説教「信仰の告白」

2022年3月20日、六浦谷間の集会

「受難節第3主日」       

                      

説教・「信仰の告白」、鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書48章1-8節

   テモテへの手紙<二>1章8-14節

   マルコによる福音書8章27-33節        

賛美・(説教前) 讃美歌21・299「うつりゆく世にも」

   (説教後) 讃美歌21・411「うたがい迷いの」

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 3月も明日は春分の日であり、いよいよ春到来の思いが強くなり、寒い冬の間、いろいろと我慢しつつ過ごしてきましたので、解放感が強くなったと言えます。今も日が長くなっていますが、これからはさらに一日が長くなるのであります。そのような春の喜びを持つようになりましたが、キリスト教では四旬節の歩みをしています。今年の復活祭、イースターは4月17日であり、そのイースターまでの40日間を四旬節と称しています。イエス・キリストが十字架への歩みをされるのであります。それは3月2日より始まりました。四旬節の間はイエス様の苦難を偲びつつ歩みますので質素な歩みをいたします。ヨーロッパの伝統でありますが、肉を食べない、楽しく過ごさないということです。そうなると、人間の素朴な思いですが、今のうちに美味しいものを食べる、肉をいっぱい食べ、楽しく過ごそうということになり、お祭り騒ぎになるのであります。それをカーニバルと言います。バルセロナにおります娘の羊子が知らせてくれました。子どもの義也の幼稚園でもカーニバルのときは、仮装して登園するのだと言われています。町中がお祭り騒ぎになるのです。そして四旬節を今は迎えているのです。四旬節と言っても普通の生活をするということです。

 日本のキリスト教も以前は四旬節には克己の生活が求められました。イエス様のご苦難を忍びつつコーヒーを飲まないとか、電車やパスの短い区間は歩くとか、そのように偲びつつ過ごしたものです。しかし、今は四旬節を示されつつ歩むと言うことになっています。改めて四旬節を示されながら信仰の告白を示されたいのであります。

 旧約聖書イザヤ書48章が示されています。イザヤ書は、聖書の人々がバビロンという国に滅ぼされ、多くの人々がバビロンにつれて行かれたことを記しています。捕虜として連れて行かれるわけですが、それを捕囚と称しています。捕囚の人々はバビロンで牢屋に入れられるというのではなく、バビロンの国のために働かせられるのであります。それは苦しい日々でありました。そもそも聖書の人々がバビロンに滅ぼされるということになったのは、人々が神様の御心に従わなかったことが原因でありました。当時の世界はバビロンを始めエジプトやアッシリアという大きな国々がにらみ合っている状況でした。従って、小さな民族である聖書の人々は力のある国々に頼ろうとしたのであります。まず神様の御心に従わなければならないのでありますが、人間の力に頼り頼んだのであります。その結果がバビロンに滅ぼされたということになるのであります。

 「ヤコブの家よ、これを聞け。ユダの水に源を発し、イスラエルの名をもって呼ばれる者よ。まこともなく、恵の業をすることもないのに、主の名をもって誓い、イスラエルの神の名を唱える者よ。」と人々の姿を述べています。いかにも忠実な僕のような表現でありますが、全く逆の言い方をしているのです。神様との深い関係があるにも関わらず、真実をもって応答しない人々の姿を示しているのです。形は神様の民でありますが、中身は神様に従わない人々でありました。まことの神様の御心に立ち帰れと繰り返し述べてきているのです。聖書の人々がバビロンに対してとった対策はエジプトと同盟を組むことでした。そうすれば何とか生き残れると思ったのです。それに対してエレミヤという預言者は、神様の御心として、バビロンに降伏しなさいということでした。降伏して生き延びる道を示したのであります。しかし、指導者たちは、降伏などはもってのほかと決戦の姿勢でありました。結局、都エルサレムはバビロンによって破壊され、神殿の聖なる祭具はことごとく略奪されたのであります。エレミヤは繰り返し叫んでいます。「背信の子らよ、立ち返れ。わたしは背いたお前たちをいやす」と神様の御心を示しているのであります。背信の子らでありますが、その彼らを神様は救済するのであります。そのことを示すのが6節の後半であります。「これから起こる新しいことを知らせよう。隠されていたこと、お前の知らぬことを」と示しています。すなわちバビロンに囚われの身として生きているあなたがたに解放が与えられるということであります。「新しいこと」として示していますが、ペルシャの王様キュロスがバビロンを滅ぼし、その時あなた方は解放されるというのであります。あなた方の背信、神様の御心から離れた生き方に神様の審判が下りました。それが捕囚というものです。捕囚の中で人々は改めて神様の御心を示されました。神様の御心に生きることこそ、祝福の歩みであることを示されるのであります。自分の十字架を担うものへと導かれて行くのです。

