説教「御心をいただく」

2021年12月19日、六浦谷間の集会

降誕節第1主日」       

                      

説教・「御心をいただく」、鈴木伸治牧師

聖書・サムエル記上2章1-3節、ローマの信徒への手紙1章1-7節

ルカによる福音書1章46-56節

賛美・(説教前) 讃美歌21・259「いそぎ来たれ、主にある民」

(説教後) 讃美歌21・264「きよしこの夜」

 

 クリスマスおめでとうございます。今年も昨年に続いてでありますが、困難な状況の中で主イエス・キリストのご降誕をお迎えできますお恵みを感謝しています。新型コロナウィルス感染予防をしつつの歩みでありますが、この困難な状況の中で主イエス・キリストが立ちたもうてお導きくださっているという信仰を持って歩んでいるのであります。今までは、この六浦谷間の集会に、クリスマス礼拝には知人の皆さんがご出席くださっていました。しかし、昨年からは皆さんのお集りはできなくなっていますので、家族だけで礼拝をささげています。この状況の中で、教会によっては礼拝が出来なくなっており、教会員の皆さんは自宅でお祈りしていると示されています。六浦谷間の集会として、私たちがこのところで礼拝をささげるお恵みを感謝しているのです。

 このところで礼拝をささげるということ、長い歴史において示されていたと思います。一つは、三番目の姉との会話が示されています。2006年にこの家を新しくしたとき、その三番目の姉が、「ここで礼拝をささげるの ? 」と聞くのでした。その時は、家を建て替えかえたものの、ここで礼拝をささげることについては思ってもいませんでした。それで姉の質問には否定したのでした。しかし、礼拝をささげる場へと導かれているのです。もう一つのことは、私が小学校5年生か6年生の頃でした。3年生の時より教会学校に出席していましたので、家で真似事でありますが、教会学校の礼拝を一人で行っていたのです。その真似事が忘れられません。もうその時から、この六浦の家で礼拝がささげられることが示されていたと思っています。日曜日にどこかの教会に出席するために車や電車を利用しなくても、このところで「御心をいただく」お恵みをいただいているのです。

 今朝の旧約聖書、サムエル記上2章は、偉大な存在の祭司サムエルの誕生と、その母ハンナのお祈りが記されています。聖書の民族は全体をまとめる指導者の存在がいませんでした。そういう中で祭司サムエルが人々の中心になって神様の御心を人々に示していたのです。そのサムエルが誕生するのはハンナさんからでした。ハンナはエルカナという人の妻でしたが、子どももができないことで悲しんでいたのです。それで神殿に行ってはお祈りしていたのです。ついに神様はハンナのお祈りを顧み、男の子を産ませたのでした。ハンナは、この子どもは神様のお恵みにおいて与えられたので、この子供を神様にささげたのでした。それでサムエルは神殿に仕えるエリに預けられるのでした。それは後のお話になりますが、サムエルが与えられた時、ハンナは神殿に行き、感謝のお祈りをささげたのでした。それが今朝の聖書になっています。

 「主にあってわたしの心は喜び、主にあってわたしは角を高く上げる」と祈っています。ハンナはサムエルが生まれるまで、悩みの多い、苦しい歩みをしていたのです。昔のことですから、一夫多妻時代であり、ハンナの夫エルカナはもう一人の妻ペニナがいました。ペニナには息子や娘たちが複数おり、ハンナは自分には子どもが出来ないので苦しんでいたのです。それで神殿に行ってはお祈りしていたのです。すると神殿の祭司エリが、目をつぶって口だけを動かしているハンナに対して、「いつまで酒に酔っているのか。酔いをさましなさい」というのです。それに対して、ハンナは自分の悩み、苦しみを神様にお祈りしていのであると答えるのでした。そのようなハンナのことを記すほどにハンナの切なるお祈りを示しているのです。そのお祈りにこたえて下さった神様を証ししているのです。まさに「主にあってわたしの心は喜びます」と祈るのでした。

 大塚平安教会時代のことですが、結婚した女性たちが「ハンナの会」を結成しました。結婚したものの子どもが生まれないので、数人の女性たちが会を作ったのでした。しかし、数年後にはそれぞれ子供が与えられ、いつの間にか「ハンナの会」は消えてしまいました。示されたいのは、ハンナは生まれた子どもは神様にささげたということです。ハンナの子どもサムエルは「御心をいただく」ために、常に神様にお祈りしていたのです。少年サムエルが「しもべはここにおります。主よ、お話ください」と祈ったことは、よく知られている聖書です。ハンナの神様に向かう姿はサムエルに引き継がれていくのです。御心をいただくハンナさんでした。

