説教「祝福の人生が与えられているので」

2018年8月19日、横浜本牧教会 
聖霊降臨節第14主日

説教・「祝福の人生が与えられているので」、鈴木伸治牧師  
聖書・イザヤ書5章1-7節
    マルコによる福音書12章1-12節
賛美・(説教前)讃美歌21・361「この世はみな」
     (説教後)讃美歌21・567「ナルドの香油」
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 今朝は、久しぶりに講壇に招かれ、共に御言葉に向かうお恵みを与えられまして感謝しています。私は、来年5月で80歳になるのです。50年間、伝道者として歩んでまいりましたが、「祝福の人生が与えられているので」、この務めが導かれてまいりました。「祝福の人生」と申しますと、いかにも幸せな人生であった、という印象です。しかし、私たちが「祝福」をいただくということは、「しあわせになる」ということではないのです。「祝福をいただく」ということは、「神様の御心をいただく」ということなのです。神様の御心は、しあわせになるということではありません。神様の御心をいただくあまり、むしろ苦しい歩みもあるのです。神様の御心は、これはイエス様のお導きと申し上げた方が良いのかもしれません。「あなたがたは自分のように隣人を愛しなさい」と教えられています。このお導きに従って生きるとき、祝福の人生であると言えるのです。
 私は30歳で伝道者になりました。4年間、東京の青山教会で伝道師、副牧師として務めましたが、その後、宮城県の教会からお招きをいただきました。その教会の牧師は40年間、教会の牧師と幼稚園の園長を担ってきたのです。従って、私も牧師、園長として就任するつもりでいました。そうしましたら、園長は教会員が担うので、牧会に専念してもらいたいということでした。なんか話が違うので、しばらく承諾の連絡もしないでいました。しかし、そのようなことであっても、その姿勢を受け止めたのでした。今から示されることは、それが「祝福をいただく」ことであったのです。いろいろな人間関係がありましたが、神様の祝福をいただいて歩んだということです。その後、神奈川県の教会にお招きをいただきまして就任しました。こちらでは牧師であり、幼稚園の園長であり、学校法人の理事長まで担わなければなりませんでした。30年間、「祝福をいただきながら」務めさせていただきました。「祝福をいただきながら」のお勤めであったということです。その教会に赴任して、それほど後でもないのですが、ある時、役員会で、一人の役員が「先生の説教は何だか分らない」と言われるのです。赴任したばかりで、やはりきつい言葉でした。さらに、そのように述べた役員さんは、何かと教会の歩みを批判するのでした。「祝福をいただきながら」の務めであったと思います。「祝福をいただく」ということは、現実の歩みの中で、イエス様の御教えをしっかりといただき、実践することなのです。それは苦しいことがありますが、祝福に生きるということは、次第に喜びへと導かれて来るのです。
 「先生は楽観的ですね。O型でしょ」と言われます。それは、間違いではありません。しかし、O型だからではなく、「祝福をいただいているので」、楽観的に見える歩みにもなるのです。50年間の牧師人生の証しをさせていただいているようですが、今朝示されていることは、「祝福の人生を与えられているので」、私たちはいろいろな出来事を経験しながらも、現実を神の国として歩むことができるという示しをいただいているのです。

