説教「導きの声をいただきつつ」

2022年3月27日、三崎教会

「受難節第4主日」       

                      

説教・「導きの声をいただきつつ」、鈴木伸治牧師

聖書・出エジプト記24章12-18節

   マルコによる福音書9章2-8節         

賛美・(説教前) 讃美歌21・298「ああ主は誰がため」

   (説教後) 讃美歌21・461「みめぐみゆたけき」

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 3月の歩みも、本日は最終の礼拝であり、もう次週からは4月の歩み、春本番の歩みとなります。この3月の終わりを歩むとき、示されていることはお別れの言葉であります。私も昨年の3月まで伊勢原幼稚園の園長を担っており、3月で退任となりました。退任するときには園児の皆さん、教職員の皆さんからお別れの言葉を冊子にまとめて下さいまして贈ってくださいました。今でもその冊子を開いては皆さんを思い浮かべながらお別れの言葉を示されています。伊勢原幼稚園の前は横浜本牧教会の早苗幼稚園の園長を勤めましたので、そこでも退任するときにはお別れの言葉を、やはり冊子にまとめて贈ってくださいました。さらに大塚平安教会やドレーパー記念幼稚園では30年間のお勤めがあり、やはり退任するときには教会、幼稚園、教会学校等からお別れの言葉をいただいています。今頃になると、今までいただいた「お別れの言葉」の冊子を示され、それぞれ示されています。お別れの言葉でありますが、励みとなり希望ともなるのであります。そのようなお別れの言葉を示されながら、私たちはイエス・キリストの導きの言葉をいただいていますので、しっかりと示されて日々過ごしたいのであります。

 聖書は神様のお導きを示すものですが、今朝の旧約聖書も「神様のお導き」が示されています。聖書の人々は400年間エジプトの国で奴隷でありました。その苦しみの声を神様がくみ上げ、モーセを通して奴隷から解放されたのであります。エジプトを出て荒れ野をさまよいますが、最初の宿営地がシナイ山のふもとでありました。宿営しているうちにもモーセは神様の導きをいただきまして、このシナイ山に登るのであります。だいぶ昔になりますが、私も聖地旅行をしまして、そのツアーは最初にエジプトからシナイ山に向かいました。そのシナイ山に夜中に登りご来光を見たのでした。その時、ツアーのガイドさんが、私にここで礼拝を司ってもらいたいというのです。それで、モーセが神様から十戒を授与される聖書については、意味深く示されていますので、そのくだりをお話ししながら、神様の救いの約束と新しい導きを与えられたことについてお話したのでした。新しい導きがシナイ山であることを礼拝説教としてお話したのでした。

エジプトを脱出し、このシナイ山に来た時、神様はモーセを通して十戒を与えました。新しい導きが始まるためなのです。最初に十戒を示されたとき、モーセに口頭で与えられたのです。それは出エジプト記19章から記されています。そして、今朝の聖書では、その十戒を石の板に刻まれて示されるのです。十戒は人々を救う基ですが、その救いの十戒を見える形で示されたということです。新しい導きへと変える出発点でありました。

十戒は、最初に石の板に書き付けられたと思うのでありますが、最初は神様が直接モーセに、神様の言葉をもって示したのであります。モーセは示された言葉の十戒を人々に示し、神様の御心として守るように導くのであります。十戒を与えられたモーセは、その十戒の約束の示しを与えられます。すなわち神様の民として、神様の御心に従って生きてゆく戒めであります。今までの生活から「新しい導き」が始まったということです。

 モーセは、このように神様の言葉によって戒め、御心を示されてまいりました。今朝の聖書は、救いの約束である十戒が形あるものとして人々に与えられるのであります。12節「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける」と神様はモーセシナイ山へと招いているのであります。モーセシナイ山に登りました。主の栄光がシナイ山にとどまっていたのであります。今まで神様の口をもって示されてきました御心、戒めは「新しい導き」の原点として与えられることになり、石の板に書き記され、人々の指針とされたのであります。石の板に記された十戒は、その後、箱に納められ、契約の箱として、荒れ野を彷徨する人々の前におかれたのであります。宿営をするときには幕屋といい、その中に納められました。幕屋を通して神様にお祈りを捧げたのでありました。十戒に向かうときには人々の心に救いの約束が与えられました。神様の御心へと導かれるからであります。神様の御心に生きることは、救いに生きることであるとは旧約聖書のメッセージあります。あなたは「新しい導き」を与えられていると示しているのが旧約聖書のメッセージなのであります。

