説教「光を信じて歩む」

2020年3月29日、六浦谷間の集会
「受難節第5主日

 

説教、「光を信じて歩む」 鈴木伸治牧師
聖書、イザヤ書63章7-14節、コロサイの信徒への手紙2章6-15節
   ヨハネによる福音書12章20-36節
賛美、(説教前)讃美歌54年版・142「さかえの主イエスの」
   (説教後)讃美歌54年版・276「ひかりとやみとの」

 


 受難節第五週の歩みとなり、次週はいよいよ棕櫚の主日であります。「棕櫚の主日」と言うのは、イエス様が都のエルサレムに入ったとき、イエス様の噂を聞いていた人々が、「棕櫚の枝」を地に敷いて、喜んでイエス様を迎えたことに由来します。それは口語訳聖書のヨハネによる福音書が記していたからであります。共同訳聖書になってからは「棕櫚」ではなく「なつめやし」と訳されるようになりました。それでも、「棕櫚の主日」と言われているのです。それまでイエス様は人々に希望を与え、励まし、力づけ、病気や体の不自由な人を癒したりしていましたので、その噂は都の人々にも伝わっていました。だから、イエス様が都に入ってきたとき、人々は棕櫚の木の枝を道に敷き、あるいは自分の上着を道に敷いて絨毯のようにして、歓呼して迎えたのでした。こうして人々の喜びが高まったのですが、イエス様にとっての都入りは十字架への道の始まりであったのです。都に入ったのは日曜日でありましたが、その金曜日には捕えられて十字架につけられ、殺されてしまうのです。そのように一週間の出来事でしたが、今の私達はイエス様の十字架までの40日間が設定され、この期間を受難節として、イエス様の十字架の御苦しみを見つめ、その十字架が私をお救いになる根源として歩むのです。今は受難節として歩んでいます。
 イエス様の十字架の救いは、私達人間は「光を与えられる」として十字架の救いを受け止めることなのです。今の社会、人々は共に生きることを願いとしています。しかし、人を人とも思えない事件が起きています。毎日、連れ合いと共に夕刻には食事をするのですが、テレビで報道されるのは悲しい事件ばかりで、「どうして食事時に悲しい事件を報道するのかね」と話したりしています。そして、今は新型コロナウィルスが世界中に広がり、各国は感染予防対策に明け暮れています。非常事態宣言が発令され、外出禁止令がだされています。食料品の買い物や病院に行くことくらいは許されていますが、用もないのに外出すると処罰され、罰金まで取られることになります。いつもは賑わう商店街も閑散として、多くの店が占めているのです。人と人との接触が危険とされており、孤立した世界になっているのです。
 学校では卒業式の時期ですが、卒業生と保護者1名の出席ということで、在校生の出席はありません。4月になると入学式ですが、各小学校からのお知らせによると、やはり入学生と保護者1名の出席で、来賓は辞退とのことでした。世界的なこの現象ですが、私たちはイエス様の導きをいただいて歩んでいるのですから、十字架の御苦しみによりお救いくださったイエス様のお導きに委ねたいのです。今朝のヨハネによる福音書には「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」と示されています。イエス様の十字架は私たちにとって「光」なのです。この不安な社会の中で、イエス様の光が輝いていることを示され、今の状況を歩みたいのであります。

「わたしは心に留める。主の慈しみと主の栄誉を。主がわたしたちに賜った多くの恵み、憐れみと豊かな慈しみを」と旧約聖書でイザヤと言う預言者は述べています。イザヤ書63章7節以下64章11節までは「執り成しと嘆き」との表題で記されています。ここでは神様の救いの歴史を回顧しています。旧約聖書の信仰は、神様の導きを回顧することでありました。申命記26章に信仰告白が示されています。モーセが人々に信仰の告白を示したものです。「わたしの先祖は、滅び行く一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきことと、しるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました」と告白するのです。「乳」とは酪農で、動物たちの恵みをいただくということです。「蜜」とは植物の恵みです。要するに食べることに事欠ない土地であるということです。そのような土地に導かれている喜び、そして感謝をささげること、いつも歴史を回顧し、神様の導きと恵みを確認すること、それが信仰告白であることを示しています。
 今朝のイザヤ書も、まず歴史を導く神様に感謝しています。そして、神様は人々の救い主となり、導いておられることを示しているのです。イザヤ書63章9節、「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし、御前に仕える御使いによって彼らを救い、愛と憐れみをもって彼らを贖い、昔から常に、彼らを負い、彼らを担ってくださった」と示しています。歴史を回顧する限り、神様の慈しみと恵みを厳然と示されるのです。神様が人々を担ってくださっていることを示されるのです。しかし、聖書の人々は不信仰な姿をいつも現していました。例えば、モーセによってエジプトを脱出したときにも、日が経つうちに食料不足となります。モーセに詰め寄り、我々をこの荒れ野で死なしめるために連れ出したのかと迫るのです。現実しか見ないからであります。今置かれている状況は苦しい。これを打開するためにいろいろな方法を考えます。しかし、思うように打開できないのであります。その時、何よりも歴史を回顧することなのです。今の自分があること、それは神様の導きであり、慈しみと恵みにより今の自分がいるということなのであります。神様は私の苦難を御自分の苦難とされているのです。そして、歴史を通して聖書の人々を担ってきたのであります。人々と言えば、常に現実しか見ていません。現実が楽しければそれで良いという生き方です。だから、他の神々に心を向けていくのです。他の神々は楽しいのです。今の自分を楽しくさせてくれるのが、偶像の神様なのです。何故楽しいのか。それは自分の思いを投げかけており、その偶像により自分の思い通りの答えが返ってくるからです。そのような聖書の人々でありました。しかし、神様は忍耐をもって人々が神様の御心に帰るのを待っておられました。そして、人々を担って導くのであります。私を担う存在は神様であることを、人々は知るようになるのでありました。神様が私を担ってくださっているということ、その事実を信じて歩むことなのです。これが聖書の人々の信仰告白なのです。

