都に行ったものの、都ではイエス様についていろいろ噂されていました。今朝の聖書の後の部分12節で、「群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。『良い人だ』と言う者もいれば、『いや、群衆を惑わしている』と言う者もいた」と示されています。つまり、都の人々は主イエス・キリストを自分の思いで評価しているということであります。そのため、イエス様は、ご自身が神様の御心であることを証されているのであります。16節、「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」と示しています。神様の御心なのか、人間の思いであるのか、ここに主イエス・キリストがはっきりと示しているのであります。神様の御心に生きること、信仰の勝利者へと導かれるのであります。
4.
「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つのか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」とヨハネの手紙(一)5章で示されています。主イエス・キリストを救い主として信じる人が、信仰による勝利者であることを示しているのであります。
冒頭にも示されましたが、私はこの年齢になっても、神様の御言葉を伝える務めを与えられていますが、神様がお力を与えてくださっているからです。旧約聖書において、モーセは力強い働きをしていますが、彼は言葉に弱く、言葉をもって人を説得する力はありませんでした。むしろ、モーセに代わって言葉となったのはアロンと言う人でした。一つの力をモーセは与えられ、神様の大きな御用を成し遂げたのでした。力を与えられるということは、何もかも、できるということではありません。一つのことができるということ、神様によって一つの力が与えられているということです。その一つのことで、御心に生きるということを示されているのです。
<祈祷>
聖なる神様。お導きを感謝します。イエス様のみ救いがいよいよ力となりますようお導きください。主のみ名によりおささげします。アーメン