説教「真理の人生に導かれる」

2020年4月5日、六浦谷間の集会
「受難節第6主日」 棕櫚の主日

 

説教、「真理の人生に導かれる」 鈴木伸治牧師
聖書、創世記22章1-5節

   ヘブライ人への手紙10章19-25節
   ヨハネによる福音書18章28-31節
賛美、(説教前)讃美歌54年版・130「よろこべや」
   (説教後)讃美歌54年版・515「十字架の血に」

 


 受難節第六週の歩みとなり、本日は棕櫚の主日であります。本日より受難週となり、イエス様の最後の一週間になります。私のために主イエス・キリストは十字架への道を歩まれるのであります。主の十字架を仰ぎ見つつ歩む一週間であります。
ヨハネによる福音書は12章12節以下にエルサレムの都に入るイエス様を記しています。ベタニアでマリアさんからナルドの香油を注がれたのは、過越祭の6日前でした。エルサレムの都に入るのは「その翌日」でした。従って、5日前になりますが、過越祭は金曜日になりますので、次第にイエス様の救いの時が迫っているのであります。その時、祭りにやってきている多くの人々が、なつめやしの枝を持って迎えに出たと記されています。前の口語約聖書は「棕櫚の枝」と訳していたので、この日を「棕櫚の主日」と称するようになりました。このエルサレムの都を入ってくるローマの総督やユダヤの王様等に対し、都の人々は儀礼的に歓呼して出迎えていました。その時、王様にしてもローマからの総督にしても、軍馬にまたがり、家来を連れてどうどうと入城してきます。今、同じように人々から歓呼して出迎えられているイエス様は、軍馬ではなく、ロバに乗っての入城なのです。ロバは大変おとなしい動物であり、平和の象徴でもありました。ゼカリヤ書9章9節に、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ロバに乗って来る」と預言が記されています。イエス様はこの預言を実現されているのであります。まさにイエス様は人々に平和をもたらすために、ロバに乗ってこられたのであります。
 主イエス・キリストはお弟子さん達に平和を与えています。それは14章27節ですが、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と示しました。そして、イエス様が復活されて弟子達に現れたとき、「あなたがたに平和があるように」と言われました。まず、平和を与え、弟子達を励ましたのであります。「平和」「平安」をヘブル語で言えば「シャローム」であります。平和であるということは、神様との関係が正しく導かれることなのであります。関係とは、人間が神様のお心により生きることであります。私たちの六浦谷間の集会も礼拝の終わりに、「あなたに平安がありますように」と相互挨拶をしていますが、神様との関係が正しく導かれますように、と祈りあっているのであります。。
 今や主イエス・キリストは平和を与えるために十字架の道をまっすぐに進まれているのであります。ひたすら神様のお心に従うイエス様でありました。私たちはこのイエス様の姿を示される前に、旧約聖書において、黙々と神様のお心に従う一人の人を示されています。それは、アブラハムという人でありました。

