説教「平和への導き」

2020年4月19日、六浦谷間の集会
「復活節第2主日

 

説教、「平和への導き」 鈴木伸治牧師
聖書、出エジプト記15章1-11節

   ペトロの信徒<一>1章3-9節
   ヨハネによる福音書20章19-31節
賛美、(説教前)讃美歌54年版・243「ああ主のひとみ」
   (説教後)讃美歌54年版・298「やすかれ、我が主よ」

 

 前週の4月12日は主イエス・キリストのご復活日、イースター礼拝でありました。六浦谷間の集会はネット礼拝でした。スペイン・バルセロナには羊子家族が滞在していますが、新型コロナウィルス感染予防で外出が禁止されており、教会もお休みになっています。そこで六浦谷間の集会をFaceTimeでネット礼拝としました。バルセロナの羊子家族や相模原におります星子や、海老名にいます優や弥生さんもネットに参加して、みんなで礼拝をささげることができました。そして、イースターエッグも用意いたしました。
 今は隠退して夫婦二人の礼拝をささげていますが、以前のクリスマス礼拝に皆さんがお集りくださって礼拝を捧げていました。しかし、今は感染予防で外出を自粛するよう呼びかけられていますので、どなたにも声をかけませんでしたが、家族でネット礼拝をささげることができまして感謝しています。
 今は、もはや桜の花が散り始めています。我が家においては、桜より源平桃の花が咲くのが楽しみなのです。昨年の秋に、源平桃の枝をかなり切ってしまったので、今年は庭一面には咲きませんでしたが、それでも源平桃の花を観賞したのでした。我が家の庭には源平桃の木が植えられているということ、父が育ててくれたのでした。この源平桃の花が咲くと、いつも思い出しているのは父の姿でありました。この源平桃は父が育てたものですが、その父は源平桃の花が満開の頃、4月8日に亡くなりました。葬儀は自宅で行いましたので、出棺の時には、棺の上に源平桃の花を添えたのでした。私は自分自身の信仰の証しとして、いつも母の導きをお話ししています。母が私を近くの教会の日曜学校に連れて行ったことが基となって、今の私があることについては、折に触れて証させていただいています。そして、今の時期はしきりと父の存在を示されるのでした。源平桃の花と共に、父が私をこの世で咲かせてくれたとも思っています。中学生の頃、父は参観日でもないのに授業参観に来てくれました。担任の先生が、クラスの皆に対して、「鈴木君のお父さんは授業参観に来てくれた。みんなもお父さんやお母さんに、いつでも授業参観に来るように言いなさい」と言われたのです。母はいろいろと助言をする人でしたが、父はあまり言いませんでした。父の思い出と言えば、静かに見守ってくれているということでした。源平桃の花の時期になると、静かに見守ってくれている父を示されるのでした。
 そのことは主イエス・キリストが私達を見守ってくださっていることと重なります。私達を見守り、平和を与えてくださっているイエス様を示されることになるのです。本日はイエス様から改めて「平和への導き」を示されるのであります。

