説教「救いのしるしを与えられ」

2021年1月10日、六浦谷間の集会

降誕節第3主日

                       

説教・「救いのしるしを与えられ」、鈴木伸治牧師

聖書・サムエル記上16章1-13節

   ローマの信徒への手紙6章12-23節

   マタイによる福音書3章13-17節

賛美・(説教前)讃美歌21・「暗き闇に星光り」

   (説教後)讃美歌21・「貴きイエスよ」

 

 前週の1月6日は顕現祭、栄光祭と言われ、クリスマスはこの日まで続きました。12月25日がクリスマスですが、もう一つの考え方は、東の国の占星術の学者さん達がお生まれになられたイエス・キリストにお会いになって礼拝したのは、1月6日とされており、従って1月6日までクリスマスが続いたのでした。ようやくクリスマスが終わったという印象です。

 新年を迎え、日本の場合、神社に初もうでに行かれた人が多いと思いますが、今年はコロナの関係で例年より少ないでしょう。初詣は、やはり一年の始まりに神様にお参りしたという「しるし」であると思います。そのお参りのしるしが励みともなるのでしょう。「しるし」というものは、その人を強め、導く意味があるのです。稽古事でも最終的には免許なるものが与えられ、その免許がその人の自信ともなるのです。キリスト教の洗礼とか聖餐を、それと同じように考えることはできませんが、基本的には通じるところがあると思います。キリスト教信者は洗礼を受けて、イエス・キリストに導かれ、委ねて歩んでいるのですが、さらに聖餐にあずかることによって、その信仰が深められていくのです。「救いのしるしが与えられ」て歩んでいるのです。本日は改めて私たちの人生の原点、「救いのしるしを与えられ」ている歩みを示されるのであります。

 旧約聖書はサムエル記上16章1節以下の示しであります。本日の聖書はダビデの王としての選任であり、ダビデへの油注ぎが記されています。聖書の国、イスラエルの最初の王様はサウル王でした。しかし、彼は神様の御心から離れて、自分の思いで支配するようになり、神様は次なる王の選任を祭司サムエルに命じたのです。それが本日の聖書です。本日のサムエル記上16章1節以下、「主はサムエルに言われた。『角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとへ遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見出した』」との示しを与えられます。「角に油を満たす」とは、おそらく牛の角を切って、その中に油を入れるということです。そして、王様とか指導者になる人の頭に油を注ぐのであります。油注がれた者は神様の御心として立てられた者なので、神様のお心によって人々を導くことが使命であります。それによって人々は平和に過ごすことができるのであります。従って、油注がれた者・メシアは「救い主」と言われます。メシアは人々を救うことが大切な使命になるのであります。

 さて、サムエルはベツレヘムのエッサイの家に行きます。まず、サムエルは一番上の息子エリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思います。ところが、神様はサムエルに言います。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と言われるのであります。その次の息子アビナダブ、その次の息子シャンマも神様の御心ではないことを知ります。エッサイは結局7人の息子をサムエルに引き合わせますが、いずれも神様の御心ではないことを知るのであります。「あなたの息子はこれだけですか」とサムエルが尋ねるので、エッサイは「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」と言います。サムエルはぜひその子を連れてくるように言いました。そして、サムエルが末の子、すなわちダビデを見たとき、「彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった」と言われます。その時、神様の声が聞こえ、このダビデに油を注ぎなさいと言われます。サムエルは早速、油の入った角を取り出し、ダビデに油を注いだのであります。ダビデは神様から愛されている者として、自覚を強め、人々を平和に導いたのでした。選ばれた者として、神様から愛されている者として、その愛に応えたのがダビデであったのです。

 そのことは、イエス・キリストもまた、神様に愛されていることが根底になっていました。新約聖書は、神様に愛せられているイエス様の歩み出しを示しているのであります。クリスマスにお生まれになったイエス様でしたが、時の王様ヘロデは新しく生れたという王なる存在を殺そうとしました。しかし、天使の導きのもとに、ヨセフはマリアと幼子を連れてエジプトへ逃れ、しばらく滞在することになりました。そしてヘロデ王が死ぬと、再びイスラエルに帰ってきますが、ガリラヤ地方のナザレの町に住むことになったのです。

