説教「幸いな者へと導かれ」

2017年12月24日、六浦谷間の集会 
「降誕前第1主日」 クリスマス礼拝

説教・「幸いな者へと導かれ」、鈴木伸治牧師
聖書・ルカによる福音書1章46-56節
賛美・(説教前)讃美歌21・259「いそぎ来たれ、主にある民」、
    (説教後)讃美歌21・264「きよしこの夜」


 クリスマスおめでとうございます。今年も皆さんと共にイエス様のご降誕をお祝いすることができ感謝しています。2010年3月に大塚平安教会及びドレーパー記念幼稚園を退任しましたが、その後、自宅にて六浦谷間の集会として礼拝をささげるようになりました。しかし、月に一度、横須賀上町教会で説教と聖餐式を担当するようになりました。そして、隔月でありますが三崎教会の礼拝説教を担当させていただくようになりました。横須賀上町教会は、担任教師がそれまでは伝道師でありましたが、牧師になりましたので、2016年7月をもちましてお手伝いは終了することになりました。そうしましたら昨年の10月から横浜本牧教会付属幼稚園の園長を担うようになり、教会も月に一度、礼拝説教を担当するようになりました。その他は六浦谷間の集会として礼拝をささげています。従って、隠退してからは毎週のように礼拝説教を担当しているのです。現役の頃は、教会が他の牧師をお招きすることがあり、そのときは説教をしなくてもよいことになります。さらに8月は牧師のお休みとして礼拝説教も二、三回はお休みをしていました。隠退してからの方が礼拝説教を毎週しているのですから、まあ、お恵みとして受け止めています。
 昨年の10月から横浜本牧教会早苗幼稚園の園長を担うようになり、再び子供たちと共に過ごすことができ、喜んでいます。毎日幼稚園に行くのは大変なので、月水金の三日間にしています。前任のドレーパー記念幼稚園時代も、朝の登園のときには門に立ち、朝の挨拶をしながら子供たちを迎えていました。今の幼稚園でも朝のお迎えをしています。そのため朝は7時30分には家を出ます。車で行っていますので8時30分頃には幼稚園につき、朝の教職員礼拝に出て9時からお迎えをするのでした。前任の時代は教会の牧師を務め、その他にもいろいろな役職がありましたので、本当に大変でした。しかし、今の幼稚園は先生たちや事務の皆さんがいろいろと仕事をしてくれるので、園長としてはあまり職務がないようでもあります。それでも責任者として務めているのです。次年4月からは専任の牧師、園長が就任しますので、3月までの職務となっています。
 現在の歩みを報告する意味でお話しをしました。本日はクリスマス礼拝であり、皆さんと共に礼拝をささげ、お祝いできますことを喜んでいる次第です。


