説教「神様のお導き」

2021年1月3日、六浦谷間の集会

降誕節第2主日」新年礼拝

                       

説教・「神様のお導き」、鈴木伸治牧師

聖書・エレミヤ書31章15-17節

   コリントの信徒への手紙<二>1章3-11節

   マタイによる福音書2章13-23節

賛美・(説教前)「生きて愛して祈りつつ」(鈴木伸治作詞、鈴木羊子作曲)

   (説教後)「主の祝福」(鈴木伸治作詞、鈴木羊子作曲)

 新しい年が始まりました。今年は1月3日が日曜日であり、私たちキリスト者にとって礼拝をもって始まるこの年を感謝し、この一年も神様のお導きに委ねて歩むこと、主イエス・キリストにあって力強く歩むことを願っています。

 前週の礼拝は、12月27日であり、2020年の最後の礼拝でした。最後の礼拝を家族一同が共に礼拝をささげることができて感謝しています。家族一同と申しましたが、一堂に会しての礼拝ではなく、それぞれの地にいながらオンライン礼拝としてささげたのです。スペイン・バルセロナにおります羊子、相模原におります星子、海老名におります優と弥生さん、そして私たちがオンラインで画面に登場し、心を合わせて礼拝をささげたのです。六浦谷間の礼拝は毎週日曜日、午前10時30分からささげていました。その日に子供たちが来られなければ私たち夫婦二人でささげていたのです。もともと夫婦二人で始めた礼拝でした。しかし、時には子供たちも出席し、あるいは知人も出席されて礼拝をささげていました。そのような礼拝の歩みでしたが、大きく変わったのであります。2020年の年明けと共に新型コロナウィルスが発生し、世界的に蔓延したのであります。3月にもなると幼稚園を休園しなければならなくなりました。大勢が集まることの自粛が求められ、教会も自粛体制を余儀なくさせられたのです。六浦谷間の集会としては、まことに少数でありますので、子供たちと共に礼拝をささげていました。しかし、バルセロナにおります娘の羊子家族は、教会も開かれてなく、礼拝をささげることもできなくなったのであります。それで六浦谷間の集会をオンラインで行うことが要望され、今は毎週オンラインで礼拝をささげるようになりました。12月27日もみんなであつまることができないので、家族一同、オンライン礼拝をささげたのでした。新型コロナウィルス感染予防がなければオンライン礼拝は導かれなかったと思いますが、新しいお導きが与えられたのです。

2021年の主題を「主のお導きにゆだねつつ」としています。そして、聖書の言葉はエレミヤ書31章17節、「あなたの未来には希望がある、と主は言われる。」との示しを与えられています。新しい年は、主のお導きに委ねて歩むのであります。

 その2021年の主題の出典は旧約聖書エレミヤ書31章でありますが、「新しい契約」として記されています。聖書の国はもともと一つの国でありましたが、お家騒動で国が二つに分かれてしまいます。北イスラエルと南ユダであります。北イスラエルは大国アッシリアにより滅ぼされてしまいました。南ユダもアッシリア、エジプト、バビロン等の大国の間で苦渋の選択をしなければならない状況でした。エレミヤはそのような時代に現れた預言者であります。常に希望をなくしている人々に神様のお心を示し、希望をもって生きるよう励ますのであります。31章7節では、「主はこう言われる。ヤコブのために喜び歌い、喜び祝え。諸国民の頭のために叫びをあげよ。声を響かせ、賛美せよ。そして言え。『主よ、あなたの民をお救いください。イスラエルの残りの者を』」と示しています。神様は確実に導いてくださるので、希望を持ちなさいと示しているのであります。そして、新しい契約として示しているのは31節以下であります。33節以下に、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らは私の民となる」ということであります。聖書の人々はエジプトの国で400年間の奴隷生活でありましたが、神様はモーセを立てて、救い出したのであります。エジプトを出た人々に、神様は十戒を人々に示したのであります。これが律法、契約というものでありました。十の戒めを守るならば、あなたがたは後々までも祝福が与えられるというのであります。