 新約聖書は主イエス・キリストにより救いが示されています。まず、お弟子さんたちの信仰告白が求められます。イエス様はお弟子さんたちに聞きました。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」との問いであります。神様の御心と業を示すイエス様を人々はどのように受け止めているのか。イエス様の問いにお弟子さん達は答えています。「洗礼者ヨハネ」と言う人がいますと答えています。ヨハネはイエス様より先に現れて、悔い改めの教えと洗礼を授けた人であります。その洗礼者ヨハネは時の王様の生き方を厳しく批判しましたので、首を切られて殺されてしまいました。人々はそのヨハネが再び現れたと言っていますし、ヨハネのようだとも言っているのです。他には「エリヤ」であるとの見方もありました。エリヤと言う人は古い時代の人で、エレミヤよりも早く現れ、神の人と言われていました。このような人々のイエス様の理解を聞いた後で、イエス様はお弟子さん達に「それでは、あなた方はわたしを何者だと言うのか」と尋ねたのであります。お弟子さんの中のペトロが「あなたは、メシアです」と答えたのでありました。あなたはメシアであるということ、あなたは救い主でありますと言っているのであります。イエス様の弟子として、イエス様に従ってきたとき、多くの人々の癒し、神様の御心を教えること、力ある業を示されてきたお弟子さんたちは、まさにこの方こそ救い主、メシアであると信じたのであります。

 ペトロの信仰告白を聞いたイエス様は、ご自分の進んで行かれる道を示されました。イエス様が多くの苦しみを受けるということ、社会の指導者たちから排斥されて殺されるということ、しかし三日目に復活されることをお話されたのです。するとペトロはイエス様をわきへお連れして、いさめ始めたのです。マルコによる福音書は、ペトロのイエス様をいさめた内容は記していませんが、マタイによる福音書はこのように記しています。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(16章22節)とペトロがイエス様に意見を述べているのであります。ペトロを始めお弟子さんたちはイエス様が苦しみを受け、殺されることなど到底考えられないことです。希望をもってイエス様に従ってきたのであります。「そんなことがあってはなりません」というペトロに、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱るのであります。 

 十字架を仰ぎ見るということは、私自身を見つめることになります。私が真実生きるためにイエス様が十字架におかかりになった事実を信じることであります。私達が自分を見つめること、それは自分の十字架を負うということなのです。

 讃美歌54年版の331番はイエス様の十字架を賛美しています。讃美歌21にはありませんので、除外されているのが残念です。「主にのみ十字架を負わせまつり、われ知らずがおにあるべきかは」と歌われています。作者のトマス・シェパードはイギリス国教会の聖職でしたが、国教会から離れて非国教会に転向しました。定められた信仰の形式から、自由な信仰の牧師になったのです。この作者の信仰は、まさに十字架の信仰でした。主イエス・キリストが十字架にかけられてまで、人間をお救いになられたことに対して、その十字架にどのように向き合っているのか。その信仰を人々に宣べ伝えたのでした。新約聖書の中で、パウロは「十字架の救いを無駄にするのか」と繰り返し示しています。コリントの信徒への手紙(一)15章2節に、「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、この福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」と示しています。十字架の救いを無駄にしていないかと言うことです。さらに、ヘブライ人への手紙2章3節では、「これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう」と示しています。十字架の救いに対して「むとんちゃく」になるなということです。私達の信仰は十字架に始まり、十字架により完成するのです。

<祈祷>

聖なる神様。私たちをお救いくださり感謝いたします。十字架の救いを人々に示させてください。キリストによってお祈りいたします。アーメン。

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