 今朝はクリスマス礼拝です。イエス・キリストのお生まれになったことにより、私達の生き方が導かれるのであります。クリスマスに関わる人々が、どのようにイエス様のお生まれになったことを受け止め、それにより祝福の人生を歩んだか、そのことを特に示されたいのであります。
 今朝はマリアさんの喜びの歌が記されています。マリアさんに天使ガブリエルが現れ、「あなたから救い主が生まれる」と告げられた時、マリアさんはあり得ないことであることを申し上げます。マリアさんはヨセフさんとは婚約中であり、まだ結婚はしていなかったのです。そのような自分から子供が生まれることなんか考えられないことです。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」というマリアさんに、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。神にはできないことは何一つない」と天使ガブリエルは言いました。その言葉を受け止めたマリアさんは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と告白するのでした。受胎告知でありますが、今年の大塚平安教会のカレンダーは、この受胎告知でありました。従って、今年の一年間、マリアさんへの受胎告知を見つめつつ、また示されつつ歩んできたのです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」との信仰告白こそ必要なことであり、私達も神様の御心に養われて、導かれてきたのです。
 今朝の聖書、マリアさんが賛歌を歌うのは、エリサベトからお祝いの言葉を示されたときでした。ガブリエルのお告げを示されてから、マリアさんは知り合いのエリサベトを訪ねます。エリサベトはイエス様より先に現れるバプテスマのヨハネの母になる人です。マリアさんは「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と告白した後で、エリサベトを訪問するのです。そのとき、エリサベトはマリアさんに対し、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と言ったのです。その言葉を聞いてマリアさんは賛歌を歌ったのでした。「わたしの魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌います。
 プロテスタント教会マリアさんを信仰の対象にはしません。カトリック教会では、マリアさんを拝み、導きの存在としています。だいたいカトリック教会は、マリア教会が多いことになっています。スペイン、ローマ、フィレンツェの街を訪ねましたが、どこのカトリック教会もマリア教会ということでもあります。本当にマリアさんの信仰なのです。マリアさんの神様のお言葉を受け止めた人を信仰の対象にしているのです。立派な信仰であると思っています。そういう中でスペインのバルセロナにあるサグラダ・ファミリア教会はヨセフさんの教会でもあります。ヨセフさんを信仰する人々が教会を造ったのです。それを知ったとき、私はヨセフさんに対して尊敬していますので、サグラダ・ファミリア教会に共感するようになりました。
 昔のお話ですが、私は小学校3年生の頃から教会学校に通うようになりました。ほとんど休むことなく出席していたのです。6年生になり、クリスマスが近づいたころ、小学校のクラスの友だちが、自分も教会学校に行きたいというので、彼も出席するようになりました。クリスマスには6年生はイエス様の降誕劇を演じることになりました。そこで先生が役割を発表しました。そしたら教会学校に来たばかりのクラスの友達がヨセフさんの役になったのです。私は教会学校に休むことなく出席しているので、そのヨセフ役は自分であると思っていたのです。小学校のクラスの友達は頭もよく、ハンサムで、彼が自分も教会学校に行くと言ったとき、なんか悪い予感がしていたのですが、こういう結果になったわけです。そして、私の役と言えば、ヨセフさんは大工でありましたから、その大工仲間ということで、劇ではセリフもなく、ヨセフさんの周りでのこぎりをもってうろうろとしているのです。もう教会学校に行きたくないと思いましたが、それでも母の励ましがあり、教会学校に通っていたのです。クリスマスが終わり、新年を迎えたとき、クラスの友達は教会学校には来なくなりました。ほっとした思いでした。私はヨセフさんになれなかったという思いは、私の中にあり、そのためか、ヨセフさんへの思いが常にあったのです。ヨーロッパのカトリック教会がマリア教会が多い中で、ヨセフさんの教会であるサグラダ・ファミリア教会を喜んでいる次第です。
余談になりましたが、いずれにしても、私達はマリアさんの信仰の模範として受け止めているのです。神様の御心を素直に受け止め、「わたしは主のはしためです、お言葉どおりこの身になりますように」という姿勢で歩みたいのです。それが今朝示されることです。


 神様の御心として受け止めること、このクリスマス物語では博士さんと羊飼いさんを紹介しています。博士さんと言っていますが、前の口語訳聖書に「博士」と記されていますので、ページェントでは博士さんの登場となるのです。博士さんは占星術の学者さんですが、いつも星を見つめては世の中の動きを人々に示していたのです。だから、どんなに弱い光の星でも小さい星でも見よう、見ようとしていたのです。星を見つめて救い主のもとへと旅発ったのですが、途中において星を見失ってしまいます。彼らは都のエルサレムに行ってしまうのです。救い主は都に生まれたと思ってしまったのです。人間的な思いです。それで都を出ることによって、再び星の導きをいただくことになるのです。その姿勢が神様のお告げの星を見ることができたのです。星の瞬きは全世界の人々が見えるはずです。しかし、博士さんたちの「見よう、見よう」の姿勢がお告げの星を知ることが出来たのです。それにより、最初に救い主イエス様にお会いすることができたと聖書は示しているのです。
 そして、羊飼いさん達にもお告げが示されました。羊飼いさんたちはたくさんの羊を連れては牧草地を渡り歩いていますので、夜は野宿しながら過ごしていました。その彼らに天使の歌声が聞こえてくるのです。救い主が御生まれになったという天使の歌声でした。羊飼いさん達はたくさんの羊の声を聞いています。どの羊がどんな鳴き方をするか知っているのです。いつも耳を傾けて羊の声を聞いていたのです。その「聞こう、聞こう」の姿勢が天使の歌声を聞くことになるのです。天使の歌声は全世界の人々が聞くことができたのですが、聞いたのは羊飼いさん達だけだったのです。「聞こう、聞こう」の姿勢があったからです。