 アブラハムは聖書の民族の最初の人であります。創世記12章に神様がアブラハムを選ばれることが記されています。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と示されています。アブラハムはこの神様の言葉に従い、旅立ちました。その時、アブラハムは75歳でありました。「あなたを大いなる国民にする」との神様のお言葉であり、それは妻サラとの間に子どもが与えられ、そして子孫が増えていくことを考えます。しかし、彼らには子どもができませんでした。妻サラは自分に子どもができないので、アブラハムと相談して、奴隷として使っていたハガルから子ども得ることになるのです。ハガルにアブラハムの子どもが生まれたとき、アブラハムは86歳でありました。その後、神様はアブラハムと契約を交わします。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしはあなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう」(創世記17章1節~)と言われています。この時、アブラハムは99歳でありました。神様は「大いなる国民にする」あるいは「ますます増やす」と言われるのでありますが、アブラハムとサラには子どもができないのであります。そのあせりもあり、奴隷のハガルから子どもを得ることになったのです。
 しかし、ようやく彼らに子どもが与えられます。その頃はアブラハムもサラも高齢となり、子どもができることなど考えも及ばなくなっていたのです。神様は彼らに一年後には子どもができることを告げます。その時、妻サラは思わず笑ったのであります。今更そんなことはありえないという訳です。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年を取った自分に子どもが生まれるはずがないと思っているのか。主に不可能なことがあろうか」と戒められるのであります。こうして与えられた子どもがイサクでした。高齢になって生まれたイサクであります。もちろん彼らは大事に育てました。
 そこで今朝の聖書は、創世記22章11節以下でありますが、22章1節から示されなければなりません。与えられたイサクを大切に育てていたアブラハムに神様が命じられるのです。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」との命令でした。他のことならともかく、愛する独り息子をささげなさい、と言われているのであります。アブラハムの時代は紀元前1950年頃とされています。その頃、人身御供が行われているような時代でありました。そういう風習が反映しているものと思われますが、しかし、このアブラハムがイサクを犠牲として献げることは聖書の大きな主題なのであります。
 アブラハムは神様からの命令を受けたとき、その神様の命令に従います。聖書はアブラハムの気持ちは一切記しません。ただ神様の命令に黙々と従うアブラハムなのです。神様からの呼び出しがあった時にも、神様の導きに委ねて故郷を後にしました。その後、サラとの間に子どもができないので、奴隷のハガルを通して子どもを得てしまいますが、しかしアブラハムは黙々と神様のお言葉に従う姿が記されているのです。イサク奉献にしても、愛する独り息子です。その子どもを殺して神様に献げなさいと言われ、何か自分の気持ちを言うべきでありましょう。しかし、アブラハムは神様のお言葉に従うのであります。示されたモリヤの地の山に来て、祭壇を築き、息子を縛り、祭壇の薪の上に載せるのです。そして、息子を殺そうとしました。そこで、神様の声があります。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたは、自分の独り子である息子ですら、わたしにささげることを惜しまなかった」との御声を聞くのでした。
 この神様の言われることを示されるとき、私たちはどこかで聞いたような内容であることを知ります。そうです。独り子を惜しまないで献げること、それは神様ご自身でありました。ヨハネによる福音書3章16節、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と示されています。アブラハムのイサク奉献は、神様の人間の救いを示されたものなのです。