 旧約聖書出エジプト記は、見守ってくださり、いつも導いてくださる神様を示しています。15章は「海の歌」とされています。人々は歌わざるを得なかったのであります。それは海の中を通って救われたという喜びでありました。聖書の人々はエジプトの国で奴隷として生きること400年でありました。その苦しみを神様はモーセにより解放させたのであります。モーセはエジプトの王様ファラオに対して、聖書の人々を解放するように求めますが、王様は応じませんでした。その都度、神様の審判が下されます。水が血に変るとか、イナゴの大群が押し寄せてくるとか、エジプトの人々に苦難を与えます。苦しいときには、王様は解放に応じるのですが、苦しみがなくなると心を翻し、今まで以上に奴隷の働きを重くするのでありました。そして、ついに最後の審判となります。エジプトに住む最初に生まれた子どもは死ぬという大変恐ろしい審判であったのです。審判の当日、エジプトには聖書の人々も住んでいますので、聖書の人々の家の入口、鴨居に羊の血を塗っておくのでした。神様の審判は羊の血が塗られた家は通り過ぎていったのであります。それによりエジプトの王様は解放に応じたのでした。
 神様の審判が通り過ぎ、それにより救われたということで、ユダヤ教では過越しの祭りを祝います。過越しの祭りは救いの時でありました。主イエス・キリストは十字架の贖いによって人間を救われました。それは丁度過越しの祭りの日でありました。従って、ユダヤ教の過越しの祭りの救いと、キリスト教における十字架の救いとは重なるのであります。過越しの時にはエジプトの多くの人が、神様の審判より死にましたが、人類の救いのために、神様は独りの存在、主イエス・キリストにより人々を救いへと導かれたのであります。
 さて、エジプトを脱出して、人々は神様の指し示す「乳と蜜の流れる土地」へと向かいます。ところが、エジプトの軍隊が追いかけてきました。そして、前は海になり、人々はそこで立ち止まってしまうのです。しかし、神様はこの窮地に陥った人々を救います。海が二つに裂けて、中を歩けるようにしたのでした。人々は喜び勇んで海の中を通りぬけて行ったのでありました。人々が渡り終わると、続いてエジプトの軍隊が海の中を渡って追いかけてきました。すると、海は元のように戻ります。エジプトの軍隊は海の藻屑となってしまうのでありました。今朝の聖書、出エジプト記15章は「海の歌」となっていますが、救われた喜びを歌っているのであります。
 「主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し、馬と乗り手は海に投げ込まれた。主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる」と歌います。
 聖書の人々は今までも神様の力ある業によって導かれてきました。しかし、今こそ知るのです。まさに神様こそ救いの神様であり、この神様に希望を持つ限り、豊かな祝福に導かれることを知ったのでありました。「主よ、神々の中に、あなたのような方が誰かあるでしょうか、誰か、あなたのように聖において輝き、ほむべき御業によって畏れられ、くすしき御業を行う方があるでしょうか」と歌うのでありました。まさに「希望」の内容は神様の救いであります。決して、他では得られない希望の内容なのであります。その希望は見守ってくださる神様であり、救いを与えてくださる神様なのです。神様の導きに委ねること、それが平和の原点であります。神様は平和を与え、恵みを与えて導いてくださっているのです。

