説教「祝福の人生に導かれる」

2024年3月24日、三崎教会

「受難節第6主日」 受難週礼拝

                      

説教・「祝福の人生に導かれる」、鈴木伸治牧師

聖書・創世記22章1-5節

   ヨハネによる福音書18章28-38節

賛美・(説教前)讃美歌21・305「イエスの担った十字架は」

   (説教後)讃美歌21・436「十字架の地に」

 本日は棕櫚の主日であります。本日より受難週となり、イエス様の最後の一週間になります。私のために主イエス・キリストは十字架への道を歩まれるのであります。主の十字架を仰ぎ見つつ歩む一週間であります。

  ヨハネによる福音書は12章12節以下に都に入るイエス様を記しています。都の人々は、なつめやしの枝を持って迎えに出たと記されています。前の口語約聖書は「棕櫚の枝」と訳していたので、この日を「棕櫚の主日」と称するようになりました。この都を入ってくるローマの総督やユダヤの王様等に対し、都の人々は儀礼的に歓呼して出迎えていました。その時、王様にしてもローマからの総督にしても、軍馬にまたがり、家来を連れてどうどうと入城してきます。今、同じように人々から歓呼して出迎えられているイエス様は、軍馬ではなく、ロバに乗っての入城なのです。ロバは大変おとなしい動物であり、平和の象徴でもありました。旧約聖書のゼカリヤ書9章9節に、「人々よ、歓呼の声をあげよ。あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ロバに乗って来る」と記されています。イエス様はこの預言を実現されているのであります。まさにイエス様は人々に平和のために、ロバに乗ってこられたのでした。

 主イエス・キリストはお弟子さん達に平和を与えています。それは14章27節ですが、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と示しました。そして、イエス様が復活されて弟子達に現れたとき、「あなたがたに平和があるように」と言われました。まず、平和を与え、弟子達を励ましたのであります。「平和」「平安」をヘブル語で言えば「シャローム」であります。平和であるということは、神様との関係が正しく導かれることなのであります。関係とは、人間が神様のお心により生きることであります。今や主イエス・キリストは平和を与えるために十字架の道をまっすぐに進まれているのであります。ひたすら神様のお心に従うイエス様でありました。私たちはこのイエス様の姿を示される前に、旧約聖書において、黙々と神様のお心に従う一人の人を示されています。それは、アブラハムという人でありました。

2                                                                                                                                  

 アブラハムは聖書の民族の最初の人であります。創世記12章に神様がアブラハムを選ばれることが記されています。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。」と示されています。アブラハムはこの神様の言葉に従い、旅立ちました。常に神様の御心に従うアブラハムでありました。そこで今朝の聖書は、創世記22章11節以下でありますが、22章1節から示されなければなりません。アブラハムと妻サラとの間にイサクと言う子供が与えられています。与えられたイサクを大切に育てていたアブラハムに神様が命じられるのです。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」との命令でした。他のことならともかく、愛する独り息子をささげなさい、と言われているのであります。アブラハムは神様からの命令を受けたとき、その神様の命令に従います。聖書はアブラハムの気持ちは一切記しません。ただ神様の命令に黙々と従うアブラハムなのです。神様からの呼び出しがあった時にも、神様の導きに委ねて故郷を後にしました。アブラハムは黙々と神様のお言葉に従う姿が記されているのです。イサクを神様にささげるということでありましても、愛する独り息子です。その子どもを殺して神様に献げなさいと言われ、何か自分の気持ちを言うべきでありましょう。アブラハムは神様のお言葉に従います。示されたモリヤの山に来て、祭壇を築き、息子を縛り、祭壇の薪の上に載せるのです。そして、息子を殺そうとしました。そこで、神様の声があります。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたは、自分の独り子である息子ですら、わたしにささげることを惜しまなかった」との御声を聞くのでした。この神様の言われることを示されるとき、私たちはどこかで聞いたような内容であることを知ります。そうです。独り子を惜しまないで献げること、それは神様ご自身でありました。ヨハネによる福音書3章16節、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と示されています。アブラハムのイサク奉献は、神様の人間の救いを示されたものなのです。