 ヨハネによる福音書は主イエス・キリストが、ご自分の「時」に向かってひたすら歩むことを証しています。今朝の聖書は、いよいよ大詰めになり、弟子に裏切られ、逮捕される場面であります。このヨハネによる福音書は12章で主イエス・キリストの都入り、エルサレム入城が記されています。そして、13章はイエス様がお弟子さん達の足を洗ってあげること、お弟子さん達と最後の晩餐をしたことが記されます。そして、その後14章から16章まではイエス様の決別説教が記されています。そして、17章ではイエス様のお祈りが記されているのです。イエス様の「時」に向かっての歩みを示されるのです。
 長い決別説教と長いお祈りをしたイエス様は、いよいよ行動を開始されます。18章1節に、「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた」と書き出しています。話し終えるとではなく、祈り終えるとであります。キドロンの谷と記されていますが、マタイとマルコによる福音書ゲッセマネの園としています。イエス様はたびたび来ており、イエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダもここはよく知っている場所でありました。ユダは一隊の兵士と、祭司長達やファリサイ派の人々が遣わした下役達を連れ、このキドロンの谷に来たのです。その時、イエス様は「誰を捜しているのか」と言われます。彼らが「ナザレのイエスだ」と言うと、「わたしである」と言われました。その時、人々を手引きしてきたユダは後ずさりして、地に倒れたと記しています。さらに、イエス様は「誰を捜しているのか」と尋ねます。彼らは「ナザレのイエスだ」と言うと、「わたしである」とイエス様ははっきりとご自分を示されたのであります。
ここにもイエス様はご自分の「時」に向かっていることが証されています。「時」は十字架にお架かりになる時なのであります。その「時」は救いの時であるのです。
 今朝の聖書、ヨハネによる福音書は、ローマから派遣されている総督ピラトが決断できない姿を記しています。ユダヤ教の指導者たちによってピラトのもとに連れて来られたイエス様にピラトが尋問します。しかし、よくわからないので、またユダヤ人の方に行き尋ねます。、それでまたイエス様に尋ねているのです。イエス様が、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言われました。するとピラトは、「真理とは何か」と言いますが、結局、イエス様を十字架に架けることを決するのでした。
アブラハムが愛する息子を神様に奉献するとき、その時代の礼拝を理解しなければなりません。人身御供もありますが、動物犠牲でもあるのです。旧約聖書で神様にささげる礼拝として「播祭」があります。これは動物を祭壇で焼き、香ばしい煙を天に昇らせます。神様に絶対的従う姿勢でもあります。それから、「罪祭」という礼拝があります。この罪祭が聖書の深い意味になってくるのであります。罪祭は罪を犯した者が、動物を犠牲にして祭壇で焼き、自分が犯した罪の悔い改めを行うのです。祭壇で焼き殺される動物は自分の代わりであるのです。主イエス・キリストが十字架にお架かりになるのは、罪祭としての意味があります。私たちの罪が赦されるために、旧約聖書的発想であれば動物を犠牲にしなければなりません。その動物として主イエス・キリストご自身がなられたのです。
 主イエス・キリストが十字架にかけられて死ぬことは、当時の指導者達のねたみによるものです。主イエス・キリストが人々に現れ、神様の御心を示したとき、人々は新鮮な思いでイエス様のお話しを聞きました。それはまったく新しい教えではなく、今までも示されていたことですが、イエス様により喜びと希望のお話しとして人々に示されたのであります。人々がイエス様に心を向けていくことを知ったファリサイ派の人々は、「何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」(12章19節)と言うのです。この思いが高まり、ついにイエス様を殺す計画になったのでした。
 時の社会の指導者達がねたみを持ち、イエス様を十字架で殺してしまいますが、神様はこの十字架を救いの基とされました。主イエス・キリストの十字架の死と共に、人間の奥深くにある悪い姿、自己満足、他者排除を滅ぼされたのです。私たちは、イエス様がご自分の死と共に、私の罪を担ってくださったことを示されるのであります。十字架は私たちの救いの原点なのです。私たちを救うために、ご自分の「時」のために、まっすぐに十字架の道を歩まれる主イエス・キリストを示されています。

棕櫚の主日はイエス様が十字架に向かう始まりです。従って、イエス様を信じる者は悲しみの一週間でもあるのです。日本のキリスト教は、この受難週を克己の生活とし、イエス様のご受難に与りながら歩むことになっています。しかし、イエス様のご受難でありますが、このご受難によって私達は救いへ導かれるのでありますから、喜びの始まりと言わなければなりません。そのことを強く示されたのは、バルセロナ滞在中にカトリック教会の棕櫚の主日ミサに出席してからでした。
カトリック教会の受難週ミサに出席しますと、まず教会の庭に集まります。子どもたちが棕櫚の枝をもって集まっています。この棕櫚の枝は露天商が売っているもので、それらを求めて子ども達が集まってくるのです。おそらく、庭に集まるのはイエス様をお迎えする準備の時であると思いました。一通りの祈りの儀式が終わると、一同で教会の中に入って行きます。子ども達は神父さんと共に聖壇に上がります。20人ほどの子ども達がいたでしょうか。そして、いよいよイエス様が都エルサレムに入られたとき、人々が歓呼してイエス様をお迎えしたように、子ども達は棕櫚の枝を聖壇の床に打ち鳴らし、喜びつつイエス様をお迎えするのでした。子ども達もその様なミサを喜びつつ、イエス様をお迎えしているのでした。このミサの経験により、私は受難週の歩み方が変えられました。受難週はイエス様のご受難への道ですが、私たちを「真理の道に導かれる」始まりなのです。今、救いが始まったのです。「真理の道」の喜びへと導かれるのであります。
<祈祷>
聖なる御神様、十字架の救いを与え、真理の道を歩ませて下さり感謝します。いよいよ真理の道を歩ませてください。キリストの御名によっておささげいたします。アーメン。

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