 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と主イエス・キリストは信仰の本質を示しています。イエス様は、今は目には見えませんが、確実に私を見守ってくださり、導きを与えてくださっているのです。
 週の初めの日、朝早く、マグダラのマリアさんはイエス様が埋葬されているお墓に行きました。そのお墓の入り口は大きな石でふさがれていることになっていましたが、マリアさんがお墓に行きますと、その石は横に転がされていました。墓の中を覗くとイエス様の遺体がありません。それで、すぐにお弟子さんのペトロさんともう一人の弟子に知らせました。二人は競うようにして墓まで走り、墓の中を確かめたのでした。確かに、マリアさんの言うとおり、墓の中にはイエス様の遺体がありませんでした。それで、彼らは不可解な思いで帰っていくのです。しかし、マリアさんは悲しみつつも、その現実にとどまり続けたのです。そのマリアさんに復活されたイエス様が現れました。私の現実にとどまり続けるとき、復活されたイエス様が、私の現実を共に担ってくださることを示されたのでした。マリアさんはお弟子さん達に知らせに行きました。「わたしは主を見ました」と言ってお弟子さん達に知らせたのです。
 しかし、お弟子さん達はマリアさんが「わたしは主を見た」と言っても、信じ難かったのです。半信半疑で聞いたと思われます。「いったい、私たちの先生、イエス様はどうなってしまったのだろう」との思いのままに、お弟子さん達は集まっていました。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分達のいる家の戸に鍵をかけていた」のであります。主イエス・キリストが十字架につけられ、殺されてしまったとき、弟子達は自分達にも何か被害があるのではないかとの恐れを持っていました。従って、家の戸に鍵をかけていたのでした。しかし、イエス様は鍵のかけられた家でありますが、弟子達の前に現れたのです。「あなたがたに平和があるように」とまず祝福を与えています。そして、十字架にかけられたとき、手のひらを釘で打たれ、またわき腹には槍が刺されていますので、その傷跡を示されたのでありました。お弟子さん達は、その方が復活されたイエス様であることはすぐに分かり、しっかりと信じたのであります。「父がわたしを お遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言い、お弟子さん達に息を吹きかけられたのであります。お弟子さん達は家の戸に鍵をかけるほど恐れていました。不安でありました。イエス様がいなくなってしまった今、今後どのようにして生きていけばよいのか、希望をなくしていたのであります。しかし、復活のイエス様が現れ、意気消沈するお弟子さん達を励ましたのであります。「あなたがたに平和があるように」と祝福を与え、息を吹きかけられたのでありました。
 息を吹きかけるとは、何か不思議な行為であります。これは聖書の深い意味があります。旧約聖書創世記は神様が天地を創造されたことが記されています。天地が造られ、動植物も造られました。そして、最後に人間が造られました。そのとき、神様は土の塵、すなわち粘土で人の形を造りました。それはまだ人間ではありません。神様は粘土の人の形、その鼻に命の息を吹き入れたのであります。すると、人は生きる者になったと聖書は報告しています。つまり、人間は神様の命の息をいただいて生きる者へと導かれていると示しているのです。「命の息」は「ルアッハ」というヘブル語であります。このルアッハは息でありますが、「風」とか「霊」とも訳されることがあります。ペンテコステの日にお弟子さん達は「激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ」ました。それがルアッハであり、神様の息、また霊でありました。
 今、主イエス・キリストはお弟子さん達に「息」を吹きかけたのであります。お弟子さん達が力を得たことは言うまでもありません。それで、お弟子さん達は言うことができました。「わたしたちは主を見た」とマリアさんと同じ告白をしたのであります。「わたしは主を見た」というとき、しっかりと自分が復活のイエス様を認識し、その存在を見たということなのです。確信をもって「主を見た」と言ったのであります。
 誰に言ったのか。同じ弟子の仲間でトマスさんでした。お弟子さん達に復活のイエス様が現れたとき、トマスさんはいませんでした。それで、後でお弟子さん達から確信をもって「わたしたちは主を見た」と言われ、自分がそこにいなかったことの悔しさも手伝いながら、そんなことは信じられないと言うのでした。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言うのでした。それから八日の後、お弟子さん達はまた家の中におり、トマスさんも一緒にいました。家の戸にはみな鍵をかけていましたが、復活のイエス様が再びお弟子さん達に現れたのです。「あなたがたに平和があるように」と祝福を与えました。そして、トマスさんに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われたのであります。もちろん、トマスさんは調べてみることなど致しません。「わたしの主、わたしの神よ」と言ったのであります。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」とイエス様は示されたのであります。

 「見ないのに信じる人は、幸いである」とイエス様はトマスさんに言いました。しかし、マリアさんにしてもお弟子さん達にしても、そしてトマスさんにしても「主を見た」のであります。従って、イエス様のこの言葉は、むしろ私たちに言われている言葉なのであります。私たちはイエス様を「見た」とは言えません。実際に見ることはできません。しかし「見ないのに信じる人は幸いである」と言われているように、私たちがイエス様を実際に見てないのに信じていることが幸いなのであります。イエス様はお弟子さん達に息、ルアッハを与え、一人ひとりを生きた者へと導かれました。「あなたがたに平和があるように」と祝福を与えられました。その息、ルアッハは私たちにも与えられているのです。イエス様の平和は私たちにも与えられているのです。私の現実に神様の命の息が与えられ、イエス様の平和が与えられていますが、明日の私も命の息と平和の歩みなのです。イエス様が私達を見守ってくださり、平和を与えてくださっています。その事実を信じているのです。
 今は新型コロナウィルス感染予防で世界中が苦しい状況です。この時、私たちは復活されたイエス様のお導きに委ねなければなりません。「あなたがたに平和があるように」と言われ、生きる原点の「命の息」を与えてくださっているのです。
 <祈祷>
聖なる御神様、イエス様のご復活を与え、命の息と平和を与えてくださり感謝いたします。見守ってくださる主を信じて歩ませてください。主の御名によって祈ります。アーメン

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