 クリスマス物語は神様のお告げをうけとめ、「わたしは主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」との姿勢であり、世の人々の中にあって、「見よう、見よう」、「聞こう、聞こう」の生き方が祝福されることを示しているのです。イエス様ご自身も、「あなたがたは真実見ていない」と言われ、また「聞く耳を持たない」と指摘されています。「あなたがたは隣人を、自分を愛すると同じように愛しなさい」と教えておられるのです。そのイエス様のお導きこそ、「幸いな者へと導かれ」ることなのです。
 ここでイエス様のお導きを示されておきましょう。新約聖書を示される限り、イエス様の救いを教えらます。その中でザアカイさんがイエス様に導かれたことを示されたいと思います。ザアカイさんのお話しはルカによる福音書19章に記されています。ザアカイさんは徴税人の頭であるということです。聖書の国は、当時ローマ帝国に支配されていました。従って、人々はローマに税金を納めなければなりませんでした。誰もそういう仕事をする人はいません。しかし、生活のためには人々が嫌がることですが、徴税人になる人がいたのです。人々は徴税人を悪者と思っていました。ザアカイさんも悪いことはしていないのに悪者とされていたのです。ザアカイさんが住むエリコの町をイエス様とお弟子さんたちが通りかかります。イエス様の噂を聞いている人たちは、イエス様を見ようと大勢の人々が道にいました。ザアカイさんも見に行きますが、大勢の人々で見ることができないのです。そこで木に登り、上から見ていたのです。イエス様がその木の下に来た時、イエス様は上を見上げ、ザアカイさんに声をかけました。「ザアカイさん、今日はあなたの家に泊まりたい」というのです。今まで一度も会ったことのないイエス様が、ザアカイさんの名を呼び、しかもザアカイさんの家に行くというのです。驚きながらもザアカイさんはイエス様を自分の家に案内し、もてなしをしました。ザアカイさんはイエス様とお話をしているうちに心が開かれました。今まで、人々が自分を悪者とし、相手にしてくれないので、ザアカイさんも心を閉ざし、人々との関係をなくしていたのです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と告白するのでした。イエス様により心が開かれていたのです。自分で自分の心を閉ざしていたのですが、人がどのように自分を扱おうと、まず自分が心を開くこと、そういう姿へと導かれたのでした。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」とイエス様は言われました。イエス・キリストは「失われた存在」を捜してくださるのです。心を開いてくださるのです。私達は、だから孤独ではありません。いつもイエス様が私を訪ねてくださり、心の扉をノックしてくださっているのです。
 クリスマスはそのイエス様の出現の喜びなのです。皆さんと共にお祝いいたしましょう。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」との信仰をもちましょう。そして「見よう、見よう」との姿勢、「聞こう、聞こう」との姿勢で歩みたいのです。真実、救い主にお会いすることができるのです。

<祈祷>
聖なる神様。イエス様がお生まれになったクリスマスを与えてくださり感謝致します。イエス様は十字架の贖いにより、私達を真実に生かしてくださいます。いよいよ十字架のイエス様を仰ぎ見つつ歩ませてください。このクリスマスの喜びが、全世界の人々に示されますようお祈りします。イエス・キリストの御名によりおささげします。アーメン。