 主イエス・キリストが「新しい導き」の原点であると聖書は示しています。受難節には主イエス・キリストの栄光の姿が示されます。それが今朝の聖書、マルコによる福音書9章2節以下の示しであります。「イエス様の姿が変わる」ことが示されます。今朝の前の部分の聖書は、イエス様がお弟子さん達の信仰告白を聞いた後、イエス様が苦しみを受け、十字架で殺されることをお弟子さん達に告げました。するとお弟子さんのペトロさんが、「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とイエス様をたしなめました。するとイエス様は、人間的にしかイエス様を受け止めていないお弟子さん達を叱ったのであります。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とお弟子さん達に示されたのであります。

 今朝の聖書はそれから「六日の後」のことであります。イエス様はペトロ、ヤコブヨハネさんだけを連れて高い山に登られました。高い山と言っていますが、タボル山とかヘルモン山とも言われています。いずれも5、600メートルの山であります。山に登られるとお弟子さん達の前でイエス様の姿が変わりました。「服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」のであります。マタイによる福音書ルカによる福音書にも同じようにイエス様の変貌が記されています。マタイやルカはイエス様の顔が太陽のように輝いたと記していますが、マルコは顔の輝きについては触れていません。むしろマルコは真っ白に輝く服を強調しています、マタイの場合、服は「太陽のように白かった」と記しますが、マルコは「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」と記しているのです。このことから人間の世界を超えた神様のご栄光が示されているのです。神様の栄光によって主イエス・キリストが光輝くお姿になっているのであります。

 栄光に輝くイエス様が昔現れた神の人達、エリヤ、モーセと語らっている姿をお弟子さんたちは見るのであります。ペトロは茫然となり、思わず言ったのであります。「先生、わたしたちがここにいるのは、素晴らしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」と言いました。すると雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がしました。「これはわたしの愛する子。これに聞け」との声でした。弟子たちはあたりを見渡しますが、そこにはイエス様だけがおられたのであります。「これに聞け」と言われているのは、イエス様に聞くということであります。十字架への道を歩まれるイエス様に聞くということであります。自分の十字架を負いなさいとも言われたイエス様に聞くということであります。その十字架は神様の御心が示されているお導きであるのです。

 聖書は神様のお導きの声を聞きなさい、と言うことが主題です。どのような姿勢で聞こうとしているのか。聖書の最初の人アブラハムは黙々と神様のみ声を聞いたと示しています。その後、聖書の人々がエジプトで奴隷として苦しんでいるとき、神様はモーセを呼び出しますが、モーセは自分には苦しんでいる人々を助けることはできない、口下手であると言いつつ神様の言葉を聞こうとしなかった姿がありました。しかし、神様の導きでお導きに聞き従うようになるのです。エレミヤと言う預言者も、神様のみ言葉を示されたとき、私は若者にすぎませんと躊躇するのです。そういうエレミヤも神様のみ言葉に聞き従う者へと導かれるのです。そういう中で聖書はサムエルの姿勢を意味深く示しています。神様が、まだ子供のサムエルを呼んだとき、サムエルは神様の呼び声を理解できませんでした。何回かの呼び呼び声あり、ようやく神様のみ声であることを知り、「主よ、お話ください。しもべは聞いております。」と答えたのでした。聖書には神様のみ声をいろいろな姿勢で聞く人々を示しています。では私たちはどのように聞いているのでしょうか。神様は私達の全身においてみ声を聞かせて下さっているのです。詩編139編5節に神様が「前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いてくださる。」と示されています。神様のみ声は前からも後ろからも、上からも聞こえるのです。私達の姿勢において聞くことができるのです。
<祈祷>

聖なる神様。十字架のお導きを感謝いたします。救いのみ言葉を真実聞くことができますようお導きください。キリストの御名により。アーメン。

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