 本日は成人した主イエス・キリストヨルダン川で洗礼を授けているヨハネのもとにやってきたということです。そして、そのヨハネから洗礼を受けるのであります。ヨハネは主イエス・キリストより先に生まれ、そして先に人々の前に現れて、神様のお心をいただいて生きるように教えたのであります。ヨハネの宣教については3章1節以下に記されています。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締めていたといいます。当時でも異様な姿です。その彼が人々に、「蝮の子らよ。差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と荒々しく人々に示したのでありました。その悔い改めのしるしとして洗礼を授けたのであります。そこへ主イエス・キリストも来て、洗礼を受けたのであります。洗礼は罪の悔い改めであるのに、主イエス・キリストが洗礼を受けるということは、ではイエス様も罪があったのか、との素朴な疑問がもたれます。ヨハネはイエス様に言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と断るのでした。それに対して、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とイエス様は言われたのであります。つまり、主イエス・キリストがこの世に現れたのは人間として現れたということです。人間であれば、人々が持つ罪の方向は当然持ち合わせているということです。このことはその後の4章1節以下でも示されるとおりであります。悪魔との戦いは、人間として持つ欲望との戦いであったのです。人間として通らなければならない道を歩み、悪を退け、神様のお心に従うことであります。主イエス・キリストは常に神様に向かい、御心を仰ぎ、実践してゆく姿勢であります。イエス様が洗礼を受けると、天がイエス様に向かって開き、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえたのでありました。イエス様は、人々の前に現れるとき、神様から愛されていることをしっかりと受け止めたのでした。その愛に押し出されて、十字架の死に至るまで従順でありました。イエス様はゲッセマネの園で祈りました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られ、すべては御心に委ねたのであります。神様に愛せられている者として、すべてを神様に委ねられたのでした。

 クリスマスはマリアさんとヨセフさんの物語でもあります。その場合、ヨセフさんは脇役でありました。ヨセフさんとマリアさんに与えられた子としてのイエス様です。しかし、やはりマリアさんが主役になります。ヨーロッパのカトリック教会は、軒並みマリア教会です。また、西洋の美術館を見学しますと、マリアさんの絵が圧倒的に多いということです。マリアさんと共にヨセフさんも描かれていますが、それこそマリアさんの周りでうろうろしているヨセフさんなのです。しかし、人々にとってヨセフさんは脇役ですが、イエス様が生まれて以来、マリアさんとイエス様を守ってきたのはヨセフさんなのです。イエス様が生まれて間もなく、ヘロデ王が生まれた赤ちゃんを殺しているというので、ヨセフさんは天使の導きのもとにエジプトへ逃れます。そこでどのくらい滞在したのかは定かでありませんが、ヘロデ王が死んだというので、マリアさんとイエス様を連れてガリラヤ地方のユダヤに住むようになりますが、ヨセフさんの責任においてマリアさんとイエス様を守ってきたのです。そして、大工をしながらイエス様を育てたのです。そういう意味ではヨセフさんは脇役ではありません。脇役のヨセフさんですが、神様に愛されているという、信仰があったのです。どのように人々から言われようとも、神様から愛されているとの信仰が、新しい事実を受け止め、歩みだしていったのです。ヨセフさんも脇役である自分を受け止めていたのでしょう。この脇役的な自分を神様が愛してくださっているとの信仰を、ヨセフさんから示されています。

 神様が私たちを愛されている信仰の証しを示されたのですが、それはダビデであり、イエス様ですが、ヨセフさんも神様の愛に生きたのでした。そして、救いのしるしとして、私たちは洗礼の導きが与えられているのです。私たちも神様から愛されている信仰の導きなのです。

<祈祷>

聖なる御神様。救いのしるしを与えてくださり感謝します。このしるしを原点にして歩ませてください。キリストの御名により。アーメン。

noburahamu2.hatenablog.com