説教「主の僕となる」

2022年4月3日、六浦谷間の集会

「受難節第5主日」       

                      

説教・「主の僕となる」、鈴木伸治牧師

聖書・哀歌3章25-33節

   ローマの信徒への手紙5章1-11節

   マルコによる福音書10章35-45節   

賛美・(説教前) 讃美歌21・300「十字架のもとに」

   (説教後) 讃美歌21・507「主に従うことは」

1 

 受難節第5主日を迎えました。主のご受難と共に、十字架の救いを仰ぎ見つつ歩んでおります。次週はいよいよ受難週になります。教会の暦では受難とか受難週とか、何か暗いことを述べているようです。しかし、主のご受難は私達を新しい歩みへと導くのであり、希望の歩みでもあるのです。

散歩していますが、関東学院の前を通ることが多いのです。そこでいつも目にすることは、校門の入り口に置かれている石に刻まれている言葉です。「人になれ。奉仕せよ」との言葉が刻まれています。関東学院という学校の方針なのでしょう。一人の人間になるということは、人と共に生きるということです。人の世界の中に生きるものとして、人に仕えて生きることが祝福の人生なのです。やはり、キリスト教主義の学校ですから、聖書から示される学校の方針であると示されるのです。キリスト教は主イエス・キリストのご受難、十字架によって人間の正しい歩みが導かれることを信じています。人間は自分の奥深くに自己満足があり、他者排除の姿勢を持っているのです。その様な人間を神様は、最初は十戒をもって導きました。それが旧約聖書の示すところです。しかし、十戒では人間は救われなかったのです。そこで神様はイエス・キリストをこの世に生まれせしめ、まず十戒を中心とした神様の御心をイエス様によって示されたのです。しかし、人々は分かりませんでした。自分の中にある重大な姿、自己満足・他者排除です。聖書はそれを罪であると指摘しているのです。人間は誰もが自己満足・他者排除を持っています。だから人間はみんな罪人と言わなければならないのです。しかし、人間は自分が罪人であるとは思わないのです。その自己満足が大きくなって、人を排除し、差別していることがわからないのです。分らない人間に対して、神様はイエス様の十字架によりお救いになられたのでした。イエス様の十字架の死と共に、私の中にある自己満足・他者排除も滅ぼしてくださったのです。イエス様の十字架の救いを土台として新しい歩みをしたいのであります。

 旧約聖書は哀歌の示しを与えられています。哀歌の意味は悲しみの歌という意味であります。元の題は「エーカー」として示されていました。エーカーは嘆きの声です。「何故なのですか。どうしてですか」と神様に問いかけているのです。聖書の人々がバビロンに捕われており、さらに都のエルサレムが破壊されてそのままになっている悲しみを歌っているのであります。自らの状況、都の荒廃を嘆きつつ、神様どうしてなのですか、どうして私たちは捕囚の民として生きているのですか、神様の都でもあるエルサレムが荒廃のままでよいのでしようかと嘆きの歌を歌っているのです。しかし、そのように嘆きつつも、神様の救いを信じているのです。「主の憐れみは決して尽きない」と歌っています。

 信じて待つこと、主に信頼すること、聖書の導きであります。出エジプト記モーセに導かれてエジプトを脱出した人々の信仰を記しています。この場合、人々は不平と不満ばかりを述べる人々でした。困難があればすぐにモーセに詰め寄る人々の不信仰がありました。しかし、出エジプト記は不信仰な人々を導く神様の証でもあるのです。聖書は不信仰な人々への預言者たちの働きを示すものですが、それと共に信じて待つこと、主に信頼する人々を証するものです。

 「主に望みをおき尋ね求める魂に、主は幸いをお与えになる。主の救いを黙して待てば、幸いを得る」と哀歌は示しています。「主は、決して、あなたをいつまでも捨て置かれはしない」と励ますのであります。「人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心ではない」とも示しているのであります。今の苦しみは神様が与えておられるのか、との思いがあります。しかし、今の苦しみは「神様の御心」ではないのであります。人生の途上、どうしても歩まなければならない境遇があります。神様の与えた試練でもありますが、それが神様の御心ではないと哀歌は示しているのであります。神様はあなたを導き、あなたに幸いを与えているので、「どうしてなのですか」と神様に問いつつも、そこに神様の深い導きがあることを知りなさいと哀歌は示しています。

