説教「人生の中心をいただきつつ」

2018年8月26日、六浦谷間の集会 
聖霊降臨節第15主日

説教・「人生の中心をいただきつつ」、鈴木伸治牧師  
聖書・ホセア書11章1-9節
    コリントの信徒への手紙(一)12章27節-13章13節
     マルコによる福音書12章28-34節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・383「十字の旗掲げて」
    (説教後)讃美歌54年版・529「ああうれし、わが身も」
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 本日は8月26日で、8月の最後の礼拝です。特に最後と言っているのは、この8月中の礼拝説教において、説教の導入はいつも平和について示されていました。言うまでもなく、8月は広島や長崎に原子爆弾が落とされ、多くの人々が犠牲となり、悲しみは今も続いているのです。終戦記念日もありました。しかし、終戦と言えば、何か自然に戦争が終わったかのように受けとめられますので、終戦とは言わず、敗戦記念日と言っております。日本が戦争をしており、その戦争に負けたのであるということを受けとめる日としています。敗戦という言葉の中には、日本が国力を誇り、アジアを侵略し、さらにアメリカに宣戦布告し、太平洋戦争に発展していきました。小さな国で資源もなく、戦うことは最初から無理があったのであります。強引な姿勢が敗れたということなのであります。多くの人々が死んでいったのであります。とにかく生きている者も死んだものも悲惨な状況を歩まなければなりませんでした。日本の歴史を振り返って、決して戦争を再び起こしてはいけないと示されています。しかし、今は世界のあちらこちらで戦争が行われています。多くの人が亡くなっているのに、自分たちの主張が通るまで戦いを続けているのです。
 今の世界情勢を示されるとき、それぞれの国が国力を誇ろうと、兵器の開発、軍事パレード等が行われ、報道されています。北朝鮮が核を持つという姿勢は、国力を示し、存在を確かなものにしているのです。結局、人間は武力や経済力により頼みつつ歩んでいるのです。平和を祈りつつ歩む私たちは、「人生の中心をいただきつつ」歩みたいのです。私達は中心を神様の御心としています。神様の御心が、私達の人生の中心となる時、世界の平和へと導かれるのです。
 人生の中心をいただくために、私たちは日曜日には教会に集められ、御心をいただいているのです。8月は第二日曜日の8月12日は伊勢原教会の礼拝に招かれ、説教を担当させていただきました。伊勢原教会については、この4月から伊勢原幼稚園の園長を務めさせていただいています。4月の第一日曜日の礼拝に出席させていただきました。園長の就任式がおこなわれたからです。しかし、伊勢原幼稚園の園長ではありますが、その後は教会の礼拝には出席することはありませんでした。個人的には六浦谷間の集会を開いているからです。さらに月に一度、または隔月ですが三崎教会のお招きをいただいています。本来、園長として伊勢原教会の礼拝に出席しなければならないのですが、申し上げたような事情がありました。この度、お招きをいただきましたのは、伊勢原教会の牧師の休暇ということで礼拝説教を担当させていただいたのです。そして、第三日曜日、8月19日は横浜本牧教会の礼拝に招かれ、御言葉を取り次がせていただきました。今年の3月まで横浜本牧教会付属の早苗幼稚園の園長を務めさせていただきました。こちらでは毎月第二日曜日の礼拝にて説教を担当させていただきました。久しぶりに同教会の講壇に立たせていただいたのです。7月は29日に三崎教会の礼拝説教を担当させていただきましたので、この夏はいろいろな教会の皆さんと共に礼拝をささげたのであります。
 それぞれの土地で歩みながら礼拝に導かれ、「人生の中心をいただきながら」歩んでいることを示されています。日々の歩みで、日曜日はお休みということで、予定をこなしたいのですが、まず教会の礼拝に導かれることです。この日に、人生の中心を与えられなければ、いつ、そのような日があるのでしょうか。週日は何かとするべきことがあるのです。仕事、勉強、家庭の歩みがあるのです。まず、日曜日に「人生の中心をいただきつつ」、そして一週間を力強く歩みたいのです。私達の歩みとは、イエス様が導いてくださっている「隣人を自分のように愛する」歩みなのです。愛のある人生、それが人生の中心であるのです。

