説教「イエス様の最初のしるし」

2020年1月26日、六浦谷間の集会
降誕節第5主日

 

説教、「イエス様の最初のしるし」 鈴木伸治牧師
聖書、出エジプト33章12-23節

   ヨハネの手紙<一>1章1-4節
   ヨハネによる福音書2章1-11節
賛美、(説教前)讃美歌54年版・122「みどりもふかき」
   (説教後)讃美歌54年版・168「イエス君の御名に」

 


私たちが住んでいる場所は六浦町の山沿いで、奥まっているところであります。そのため、買い物には歩いても15分くらいかかります。数年前に大きなスーパーマーケットができて、いつも買い出しに行っています。歩いても行かれるところですが、買い物で荷物が多くなるので車で出かけることもあります。もう、ずっと昔の頃ですが、比較的近くに色々な商店があり、私の両親は利用していたのです。しかし、どこでも同じような現象ですが、小さな商店は大きな商店に飲み込まれていくのです。ほとんどは小さい商店がなくなりました。従って、前記したスーパー、金沢八景や追浜にあるスーパーマーケットに買い物に行くのでした。住んでいる界隈は昔からの家が多く、今にも崩れそうな家が存在しています。ほとんどの家は住んでいないようです。いずれは開発されるのではないかと思っています。だんだんとこの界隈も新しい街並みになっていくのでしょう。
街並みの変化はどこにも見られます。いつも幼稚園勤務で横浜駅で乗り換えていますが、横浜駅の変わりようは驚くばかりです。60年前の横浜駅を知っているので、横浜駅の変化を随時示されていますが、いまだに終わらないので、日本のサグラダ・ファミリアであると称する人もいます。次から次へと新しい姿に変わっていくのでした。時代が進めば当然でありますが、初期の頃の、それなりの良さがありましたので、変わりゆく街並みを複雑な思いで示されているのでした。
今朝はイエス・キリストが神様の御心を人々に伝える、最初の頃を示しています。イエス様が現れた時代はユダヤ教の社会です。その時代の人々は旧約聖書で示された十戒が基準であり、十戒を教える人々、模範的に実践する人々が社会的にも重んじられていたのです。そのような固い地盤の中にイエス様が宣教を開始されたのです。宣教とは神様の御心を人々に示すことです。しかし、イエス様が宣教を開始しても、今までの生き方があり、なかなか新しい教えを受け入れられないのでした。時々、昔の映画「ベンハー」を見ています。DVDを持っているので、時には鑑賞しているのです。ベンハーと言う人物の活躍を示しているのですが、イエス・キリストの宣教の開始も並行して示されているのです。ベンハーが被った禍に対して復讐に立ち上がるのですが、その頃、宣教を開始したイエス様の愛の教えが、次第にベンハーに示されてくるのです。ベンハー自身がイエス様の十字架の場にいるとき、苦しく十字架を担ぐイエス様に水を上げようとします。それは兵隊によって阻止されるのですが、かつてベンハーが奴隷として曳かれていくとき、イエス様から水を与えられたことが思い出されるのでした。十字架上で「彼らをお赦しください」と祈りつつ息を引き取る姿を示され、復讐の思いが消えているのでした。こうしてイエス様の教えが当時の人々に徐々に示されていくのです。人々は新しい姿へと変えられていくのでした。今朝はイエス様の宣教の開始を通して、私たちもイエス様の御心へと導かれたいのであります。

