説教「希望の原点を見つめつつ」

2021年3月28日、三崎教会

「受難節第6主日」 棕櫚の主日

 

説教・「希望の原点を見つめつつ」、鈴木伸治牧師

聖書・哀歌5章15-22節、

   マタイによる福音書27章32-56節   

賛美・(説教前)讃美歌21・297「栄えの主イエスの」

   (説教後)511「光と闇とが」

 

 本日は棕櫚の主日であります。主イエス・キリストの十字架への道の最後の一週間であります。今朝のマタイによる福音書は十字架につけられ、死んで行く主イエス・キリストが示されています。棕櫚の主日は日曜日にイエス様が都エルサレムに入って行かれ、受難の道を歩まれることを示されるのであります。マタイによる福音書は21章に記されています。都エルサレムに入られるにあたり、ロバに乗って入って行かれました。イエス様は馬ではなくロバに乗ったのであります。馬は戦いをする者が乗るものであり、イエス様は戦いではなく、平和の象徴としてのロバに乗り、都エルサレムに入ったのでありました。イエス様が都エルサレムの門を入られると、大勢の人々が自分の服を道に敷き、また、他の人々は木の枝を切って道に敷いたのであります。つまり通られる道にじゅうたんを敷くかのごとくにして迎えたのでありました。木の枝とありますが、葉のついた木の枝であります。棕櫚の主日としているのは、前の口語訳聖書、ヨハネによる福音書で「棕櫚の枝」を道に敷いたと記されていましたので「棕櫚の主日」というようになりました。

 こうして人々はイエス様を歓呼して迎えました。「ダビデの子にホサナ。主の名によってこられる方に、祝福があるように、いと高きところにホサナ」と叫びつつイエス様をお迎えしました。「ホサナ」とはヘブライ語で「いま救いたまえ」との意味です。エルサレムに入ってきたイエス様に、「私たちをいまお救いください」と叫んでいるのであります。しかし、このように歓呼して迎えた主イエス・キリストでありますが、金曜日にはイエス様の裁判をしている総督ピラトに対し、「十字架につけろ」と叫ぶのでありました。人間の心の弱さを浮き彫りにしているのであります。この日曜日から始まる十字架への道を主イエス・キリストは確実に踏みしめていたのです。イエス様の十字架への道を受け止めて一週間を歩むのです。

 旧約聖書は哀歌が今朝の示しになっています。哀歌は悲しみの歌でありますが、その悲しみは、バビロンに捕われの民となっていることと都エルサレムの荒廃を悲しんでいるのであります。哀歌の1章1節に「なにゆえ、一人で座っているのか。人に溢れていたこの都が」と歌われていますが、「なにゆえ」が本来の題名です。これは「エーカー」という言葉で、悲しみを表す言葉であり、ため息のような言葉でもあるのです。人々がバビロンに連れて行かれ、都は荒廃するばかりであります。「貧苦と重い苦役の末に国の人々は捕われになり、異国の民の中に座り、憩いは得られず、苦難のはざまに追い詰められてしまった」と悲しみの歌を歌っています。

 今朝の聖書は5章15節からです。「わたしたちの心は楽しむことを忘れ、踊りは喪の嘆きに変わった。」と歌います。すなわち、哀歌はバビロンに滅ぼされ、捕われの身となり、都は荒廃しているので、その悲しみを歌いつつ、この悲しみを招いたのは「私たちが罪を犯した」からであるとするのです。神様のお心に従わず、人間の知恵により、または人間の力により頼んだために、神様の審判として捕われの身となっていることを受け止めているのであります。「主よ、なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ、果てしなく見捨てて置かれるのですか。主よ、御もとに立ち帰らせてください。わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして、昔のようにしてください」と絶望の声をあげています。しかし、絶望の声でありますが、この悲哀の現実を超えて、生きて行くことの希望でもあるのです。現実の苦しみ、悲しみをしっかりと受け止めること、そして生きて行かなければならないのです。「主よ、御もとに立ち帰らせてください。わたしたちは立ち帰ります」と叫んでいるのです。この希望を持ちながら現実を生きているのです。

 哀歌は嘆きの歌であります。悲痛の声をあげています。どうしてこのように苦しみと悲しみの現実を生きなければならないのか、と嘆いています。結局は自分達が神様のお心に従わなかったゆえに、このような悲しみの現実に生きているのでありますが、心を神様に向けるときに希望が与えられることを示しているのです。「わたしたちは立ち帰ります」というとき、神様への信仰があるのです。この現実の苦しみの中にこそ、神様に立ち帰ること、そこに生きる道であると示されたのであります。