 ヨハネによる福音書は主イエス・キリストが、ご自分の「時」に向かってひたすら歩むことを証しています。今朝の聖書は、いよいよ大詰めになり、弟子に裏切られ、逮捕される場面であります。このヨハネによる福音書は12章で主イエス・キリストの都に入ることが記されています。そして、13章はイエス様がお弟子さん達の足を洗ってあげること、お弟子さん達と最後の晩餐をしたことが記されます。そして、その後14章から16章まではイエス様の決別説教が記されています。そして、17章ではイエス様のお祈りが記されているのです。イエス様の「時」に向かっての歩みを示されるのです。

 長い決別説教と長いお祈りをしたイエス様は、いよいよ行動を開始されます。18章1節に、「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた」と書き出しています。キドロンの谷と記されていますが、マタイとマルコによる福音書ゲッセマネの園としています。イエス様はたびたびここに来ており、イエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダもここはよく知っている場所でありました。ユダは一隊の兵士を連れ、このキドロンの谷に来たのです。その時、イエス様は「誰を捜しているのか」と言われます。彼らが「ナザレのイエスだ」と言うと、「わたしである」と言われました。その時、人々を手引きしてきたユダは後ずさりして、地に倒れたと記しています。さらに、イエス様は「誰を捜しているのか」と尋ねます。彼らは「ナザレのイエスだ」と言うと、「わたしである」とイエス様はご自分を示されたのであります。ここにもイエス様はご自分の「時」に向かっていることが証されています。「時」は十字架にお架かりになる時なのです。「時」は救いの時であるのです。

 今朝の聖書、ヨハネによる福音書は、ローマから派遣されている総督ピラトが決断できない姿を記しています。ユダヤ教の指導者たちによってピラトのもとに連れて来られたイエス様にピラトが尋問します。しかし、よくわからないので、またユダヤ人の方に行き尋ねます。それでまたイエス様に尋ねているのです。イエス様が、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言われました。するとピラトは、「真理とは何か」と言いますが、結局、イエス様を十字架に架けることを決するのでした。

 主イエス・キリストが十字架にかけられて死ぬことは、当時の指導者達のねたみによるものです。主イエス・キリストが人々に現れ、神様の御心を示したとき、人々は新鮮な思いでイエス様のお話しを聞きました。それはまったく新しい教えではなく、今までも示されていたことですが、イエス様により喜びと希望のお話しとして人々に示されたのであります。人々がイエス様に心を向けていくことを知った指導者たちは、「何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」(12章19節)と言うのです。時の社会の指導者達がねたみを持ち、イエス様を十字架で殺してしまいますが、神様はこの十字架を救いの基とされました。主イエス・キリストの十字架の死と共に、人間の奥深くにある悪い姿、自己満足、他者排除を滅ぼされたのです。私たちは、イエス様がご自分の死と共に、私の罪を担ってくださったことを示されるのであります。十字架は私たちの救いの原点です。私たちを救うために、ご自分の「時」のために、まっすぐに十字架の道を歩まれる主イエス・キリストを示されています。

棕櫚の主日はイエス様が十字架に向かう始まりです。従って、イエス様を信じる者は悲しみの一週間でもあるのです。日本のキリスト教は、この受難週を克己の生活とし、イエス様のご受難に与りながら歩むことになっています。しかし、イエス様のご受難でありますが、このご受難によって私達は救いへ導かれるのでありますから、喜びの始まりと言わなければなりません。そのことを強く示されたのは、以前、スペイン・バルセロナ滞在中にカトリック教会の棕櫚の主日ミサに出席してからでした。

スペイン・バルセロナカトリック教会の受難週ミサに出席しました。この日は子供たちも教会に集まります。子どもたちが棕櫚の枝をもって集まっています。この棕櫚の枝は露天商が売っているもので、それらを求めて子ども達が集まってくるのです。子ども達は神父さんと共に聖壇に上がります。そして、いよいよイエス様が都エルサレムに入られたとき、人々が歓呼してイエス様をお迎えしたように、子ども達は棕櫚の枝を聖壇の床に打ち鳴らし、喜びつつイエス様をお迎えするのでした。このミサの経験により、私は受難週の歩み方が変えられました。受難週はイエス様のご受難への道ですが、私たちお救い下さることなのです。喜びの始まりなのです。イエス様の十字架のお救いを感謝し、心から喜びたいのであります。その喜びを持つということが、祝福の人生を歩むと言うことなのです。

<祈祷>

聖なる御神様、十字架によりお救いくださいまして感謝します。救いを喜びつつ歩ませてください。キリストの御名によって、アーメン。

noburahamu2.hatenablog.com