 今朝の旧約聖書出エジプト記であります。聖書の人々はヤコブの時代にエジプトで寄留することになります。神様のお導きで、ヤコブの11番目の子どもヨセフがエジプトの大臣になっていました。ヤコブがかわいがっているヨセフを他の兄弟たちが妬み、エジプトの奴隷として売ってしまうのです。しかし、このエジプト行きは神様の導きであり、彼はエジプトの王様に次ぐ大臣にもなるのです。大きな飢饉が来ることでヨセフはエジプトに食料を貯蔵させるのです。いよいよ大きな飢饉が到来した時、諸国の人々はエジプトに食料を求めてやってくるのです。ヤコブの一族も食料の買い出しにきますが、兄弟たちはエジプトの大臣が、まさか自分たちが奴隷として売り飛ばした弟のヨセフであるとは知りません。そして、食料の売り買いの交渉の中でヨセフは身を明かすのでした。兄弟たちは恐れるのですが、ヨセフは奴隷として売られてきたのは神様のお計らいであると示し、我々一族が生き残る導きであったと兄弟たちに示すのでした。それにより、ヤコブの一族はエジプトに寄留することになるのです。ところが、後の時代になって、ヨセフのことを知らない王様となり、この国によその国の人々が住んでおり、しかも次第に増えてくることに不安を持ち、奴隷としてしまうのでした。それからは聖書の人々の苦しい時代になります。その苦しみを救ったのがモーセでした。神様はモーセを選び、奴隷の人々を解放させたのです。解放までには紆余曲折がありますが、ついにエジプトの王様は解放を許すのでした。
 そして、その後は神様が示す土地へとめざして旅が始まるのです。その旅は40年間ともいわれています。そんなに長く荒れ野をさまようのは、聖書の人々の不信仰があったからです。今朝の聖書は、その荒れ野の旅の途中であります。神様は御心に従わない聖書の人々なので、もはや共にはいないとモーセに示すのでした。神様が共におられるから、希望をもって旅ができるのであり、モーセは神様に切に求めているのです。「お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください。どうか、この国民があなたの民であることにお目をお留めください」とお祈りしてます。神様が、もはやこの民とは共にいないといわれるのは、聖書の人々の不信仰があるからです。エジプトからの解放という大きな神様の救いを経験しながら、いつも不平、不満を述べているのです。食べ物が無くなったといってモーセに詰め寄ります。この荒れ野で餓死させるためにエジプトから連れ出したのだといいます。飲む水がないといってはモーセに詰め寄るのです。そのような不信仰な人々ですが、神様はマナと言う食べ物を毎日与え、飲む水も与えで荒れ野の旅を導いていたのです。今、もはや人々とは共にいないといわれるのは、人々の悔い改めのためなのです。悔い改めて神様の御心に従うという人々に対して、「わたしはあなたの前にすべての善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとするものを恵み、憐れもうとする者を憐れむ」とお答えになられたのでした。こうして、人々は信仰をもって荒れ野の旅を導かれることになったのです。「主という名を宣言する」といわれています。救いの神様であることを宣言するといわれているのです。神様の御心が前にある、その信仰が求められているのです。自分勝手な生き方ではなく、「主という名」の存在が導いてくださっているという信仰を持つことです。
3.
 今朝のヨハネによる福音書2章は「カナの婚礼」の場面ですが、その終わりに、「最初のしるしをガリラヤのカナで行われた」と示しています。つまり、イエス様は人々に神様の御心を示す前に、神様の御業を示されたのてした。それは、この後もいろいろな形で御業を示すのですが、旧約聖書で示されますように、「主という名」が前にある生き方を示されているのです。
 ガリラヤのカナという村で婚礼が開かれました。イエス様もお弟子さんたちもその婚礼に招かれているのです。そして、イエス様の母でもあるマリアさんも婚礼のお手伝いに来ていました。その婚礼が賑やかに行われていたようですが、婚礼にはお祝いのぶどう酒が振舞われています。お祝いであるので、その振る舞いのぶどう酒が無くなってしまうのです。そこでマリアさんがイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と報告するのでした。マリアさんがイエス様に、ぶどう酒がなくなったからどうにかしてください、とお願いしているのではないのでしょう。マリアさんもイエス様にそのような力があるとは思っていないでしょう。その時、イエス様は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と言われたのですが、意味不明の言葉でもあります。「わたしとどんなかかわりがあるか」と言われたこと、マリアさんのイエス様への思いを示しているのでしょう。イエス様がお生まれになった時、羊飼いさんたちが喜びつつイエス様を拝みに来ました。その時、マリアさんは羊飼いさんたちがイエス様を拝んだことで、マリアさんは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らした」とルカによる福音書は報告しています。それらの関連から示されるならば、まだイエス様の宣教は始められたばかりであり、神様の御業を現されていないのですが、イエス様という存在に重い存在を感じていたマリアさんであると示されます。マリアさんは召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言っているのです。
 マリアさんに対して、ぶどう酒がなくなったことには無関心であるように見受けられますが、イエス様は召し使いたちに、そこにある「石の水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われたのでした。ぶどう酒がなくなったのに、水がめに水を入れることに何の意味があるのでしょう。しかし、召し使いたちは、マリアさんがこの人のいうことを、「そのとおりにしてください」と言われているので、イエス様のいうとおりにしたのでした。召し使いたちがかめにいっぱい水を入れたとき、「それをくんで宴会の世話役のところへ持っていきなさい」と言われたのでした。世話役がそれを味見すると、とてもおいしいぶどう酒になっていたのでした。それで世話役は、花婿に「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を取っておかれました」といって称賛したのでした。イエス様の神様の御業であることは知りません。知っているのはマリアさんと召し使いたち、またイエス様お弟子さんたちでありましょう。そして、この出来事の終わりに、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」と記しています。そして、そのことでお弟子さんたちは、イエス様についてきたのですが、この最初のしるしにより、イエス様を信じたのでありました。
 この最初のしるしは、お弟子さんたちにとって、旧約聖書で示されている「主という名」がいつも前にあるという信仰として導くことになるのです。イエス・キリストは、「主という名」であり、前に立って導いてくださる方なのです。