 今朝の新約聖書はイエス様が十字架に架けられることが記されています。ここに至るまでの経過は省略されています。イエス様はお弟子さん達と最後の晩餐、夕食をいたしました。その後、ゲッセマネの園でお祈りします。そこにイスカリオテのユダの手引きで、時の指導者たちが差し向けた兵士たちが来てイエス様を捕らえたのでした。そして、ピラトの了解を得て十字架に架けたのでした。十字架は悪いことをした人が処刑されるところなのです。主イエス・キリストは罪を犯したのではありません。時の指導者達の妬みによるものでした。神様はそのようにして御子であります主イエス・キリストが十字架で殺されていくことを承知していました。むしろ、イエス様が十字架で死ぬことにより、人間の奥深くにある自己満足、他者排除をイエス様の十字架の死と共に滅ぼされたのです。私たちが十字架を仰ぎ見るとき、私の罪をイエス様が赦すために死なれたということを信じるのです。まさに私達の明日へと生きる希望の原点なのです。

 金曜日の午後3時頃、イエス様は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言いつつ息を引き取られたのであります。神の子であるイエス様が、神様から見捨てられたと言いつつ息を引き取られたことに疑問が残ります。しかし、イエス様の十字架の救いはそんな安易なものではありません。神の子だからではなく、一人の人間なのです。そして、人間のさまざまな悪を一身に受けて死んでいくのですから、絶望の極みでありました。旧約聖書の哀歌では、苦難と悲惨な状況において、「主よ、御もとに立ち帰らせてください。わたしたちは立ち帰ります」と告白しています。この希望を持ちながら現実を生きて行くことが示されました。しかし、イエス様には希望がないのであります。完全な絶望でありました。この完全な絶望が十字架の救いを完成させたのでありました。主イエス・キリストの十字架の救いが完成されたのであります。神様の御心が実現されたのであります。私たちはイエス様の完全な絶望により、私の中にある自己満足と他者排除を滅ぼされた主イエス・キリストに希望を置くのであります。本日から始まる一週間、主イエス・キリストの十字架を仰ぎ見つつ歩むのです。

 イエス様の十字架を仰ぎ見つつ歩むと示されたとき、私は日本のキリスト教で育てられましたので、特に受難週はイエス様のご受難をしのびつつ歩んでまいりました。日本のキリスト教と申しましたが、受難週は特にイエス様のご受難にあずかるということでした。ですから、昔は日本基督教団でも克己献金が奨励されていました。イースターの40日前から受難節が始まりますので、イエス様のご受難を示され、例えばこの期間、コーヒーを飲まないとか、お茶断ちと言いお茶を飲まないとか、何時も乗っているバスは一駅くらいは歩くとか、少しでもイエス様のご苦難を体験することでした。そこで倹約できたお金を克己献金としてささげるのです。克己献金袋は日本基督教団の事務局から送られてきたのですから、日本基督教団の姿勢でもあったのです。しかし、いつの間にか克己献金という取り組みはなくなりました。私のような年配の人たちはそのような受難節の取り組みを示されていたので、今でもイエス様のご受難に与る克己の生活を示されているのです。

 しかし、示されることは私たちが克己の歩みをしたとして、それでイエス様のご受難を示されるのか、ということです。イエス様のご受難は絶望しながら死を迎えられたのであります。私たちの克己の歩みで体験したということであれば、まことにイエス様に申し訳ないのであります。それより、イエス様のご受難は、死に至る御苦しみは私たちの救いのためであることを示されたいのであります。イエス様の十字架が、この私を真に生きるものへと導いて下さったということです。従って、イエス様のご受難は私たちの御救いでありますので、喜びなのであります。今は、コロナの問題で、イースターと言っても祝会はしないでしょう。しかし、以前はイースターの祝会は皆さんでお祝いしていました。しかし、棕櫚の主日の時、祝会をする教会はありません。今朝、示されましたように、棕櫚の主日はイエス様が私たちをお救い下さるのですから、大きな喜びなのです。従って、棕櫚の主日こそ祝会を開いて喜び合うべきだと示されています。

 受難週が始まりました。私たちもイエス様のご受難を示され、イエス様のご受難が、「希望の原点」であることを示されて歩みたいのであります。

<祈祷>

聖なる御神様。十字架の御救いを感謝いたします。希望の原点である十字架を見つめつつ歩ませてください。キリストのみ名によって、アーメン。

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