私を担う存在は主イエス・キリストであります。その存在を証しているのがヨハネによる福音書12章20節からであります。今朝の聖書はイエス様の救いの時が今や到来したことを記しています。このヨハネによる福音書の始めの部分、2章1節以下に「カナの婚礼」におけるイエス様の御業が記されています。イエス様と弟子達がその婚礼に出席しています。婚礼の裏方ではぶどう酒がなくなったというので困惑していました。するとイエス様の母となっているマリアさんがイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言うのです。そのとき、イエス様は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と言うのでした。しかし、イエス様は水をぶどう酒に代えるという「しるし」を行ったのであります。「わたしの時」とは、イエス様の「救いの時」であります。今朝の12章23節でイエス様が「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われています。栄光を受ける時が救いの時でありますが、それは十字架にお架かりになる時なのであります。イエス様が、その時が来たと言われたとき、既に都のエルサレムに入られていたのであります。いよいよご受難に向かわれていくイエス様なのです。
 27節、「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」とイエス様はお祈りしています。ヨハネによる福音書は刻一刻受難に向かうイエス様の証をしていますが、イエス様の思いはどのようなものであるかについては記していません。このヨハネによる福音書には、マタイ、マルコ、ルカによる福音書に記されるように、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」との祈りはありません。今朝の聖書は「わたしは心騒ぐ」と言っていますが、「何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」と言っています。そのような言い方をしていますが、「わたしはまさにこの時のために来たのだ」とイエス様は御自分の「時」であることをはっきりと示したのであります。イエス様はこの御自分の時に向かって進まれておられるのです。
 イエス様はこの御自分の「時」を実現することによって、どうなるかを示しています。それは「多くの実を結ぶ」ことになると言われるのであります。御自分を一粒の麦と言われました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ」と示しておられます。一粒の麦の種が地に蒔かれたとき、それは死ぬのではありません。しかし、あたかも死んだように、しばらくは地面の中にいることになるのです。しかし、やがて芽が出てきます。すくすくと伸びて花が咲き、そして豊かな実をつけることになるのです。イエス様は十字架によって死なれました。しかし、それで終わりではありません。三日目に復活されました。人間は救われたのです。イエス様の十字架は、わたしの中にある自己満足、他者排除の罪を滅ぼされたのです。十字架を仰ぎ見るほどにわたしの罪が小さくなっていくのであります。「自分の命を愛するものは、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と示されています。「自分の命を憎む」とは自己満足、他者排除を滅ぼすことであります。十字架を仰ぎ見ることは「自分の命を憎む」ことなのであります。自分中心の思いをなくすことは、主イエス・キリストのお心をいただくことであります。それにより永遠の命へと導かれるのであります。旧約聖書にも記されているように神様が人々を担っているのです、。イエス様が十字架により私たちを担ってくださっているのです。今朝は、私たちを担ってくださっている神様を示されているのです。

私を担う存在は主イエス・キリストです、と示されても、どのように担われているのでしょうか。それをよりよく示すのは「あしあと」という詩であります。この詩は作者不明とされていましたが、最近になってマーガレット・F・パワーズさんの作詞であることが判明しています。そして、パワーズさん自身がこの詩ができる過程を本にまとめています。詩が書かれることになるのは、パワーズさんが若い時、交際していた男性、その人は牧師になる人ですが、結婚するにあたり、両親との兼ね合いで悩んでいたときです。そのような悩みの中で書いた詩を「私は夢を見た」という題にしたのです。それから、二人は結婚し、美しい娘を与えられて、幸せな生活でした。ある時、家族でピクニックに出かけたとき、娘が川に落ち、滝つぼまで落ちていくのです。そのショックでパワーズさんのお連れ合いは心臓発作で倒れてしまいます。しかし、そこにいた人々により娘は助けられ、お連れ合いはすぐさま病院に搬送されて一命を取り戻しました。療養中のお連れ合いに、(昔の言い方ですが)看護婦さんが、作者は知りませんが、と言いつつ一編の詩を読んでくれました。その時、お連れ合いは、「私は、作者を知っています。私の妻です」と言ったのでした。若い時、パワーズさんの青春の悩みの中で作られた詩が、今や人生の究極にいる人に大きな力を与えることになりました。そして、今や世界中の人々がこの詩によって、主イエス・キリストこそ私を担う存在であることを示されているのであります。
「あしあと」
ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、私とともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」
主はささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた」。
 私を大切にしてくださる方、主イエス・キリストが私のいかなる人生にも関わり、導いてくださっているのです。旧約聖書は神様が人々を担い、祝福の歩みへと導いたことを示していました。そして、新約聖書はイエス様がわたしたちを担うために十字架にお架かりになられたことを示しているのです。イエス様が私たちを担ってくださっているのです。
<祈祷>
聖なる神様。イエス様が私たちを担って下さり感謝します。十字架に励まされて歩ませてください。主イエス・キリストのみ名によりおささげいたします。アーメン。

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