 大塚平安教会の今年のカレンダーは「最後の晩餐」の聖画であります。30年間、大塚平安教会の牧師でしたが、毎年、聖画を用いたカレンダーにしていました。いろいろな聖画がありますが、中でもミレーの名画「落穂ひろい」、「晩鐘」、「羊飼いの少女」等の絵は、心に残るものでした。いずれも聖書が題材になっているのです。「落穂ひろい」は三人の婦人たちが畑の端の方で落穂を拾っている絵なのですが、そこには深い聖書の示しがあるのです。聖書は、いつも貧しい者を顧みています。だから畑の主人は、麦刈りに来た人たちに、麦を隅々まで刈りつくしてはならないと示すのです。刈り残しなさい、落穂があっても拾ってはならないと示すのです。旧約聖書レビ記19章9節以下、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで借りつくしてはならない、収穫後の落穂を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である」と示されています。ミレーはこの聖書の言葉を深く示されて名画「落穂ひろい」を描きあげたのです。この絵を鑑賞するたびに、神様の御心が示されてくるのです。
 従って、カレンダーの絵にすぎませんが、毎日、聖画を見ることになり、神様の御心を示されてくるのです。今年は「最後の晩餐」であり、やはりこの名画を通して、イエス・キリストの十字架の救いを示されてくるのです。ところで、昨年の大塚平安教会のカレンダーの聖画は「カナの婚宴」でした。イエス様の示しによって、召し使いが水がめに水を入れている場面が描かれています。世話役がイエス様に何か言っているような絵でもあります。この絵を鑑賞することで、イエス様の最初のしるしを示されるのですが、さらに「主という名」が人々の中に置かれることも示されてきます。この絵と共に、フランス・パリのルーブル美術館で鑑賞した「カナの婚礼」の聖画が忘れられません。この絵も、以前カレンダーの聖画として使われていましたので、その絵は良く覚えていましたが、実際にこの絵の前に立つとき、あまりにも大きいので驚きました。とても大きく絵が画れていました。縦6.6メートル、横 9.9メートルの大きさであるのです。絵の前に立つというより、見上げながら鑑賞したのでした。その絵の中には、おびただしい人々が婚礼に来ているのです。少し、画家の思いが入り込みすぎだと思いますが、それだけ多くの人々が「イエス様の最初のしるし」をいただいたことを示しているようです。
 前週も示されましたが横浜本牧教会の吉澤暢紘さんが召天され、葬送式で吉澤さんのお証しを示されました。吉澤さんは76歳で召天されたのですが。、50歳の時に洗礼を受けられました。若いころから歌うことの才能を持たれ、合唱団に所属されていました。その合唱団では、「マタイ受難曲」等、キリスト教の名曲が歌われていたということです。「メサイヤ」も歌われたのでしょう。そのようなキリスト教の名曲を歌う中で、教会に導かれていくのです。名曲に触れることで、イエス・キリストの救いへと導かれたということです。従って、カレンダーの聖画は、沈黙のうちにイエス様の救いを示しているのです。カレンダーの聖画を鑑賞しているうちに教会に導かれた人がおられるかもしれません。キリスト教の名曲にしても聖画にしても、そこには「主という名」が置かれているのです。おかれている主の名によって、十字架のイエス様の救いへと導かれるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。救い主の存在が私達の生活の中にありますこと感謝いたします。「主という名」によりお導きください。主イエス・キリストのみ名によりおささげします。アーメン。

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