旧約聖書のハンナさんのお祈りを示されながら、新約聖書マリアさんの信仰を示しています。今朝はマリアさんの喜びの歌が記されています。マリアさんに天使ガブリエルが現れ、「あなたから救い主が生まれる」と告げられた時、マリアさんはあり得ないことであることを申し上げます。マリアさんはヨセフさんとは婚約中であり、まだ結婚はしていなかったのです。そのような自分から子供が生まれることなんか考えられないことです。「どうして、そのようなことがありえましょうか」というマリアさんに、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。神にはできないことは何一つない」と天使ガブリエルは言いました。その言葉を受け止めたマリアさんは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と告白するのでした。受胎告知であります。この信仰告白こそ必要なことであり、私達も神様の御心に養われて、導かれてきたのです。

 今朝の聖書、マリアさんが賛歌を歌うのは、エリサベトからお祝いの言葉を示されたときでした。ガブリエルのお告げを示されてから、マリアさんは知り合いのエリサベトを訪ねます。エリサベトはイエス様より先に現れるバプテスマのヨハネの母になる人です。マリアさんは「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と告白した後で、エリサベトを訪問するのです。そのとき、エリサベトはマリアさんに対し、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言ったのです。その言葉を聞いてマリアさんは賛歌を歌ったのでした。「わたしの魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌います。

 プロテスタント教会マリアさんを信仰の対象にはしません。カトリック教会では、マリアさんを拝み、導きの存在としています。だいたいカトリック教会は、マリア教会が多いことになっています。スペイン、ローマ、フィレンツェの街を訪ねましたが、どこのカトリック教会もマリア教会ということでもあります。本当にマリアさんの信仰なのです。マリアさんの神様のお言葉を受け止めた人を信仰の対象にしているのです。立派な信仰であると思っています。そういう中でスペインのバルセロナにあるサグラダ・ファミリア教会はヨセフさんの教会でもあります。ヨセフさんを信仰する人々が教会を造ったのです。そのサグラダ・ファミリア教会は、つい最近、「マリアの塔」が完成し、人々の喜びとなり、希望となっています。やはり、カトリック教会はマリアさんの信仰を礼拝しているのです。

 クリスマス物語は神様のお告げをうけとめ、「わたしは主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」との姿勢で生きることなのです。まさに聖書は「御心をいただく」ことを示しています。その一つの姿を示されておきます。聖書にはザアカイさんがイエス様に導かれたことを示されています。ルカによる福音書19章に記されています。ザアカイさんは徴税人の頭でした。聖書の国は、当時ローマ帝国に支配されていました。従って、人々はローマに税金を納めなければなりませんでした。誰もそういう仕事をする人はいません。しかし、生活のためにはその仕事をする人々がいます。人々は徴税人を悪者と思っていました。ザアカイさんが住むエリコの町をイエス様とお弟子さんたちが通りかかります。イエス様の噂を聞いている人たちは、イエス様を見ようと大勢の人々が道にいました。ザアカイさんも見に行きますが、大勢の人々で見ることができないのです。そこで木に登り、上から見ていたのです。イエス様がその木の下に来た時、イエス様は上を見上げ、ザアカイさんに声をかけました。「ザアカイさん、今日はあなたの家に泊まりたい」というのです。今まで一度も会ったことのないイエス様が、ザアカイさんの名を呼び、しかもザアカイさんの家に行くというのです。驚きながらもザアカイさんはイエス様を自分の家に案内し、もてなしをしました。ザアカイさんはイエス様とお話をしているうちに心が開かれました。ザアカイさんは、イエス様により「御心をいただく」歩みへと導かれたのです。

 クリスマスはイエス様の出現の喜びです。「お言葉どおりこの身になりますように」と祈りつつ、「御心をいただく」人生へと導かれるのです。御心をいただく人生が、喜びの人生なのであります。

<祈祷>

聖なる神様。救いを与えて下さり感謝いたします。クリスマスの喜びが、全世界の人々に示されますよう。キリストの御名により、アーメン。

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