 エレミヤ書の今朝の聖書は31章15~17節であります。ここではラケルの悲しみが記されています。ラケルヤコブの最愛の妻で、彼女はヨセフとベニアミンの二人の子どもができました。ヨセフの子どもがエフライムで、北イスラエルを意味するようになります。今や北イスラエルアッシリアに滅ぼされていますので、その悲しみをここに示しているのです。その悲しむ人々に慰めと希望を与えているのです。「主はこういわれる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰ってくる。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰ってくる」と示し、あなたの未来には希望があると示しています。主イエス・キリストの出現があるということです。旧約聖書における未来は、新約聖書における現実であります。預言されていたことが、すべて成就したと新約聖書は示しているのであります。そして、私たちにとっては未来とは主イエス・キリストの成就から発展へと導かれているのであります。

 主イエス・キリストヘロデ王の時代にユダヤベツレヘムでお生まれになられたとき、東の国から占星術の学者たちが、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言いつつ都エルサレムにやってきたのでした。ヘロデ王も都の人々も皆不安を抱いたといわれます。ヘロデ王は国の主だった者たちに、学者達が言っていることについて調べさせます。それにより、救い主はベツレヘムで産まれることになっていることが分かり、学者達にそのことを教えるのです。学者達がベツレヘムに向かうと、再び導きの星が現れて、幼子のもとへ導いたのでありました。その後、学者たちはヘロデ王に報告することなく自分達の国へ帰っていったのでありました。

 ヨセフさんに主の天使が現われて言います。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」と告げます。ヨセフはすぐさまエジプトに逃れたのでありました。ヘロデ王は学者達が報告に来ないで帰ってしまったので、大いに怒りました。そして、ベツレヘムとその周辺一体にいた二歳以下の男の子を殺したといわれます。権力者であるユダヤヘロデ王が死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現われ、「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっている者どもは、死んでしまった」と告げるのでした。そこで、ヨセフは幼子とその母を連れてイスラエルの地に帰ったのであります。そして、お告げのままにガリラヤ地方のナザレという町に行って住んだのでありました。

 この救い主イエス・キリストに希望をおくことが私たちの人生なのであります。私たちはこの現実をイエス様が導いてくださっていることを信じるのであります。「導きに委ねつつ」歩む私たちでありたいのです。

 どこの国の人々も新年の喜びは同じです。過ぎ去った一年を振り返り、新しい年への希望を持っているのです。

 ところでクリスマスには占星術の学者たちが、星に導かれてイエス様を拝みに来たことは、マタイによる福音書の報告であり、先ほども触れました。ヘロデ王から、救い主はベツレヘムに生まれることになっていることを示され、彼らはベツレヘムへと向かったのです。すると、導きの星が再び現れ、彼らを導いたと記されています。ここで、疑問を持ちます。占星術の学者たちは星に導かれて救い主の現れた方角を目指していたのです。ところが彼らは都のエルサレムに行ってしまいました。そこは星の導きではなかったので、彼らは迷ってしまったのです。それで、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ね歩かなければならなかったのです。そこでは星の導きはありませんでした。星を見失ってしまっているのです。疑問とはこの点です。彼らが星に導かれるままに従っているなら、そのままベツレヘムへと導かれたはずです。しかし、彼らは極めて人間的な思いに駆られたのです。救い主、ユダヤ人の王としてお生まれになったのであるから、都のどこか、王宮の中にいると思ったのかもしれません。それで、星の導きを無視して、自分達の思いで都に入ってしまったのです。もはや星の導きはありませんでした。そして、ベツレヘムへと向かったとき、再び導きの星が現れたのでした。人間的な思いに生きる限り、導きはないのです。主の「導きに委ねて」歩むとき、導きの星は、常に私達の前に輝いているのです。私たちの導きの星はイエス様の十字架であります。十字架が私たちの人生を導くのです。

<祈祷>

聖なる神様。十字架のお導きを感謝致します。この救いを見失うことなく歩ませてください。キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

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