 旧約聖書は、今朝はホセア書の示しです。11章1節からが今朝の聖書ですが、「神の愛」として記されているのです。聖書の示しは、特に旧約聖書の示しは、神様に選ばれた聖書の人々は神様の御心に忠実に従わなければならないのです。しかし、人々は神様の恵みの導きを忘れて、偶像を拝むような姿になります。その人々の堕落を神様は悲しみ、預言者を通して御心に戻そうとするのです。その繰り返しが旧約聖書の記録であるということです。ですからイザヤ書エレミヤ書エゼキエル書等に記されていることは、神様から愛されている人々が、その愛を裏切り、偶像を拝むことで神様の審判があり、預言者の説得が続くのです。
 今朝のホセア書も形式は同じです。神様の御心から離れている人々を、神様の愛へと戻すことがホセアの働きであります。しかし、ホセア書は他の預言者たちとは異なった教えで人々の心を取り戻そうとしているのです。すなわちホセアは自分の体験において、人々に神様の愛を教えているのです。ホセアは自分の人生の中に神様の御心を示されて生きてきているのです。人生の戦い、自分自身との戦いがあり、その中に与えられている神様の御心により、辛い、苦しいながらも祝福の歩みへと導かれてきている自分の体験において、神様の愛を示され、人々に神様の御心として示したのであります。ホセアの体験とは、結婚の体験でした。ホセアはゴメルと言う女性と結婚しました。このゴメルは神殿娼婦でありました。古今東西、神殿、神社仏閣には娼婦と言われる人々がいました。お参りに来た人は娼婦と遊んで帰るということが、信仰的に許されていたようです。ホセアはその娼婦であるゴメルを妻に迎えたのです。しかしながら、ゴメルはその後、ホセアと結婚していながら再び娼婦になるのです。従って、ホセアはこのゴメルとは離婚することになります。そういう自分を示されたとき、神様と人々との関係を示されるのです。神様に選ばれ、神様の御心により歩む聖書の人々との関係は、ある場合には花婿と花嫁の関係、あるいは夫婦の関係として、密接な関係でありました。その関係を裏切って、人々が別の偶像を拝むようになったとき、夫婦の関係が壊れたのであります。ホセアは神様と人々との関係をその様に示されたとき、それは自分とゴメルとの関係として示されるのでした。従って、ホセアは自分のところから去って行ったゴメルを赦し、再び夫婦の関係を持つのです。そして、これは神様と人々との関係であることを示すのでした。神様は愛をもって、忍耐をもって、人々が御心に戻るのを待っておられるのです。
 「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに、彼らはわたしから去って行き、バアルに香をたいた」と示しています。偶像崇拝に走った人々を述べています。そういう人々ですが、神様は、「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか」と示すのです。裏切りの人々ですが、「見捨てない」、「引き渡さない」と示しています。ホセアは、これが「神様の愛」と示しているのです。自分の体験において、示されている神様の御心なのです。その体験的神様の愛を示すとき、人々は実際的な神様の導きとして示されるのでした。旧約聖書のホセアが自分の体験において、人々に生きる指針を与えているのです。