 どうしてですか、と問うのは主イエス・キリストのお弟子さんたちでした。マルコによる福音書10章32節以下が今朝の聖書です。イエス様はすでにご自分の十字架への道をお弟子さん達に示しました。「祭司長や律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」ということをお弟子さん達に示しました。その時、お弟子さんのペトロが「そんなことがあってはなりません」と言ってイエス様をたしなめるのでありました。どうしてですかとの問いをイエス様にしているのであります。お弟子さん達にとって、主イエス・キリストに従うということ、それはどのような形であるかは分かりませんが、しかし祝福へと導かれると思っていたのであります。だから、今朝の聖書でも、イエス様が再び十字架への道を示したのでありますが、「そんなことがあってはならない」ので、ゼベダイの子どもであるヤコブヨハネがイエス様にお願いするのです。イエス様の十字架への道と弟子たちのイエス様への思いが意味深く示されています。ヤコブヨハネは「先生、栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人をあなたの左に座らせてください」とお願いしたのであります。いわゆる右大臣、左大臣にしてくださいとの願いです。イエス様が栄光を受けたらと言っていますが、その栄光は人間的に考えている栄光であります。イエス様が救い主として現れたことは信じている弟子たちであります。その救い主イエス様が、いわば王様のような存在になること、その時には右大臣、左大臣にしてくださいとの願いでありました。それに対して、それを聞いた他の弟子たちはヤコブヨハネに対して腹を立てるのであります。ということは他の弟子たちも同じような気持ちを持っていたのであります。

 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と言われた主イエス・キリストの示しと、弟子たちのイエス様への思いは大きく異なるのであります。イエス様が十字架への道を歩むこと、お弟子さん達にとってエーカーであります。「なぜですか。なぜお苦しみを受けられるのですか」との嘆きの声を発しなければなりません。しかし、お弟子さんたちは自分でエーカーを打ち消し、希望のイエス様にしているのであります。「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない」と哀歌で示されました。イエス様は十字架の道を進んで行かれます。それは時の指導者のイエス様に対する妬みでありますが、神様はこの十字架を通して人間をお救いになられたのであります。人間はどうしても自己満足を克服できません。他者排除をなくすことができません。神様はイエス様の十字架の死と共に人間の奥深くにある悪なる姿を滅ぼされたのであります。私たちは十字架を仰ぎ見ます。そこには私の古い姿、自分を中心にする生き方が滅ぼされているのであります。

 今日、私達はイエス・キリストの十字架による救いを信じて、与えられた人生を歩んでいます。それはイエス様のお弟子さん達の証しによるものなのです。そのお弟子さん達は、イエス様に従いつつも、大きな挫折を経験するのです。12人のお弟子さんの中でもペトロさんは、いつもお弟子さん達の中心になってイエス様と関わっていました。そのお弟子さんたちはイエス様のお招きをいただいて従う者になりました。しかし、お招きに応えたものの目的は人間的な思いでした。この人に従えば人生の喜びがあるということです。従って、いつもイエス様の栄光ある姿を夢見ていたのです。そのイエス様が十字架への道を歩み始めたとき、それを思いとどまらせようともしたのです。そしてイエス様が十字架につけられた時には、自分との関係を否定したのでした。そのような彼らですが、彼らは立ち直ったのでした。真にイエス様に従うお弟子さんへと変えられたのでした。ローマカトリック教会の本山はペトロの信仰が基となっています。

 またパウロと言うお弟子さんの信仰も挫折を経験したことが基となっているのです。当初はイエス様への信仰を否定していましたが、そのイエス様に出会い、信じる者へと変えられたのでした。そのパウロの信仰は、何の行いではなく、「信仰によって救われる」と言うことでした。神様に祝福される人間の存在は、何をするのではなく、ただイエス様の十字架の救いを信じることなのです。ただそれだけで「主の僕」なのであります。私の人生は十字架が原点であり、それだけで「主の僕」の人生なのです。

<祈祷>

聖なる御神様。十字架による救いを示され、感謝いたします。人生の基は十字架であることを証させてください。キリストのみ名により、アーメン。

noburahamu2.hatenablog.com