 今朝の旧約聖書は「祝福の人生を歩みなさい」との示しであり、そのためイザヤ書5章から御心が示されています。この5章は「ぶどう畑の歌」とされています。聖書を読むと、ぶどうに関する教えや事柄が多く出てきます。聖書の世界は、昔はカナン地方と言われ、今はパレスチナ地方と言われています。ぶどうの栽培が盛んな地域です。従って、聖書にも、何かとぶどうと言う果物が関わって来るのです。ぶどう、ぶどう酒の言葉は合わせると400回以上も使われているということです。カナンは神様の約束の土地でありました。人々は荒野の旅をしている時にも、「乳と蜜の流れる」土地として目指していたのです。まさにぶどうの収穫は豊かな恵みでありました。
 そのような大切なぶどうを不信仰としてたとえているのが本日の聖書です。本来、ぶどうは良い収穫となり、おいしいぶどう酒が造られるのです。これが当たり前なのに、そうではない場合を示しています。「ぶどう畑の愛の歌」をうたっているのですが、それは悲しみの愛の歌でありました。「わたしの愛する者」がぶどう畑をもっており、手をかけて栽培していたのです。そして酒ぶねを造り、良いぶどうが出来るのを待っていたのであります。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうでありました。どうして酸っぱいぶどうができてしまったのか。「ぶどう畑の愛の歌」は悲しい歌でありました。本来、喜びつつ愛の歌をうたうのに、喜べない歌をうたわざるを得ないのであります。
 酸っぱいぶどうは本来のぶどうではありません。ぶどうは甘くておいしい果物なのです。しかし、実際は本来のぶどうではないということ、ぶどうを栽培している人の意図ではないということです。手をかけ、大事に育てているのに、酸っぱいぶどうであるということは、ぶどうが違った方向になっているということです。新約聖書にも主イエス・キリストがぶどうのたとえをお話ししています。イエス様ご自身が「まことのぶどうの木」であるとしています。そして「あなたがたはその枝である」と言うのです。枝がぶどうの木にしっかりとつながっていれば、おいしいぶどうの収穫があるのです。しかし、豊かに実をつけない枝があるのです。そうであれば、その枝は切り捨てられると言っております。豊かな実を結ばないのは、枝がぶどうの木にしっかりとつながっていないからなのです。枝の根本が腐っていたり、虫に食われているので、しっかりとつながっていないので収穫が出来ないということです。虫に食われてしまったので、その枝の責任ではないのですが、ここでは収穫が目的ですから、やはりしっかりとぶどうの木につながる枝を示しているのです。ぶどうの枝がぶどうの木にしっかりとつながっていればおいしいぶどうの収穫があるということ、人々が神様にしっかりとつながっていれば、平和な歩みが導かれるということなのです。旧約聖書の酸っぱいぶどうも、やはりぶどうの木と枝の関係です。枝がしっかりとぶどうの木につながっていないので、酸っぱいぶどうの収穫となってしまったのです。これらのたとえは神様と人間とのかかわりを示しているのです。
 このたとえを示しながら、人々が神様の御心をしっかりといただかない姿勢を指摘しているのです。神様ではない、人間が造った偶像の神に心を寄せている人々なのです。その結果が酸っぱいぶどうの実なのでした。7節に記されるように、「主は裁きを待っておられたのに、見よ、流血。正義を待っておられたのに、見よ、叫喚」と言っております。「主は裁きを待っておられる」とは、裁きにより、良いものが多く示されることです。それなのに裁きも行えない流血騒ぎとなっているのです。更に、神様は正義を待っておられるのに、世の中は叫喚であると言うのです。あっちでもこっちでも人々が叫び、さわいでいることです。誰も正義をもって生きる人がいないのです。これらの言葉は語呂合わせになっています。「裁き」の「ミシュパト」と「流血」の「ミスパハ」の言葉が似ているのです。「正義」の「ツェダカ」と「叫喚」の「ツェアカ」が似ている言葉なのです。
 神様の御心をいただいて歩んでいるならば、おいしいぶどうの実が収穫できる、すなわち祝福の人生へと導かれるということです。「喜びの福音をいただく」ということなのです。「ぶどう畑の歌」は喜びの歌でなければなりません。悲しい歌にならないように、「喜びの福音をいただく」努力が必要なのです。旧約聖書であれば、神様が与えた律法、十戒の戒めを守りつつ、人々が共に生きることなのです。それが「祝福の人生を与えられているので」、人々が平和の社会を作りつつ歩むということなのです。

 旧約聖書は、祝福の歩みを拒否としている人々が示されました。本来はおいしいぶどうの収穫なのに、酸っぱいぶどうの収穫なので、その結果を悲しく歌っています。いわゆる結果を悲しんでいるのです。それに対して新約聖書も祝福の歩みを拒否している人々を示しています。新約聖書は、悲しみの結果に至る原因をはっきりと示しているのです。マルコによる福音書12章1節からが本日の聖書です。「ぶどう園と農夫」のたとえとして記されています。今までイエス様はガリラヤ地方を中心に神様の御心を人々に教え、また御業を行ってきました。しかし、その後は都のエルサレムにやって来るのです。イエス様の救いを完成させるためであります。イエス様が都エルサレムに入場するのは11章に記されていますから、今朝の聖書は都に来たばかりなのです。人々の歓呼のうちに都に入りました。それまでのイエス様のうわさは都の人々にも聞こえています。人々は、そんなに素晴らしい働きをするイエス様が都に来られたことを喜んでいるのです。
喜んで迎えた人々ですが、人々はイエス様を拒否したのでした。本日の新約聖書のお話しは、結局、これまでの聖書でも示している通りなのです。イエス様はその現実をたとえでお話しされました。ある人がぶどう園を持っており、農夫たちに貸して旅に出ました。貸したのですから、その収入があるわけです。それでぶどう園の主人は、旅先から貸しているぶどう園の収入を得るために僕を送りました。ところが農夫たちは主人の僕を袋だたきにして返したのです。主人はまた別の僕を送りました。同じように暴行を受けたのでした。更に僕を送ると、農夫たちはその僕を殺してしまいました。こうして主人が送る僕はことごとく暴行を受けたのでした。ついに主人は、息子なら敬ってくれるだろうと送ります。しかし、農夫たちは主人の息子であるということで殺してしまうのです。そのため主人は帰ってきて、農夫たちを殺し、ぶどう園は他の人たちに貸したと記しています。
結局、このお話しはイエス様ご自身について示しているのです。主人の息子はイエス様ですが、その前に送られた僕たちは、旧約聖書に登場する預言者たちでした。神様の御心を人々に示した預言者は迫害を受け、困難な状況を生きなければなりませんでした。迫害を受け、殺されているのです。今、神様の御心として世に現れたイエス様を、エルサレムの人々は歓呼して迎えましたが、結局は「十字架につけよ」と叫び、イエス様を殺してしまうのです。このお話しのとおりになるのです。人々から捨てられてしまうイエス様です。しかし、イエス様は十字架の死を受けながら、十字架を救いの原点とされたのでした。イエス様が、私の中にある自己満足、他者排除を十字架によって滅ぼされたのでした。だから私たちはいつも十字架を仰ぎみつつ、祝福をいただいているのです。