 聖書に示されている神様の御心をいただくことが、私達の幸せの原点なのです。新約聖書はそのことを示しているのであります。イエス様の教えが人々の幸せの原点であることを示しているのです。
 今朝の新約聖書は「最も重要な掟」として示されています。イエス様のお話しを聞いていた当時の社会の指導者、律法学者と言われる人ですが、イエス様の教えを称賛しているのです。そして、イエス様が人々の疑問に対して立派にお答えになっているので、改めて「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねたのでした。この律法学者は、どうしてイエス様が立派なお答えをしていると思ったのでしょうか。それは前の部分を見なければなりません。イエス様は人々から、二つの難問を突き付けられたのです。一つは税金問題でした。新約聖書の時代は、聖書の国はユダヤでした。ユダヤは当時のローマに支配されていたのです。従って、人々はローマに対して税金を納めなければなりませんでした。もちろん、人々は面白くないと思っていたのです。それで時の指導者たちがイエス様を陥れようと、意地悪な質問をします。「ローマの皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているのでしょうか。適っていないのでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきではないでしょうか」との質問です。「律法に適う」と言うのは、聖書の社会は旧約聖書以来、定められている法律があります。それを聖書は律法と言っています。皇帝に税金を納めることなど、もちろん律法には規定されていないのです。律法が定められたときは、ローマには支配されていなかったからです。これは大変意地悪な質問になります。律法には定められていないのであるから、税金を納める必要がないと言うものなら、支配しているローマに訴えることが出来ます。これは反逆罪になります。しかし、ローマに支配されているのであるから、支配者に税金を納めなさいというものなら、ユダヤ社会の反感を買うことになるのです。どちらに応えても不利になるのです。そのとき、イエス様は「銀貨を見せなさい」と言い、銀貨を示しながら「これは誰の肖像と名前か」と人々に聞くのです。人々が「皇帝のものです」と答えます。するとイエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われたのでした。この世に生きる者として、国民の責任があるわけです。それが税金です。ローマに支配されているのですから、義務としての税金は納めなければならないのです。しかし、同じ皇帝の肖像が刻まれた銀貨でも、お恵みにもなるのです。その銀貨によって生きる支えがあるのです。それが神様のお恵みというものです。人々はイエス様のお答えに驚いたと言われます。
 もう一つの問題がありました。復活についての問題です。7人の兄弟がいて、最初に結婚した兄嫁と兄弟がみんな結婚したというのです。これには説明が必要です。聖書の国は小さな国であり、それぞれの家族は子孫を残すという決まりがあります。兄が子供を設けないで死んでしまった場合、弟が兄のお嫁さんと結婚して、その家に子孫を残すことです。今日の聖書はそのことが背景になっていますが、7人の兄弟がみんな兄のお嫁さんと結婚します。その場合、天国ではこのお嫁さんは誰の奥さんかということなのです。そのときイエス様はどのようにお答えになったのか。私達を失望させるようなお答えをしています。「死者の中から復活するときには、めとることもなく嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と言われたのです。この世で愛しあっていた二人は、結ばれませんが、あの世で一緒になることを信じているのです。それを天国ではめとることも嫁ぐこともないと言われると、なんか希望が消されていくようです。しかし、このイエス様のお答えで、気が楽になる人もいるわけです。もうあの人とは一緒ではなくなるという喜びを持つ人もいるかもしれません。いずれにしても私達は肉体を持っているから好きになり、愛する営みをするのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われる通りであります。こうしてイエス様は人々の意地悪な質問にお答えになったのです。
 これらのイエス様と人々との対話を聞いていたときの社会の指導者、律法学者が立派な答えだと称したのです。そして、さらに大切な生きる指針は何かとイエス様に尋ねたのでした。すなわち「人生の中心は何か」と聞いているのです。そのときイエス様が示されたのは、「わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ということです。さらに、「隣人を自分のように愛しなさい」とお示しになっています。これは明らかに旧約聖書で示されている十戒を二つにまとめておられるのです。「神様を愛し、隣人を自分のように愛する」こと、旧約聖書以来十戒をもって教えられてきましたが、イエス様は二つにまとめて示されたのでした。これがイエス様の教えです。これがキリスト教の中心的な教えなのです。この教えを守ること、実践することが「人生の中心いただきながら」生きることなのです。その「人生の中心をいただいて」いますよ、と今朝の聖書は教えているのです。

 その人生の中心をいただくのが礼拝なのです。礼拝にて神様の御心をいただき、新しい一週間を歩むことなのです。前週は横浜本牧教会の礼拝説教でした。「祝福の人生が与えられているので」と題して御言葉を取り次がせていただきました。その中でも、「祝福」を中心に示されました。祝福を与えられるということは、神様の御心によって歩むことなのです。「祝福」というと、何か幸せな人生を与えられることのようですが、祝福をいただくことにより、神様の御心をいただいている者へと導かれるということなのです。礼拝では、最後に牧師が「祝祷」を与えてくれますが、祝祷は祝福のお祈りなのです。説教によって御心が示され、そして最後に祝祷が与えられるのは、祝福の人生を力強く歩むようにとのお祈りなのです。
 私は礼拝の終わりに祝祷をしますが、祝福のお祈りをしても、後奏が終わるまで手を上げています。祝福が終わると、すぐに手を下ろされる牧師もおられますが、祝福のお祈りは後奏が終わるまで、お祈りしているのでした。この取り組みは、私も教えられたことなのです。教団書記を担っている頃、台湾の教会との交流会があり、その時、台湾の牧師が祝祷は後奏が終わるまで手を上げ続けたことで示されたのでした。「人生の中心をいただきつつ」歩みなさいとお祈りしているのです。
<祈祷>
聖なる神様。御心を与えてくださり感謝いたします。御心は祝福の人生であることを人々に証し出来ますよう導いてください。主イエスの御名によりおささげします。アーメン。