 「祝福の人生が与えられているので」、私たちは現実が神の国あるという喜びを持って歩んでいます。祝福をいただく、それは神様の御心をいただくということであります。「牧師先生とお話をしていると、いつも祝福があるようにと言われます」と言われる方があります。まさにその通りです。牧師はいつも祝福を述べているのです。祝福というので、幸せをお祈りしている意味もありますが、祝福は幸せをお祈りしているのではありません。幼稚園ではお誕生日のお友達に祝福のお祈りをしています。お誕生日のお友達の頭に手を置いて、「神様のお恵みと祝福がたくさんありますように」とお祈りするのです。子供たちもそのときには手を組んで祝福のお祈りをいただくのであります。「神様のお恵みと祝福」というとき、同じような言葉であると思います。同じような意味合いの言葉であり、幸せがいっぱいあるようにお祈りしているようです。しかし、「お恵み」はまさに神様のお導きでありますが、「祝福」はお恵みではなく、神様の御心をいただいて歩むことなのです。「お友達を自分と同じように愛する」こと、それが祝福の歩みなのです。 
 「祝福」は盗み取れ、とは聖書の示しでもあります。祝福は与えられて、神様の御心に歩むことなのですが、ただ与えられるのではなく「盗み取れ」と示されています。旧約聖書にイサクの二人の息子、エサウヤコブについて記されています。二人は双子で生まれましたが、エサウが先に生まれたので兄となり、ヤコブは弟になります。昔のことであり、兄が父の跡を継ぐことになります。そのためには父が跡を継ぐ子どもに祝福を与えるのであります。ヤコブは双子で生まれたのに、自分が弟になり、そのため父の跡を継ぐことができないことで、面白くないのです。それで、ある時、野山で狩りをして帰ってきたエサウが、その時、ヤコブは煮物をしていたのですが、兄は空腹のあまり、弟の煮物を求めたのでした。すると、ヤコブは兄の権利と交換する条件で、煮物をエサウに与えるのでした。エサウは権利等あまり考えていなかったのです。そして、いよいよ父のイサクが兄のエサウに祝福を与えるときがきました。祝福をいただくことは跡継ぎになることです。それには、エサウが狩りをして、美味しい料理を父のイサクに差し出すことでした。それを知ったヤコブは、エサウより先に美味しい料理を作り父に差し出しました。父イサクは年を取って、目がよく見えない状態です。ヤコブであるのにエサウだと思って、ヤコブに祝福を与えてしまうのでした。ヤコブエサウが受けるべき祝福を盗み取ったということです。祝福をいただくということは、神様の御心である十戒を守りつつ歩むということです。その後のヤコブは波乱に満ちた人生でありますが、祝福を盗み取ったほどに、神様の御心によって歩んだということが聖書の示しになっています。
 「祝福の人生が与えられているので」、私たちはイエス様の御心により歩むことを示されています。しかし、それは受け身であり、もっと積極的に祝福の人生を歩みなさいということです。「祝福を盗み取れ」と聖書は示しています。説教中、居眠りをしていたとしても、礼拝の終わりには、襟を正して祝祷をいただいています。それが祝福を盗み取ることでもあるのです。祝祷は祝福の祈りであるのです。積極的にイエス様の十字架の救いをいただき、「自分と同じように隣人を愛する」歩みが求められているのです。
 今朝は、「祝福の人生が与えられているので」、現実をしっかりと受け止めつつ歩むことを示されたのであります。
<祈祷>
聖なる神様。祝福を与えてくださり感謝いたします。イエス様の御心を力強く歩み、この世の平和を実現させてください。主イエスの御名によりおささげします。アーメン。