説教「自分の十字架を背負う」

2018年3月4日、六浦谷間の集会 
「受難節第3主日

説教・「自分の十字架を背負う」、鈴木伸治牧師  
聖書・イザヤ書48章1-8節
    テモテへの手紙<二>1章8-14節
     マルコによる福音書8章27-33節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・138「ああ主は誰がため」
    (説教後)讃美歌54年版・385「うたがい迷いの」

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 3月を迎え、やはり春になったとの思いが深くなっています。だんだんと動きやすくなってきたわけです。動きやすくなってきたところで3月の忙しさになっています。3月は幼稚園でも卒園式、修業式があり、その準備等で忙しくなっています。卒園する子供たちとのお弁当はまだ続いています。年長組の皆さんと、園長室でお弁当を食べています。毎回、4人ずつ園長室にやってきてお弁当を食べるのです。やはり環境が異なるところでのお弁当は楽しいのです。事前にお手紙で知らせます。手紙をもらった子供は、うれしくて、その手紙を飾っていたとお母さんが報告してくれました。お弁当を一緒に食べるものの、特別なお話をするのでもなく、今まで楽しかったこととか、どこの小学校に行くのか、そんなお話をしながら一緒にお弁当を食べています。お母さんも、今日は園長先生とお弁当を食べるので、と言う訳で、いろいろと工夫してお弁当を用意しているようです。おにぎりにしても、可愛い飾りを付けるものですから、食べるのがもったいなくて、なかなか進まないのです。卒園式は3月15日ですから、残る二週間で終わりとなるのです。年長組の子どもたちは小学校への思いが、希望と不安となっているでしょう。それは在園児も同じです。今まで年中組の子供は年長組になり、憧れと不安もあるのです。新しい状況を前にして、希望を持ち、また不安を持ち、それらが交々にしての歩みをしているのです。
 私の早苗幼稚園における園長としての職務も、この3月で終わることになります。2016年9月を持ちまして、今まで教会の牧師と共に幼稚園園長を担っていた人が辞任しましたので、教会の代務者として小林誠治牧師が担うことになりました。本来、幼稚園の園長も担うところですが、その頃、小林先生は神学校の校長先生であり、幼稚園までは担えないということでした。それで、園長は私が担うことになったのです。実は2010年4月から9月までの半年間、私が横浜本牧教会の代務者及び早苗幼稚園の園長になったのです。そのような経験があるものですから、再び幼稚園の園長を担うことになったのです。当初は半年間のつもりでいました。しかし、4月からの新しい教会の牧師が決まりませんで、さらに一年間、幼稚園を担うことになったのです。半年のつもりが一年半も担うことになりました。この3月でようやく終わると思っていたとき、実は別の幼稚園からのお招きがあり、4月からは別の幼稚園の園長に就任することになりました。私に負わされた使命のように示されています。
 神学校を卒業し、最初の教会は東京の青山教会の副牧師でした。そして4年後に宮城県にある教会にお招きをいただきました。今までの牧師は40年間、教会と幼稚園を担ってこられたのです。だから、当然、その後任ですから牧師と幼稚園園長を担うと思っていたのです。ところが、その教会からは園長は担わなくても結構ですということでした。そのつもりでいたのに、園長は担わなくてもよいと言われたので、しばらくは就任の承諾はしませんでした。しかし、折角、園長はしなくてもよいと言われ、牧会に専念してほしいと言われているのですから、お受けしたのでした。従って、その教会では幼稚園があるものの6年半、教会の牧師として務めたのでした。そのような経緯を思いだしているのは、今になって幼稚園の使命が次々に与えられているからです。牧師を隠退しているものの、最初は幼稚園の園長が出来なくて不平を言ったのですが、今は、次々に園長の職務が与えられること、神様が私の使命として、いわば担うべき十字架として導かれていると示されています。与えられている使命を担いたいと思っています。

 旧約聖書イザヤ書48章が示されています。イザヤ書は、聖書の人々がバビロンという国に滅ぼされ、多くの人々がバビロンにつれて行かれたことを記しています。捕虜として連れて行かれるわけですが、それを捕囚と称しています。捕囚の人々はバビロンで牢屋に入れられるというのではなく、バビロンの国のために働かせられるのであります。それは苦しい日々でありました。そもそも聖書の人々がバビロンに滅ぼされるということになったのは、人々が神様の御心に従わなかったことが原因でありました。当時の世界はバビロンを始めエジプトやアッシリアという大きな国々がにらみ合っている状況でした。従って、小さな民族である聖書の人々は力のある国々に頼ろうとしたのであります。まず神様の御心に従わなければならないのでありますが、人間の力に頼り、偶像の神に心を寄せる状態でありました。その結果がバビロンに滅ぼされたということになるのであります。
 「ヤコブの家よ、これを聞け。ユダの水に源を発し、イスラエルの名をもって呼ばれる者よ。まこともなく、恵の業をすることもないのに、主の名をもって誓い、イスラエルの神の名を唱える者よ。聖なる都に属する者と称され、その御名を万軍の主と呼ぶイスラエルの神に依りすがる者よ」と人々の姿を述べています。いかにも忠実な僕のような表現でありますが、全く逆の言い方をしているのです。神様との深い関係があるにも関わらず、真実をもって応答しない人々の姿を示しているのです。形は神様の民でありますが、中身は神様に従わない人々でありました。この姿についてはイザヤにしても他の預言者たちは繰り返し指摘してきました。まことの神様の御心に立ち帰れと繰り返し述べてきているのです。5節には「わたしはお前に昔から知らせ、ことが起こる前に告げておいた」と示しています。神様の御心は初めから示されているのであります。示されていながら、心は偶像の神々に向けていたのであります。
 聖書の人々がバビロンに対してとった対策はエジプトと同盟を組むことでした。そうすれば何とか生き残れると思ったのです。それに対してエレミヤという預言者は、神様の御心として、バビロンに降伏しなさいということでした。降伏して生き延びる道を示したのであります。しかし、指導者たちは、降伏などはもってのほかと決戦の姿勢でありました。結局、都エルサレムはバビロンによって破壊され、神殿の聖なる祭具はことごとく略奪されたのであります。エレミヤは繰り返し叫んでいます。「背信の子らよ、立ち返れ。わたしは背いたお前たちをいやす」と神様の御心を示しているのであります。
 背信の子らでありますが、その彼らを神様は救済するのであります。そのことを示すのが6節の後半であります。「これから起こる新しいことを知らせよう。隠されていたこと、お前の知らぬことを」と示しています。すなわちバビロンに囚われの身として生きているあなたがたに解放が与えられるということであります。「新しいこと」として示していますが、ペルシャの王様キュロスがバビロンを滅ぼし、その時あなた方は解放されるというのであります。あなた方の背信、神様の御心から離れた生き方に神様の審判が下りました。それが捕囚というものです。捕囚の中で人々は改めて神様の御心を示されました。神様の御心に生きることこそ、祝福の歩みであることを示されるのであります。自分の十字架を担うものへと導かれて行くのです。

 新約聖書は主イエス・キリストにより救いが示されています。まず、お弟子さんたちの信仰告白が求められます。イエス様はお弟子さんたちに聞きました。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」との問いであります。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と福音を述べ始められたイエス様は、まずペトロを始めお弟子さんたちを選ばれました。そして多くの病人を癒し、神様の御心を教え、神様の救いの業をあたえてこられました。従って、人々の主イエス・キリストに対する受け止め方があります。神様の御心と業を示すイエス様を人々はどのように受け止めているのか。イエス様の問いにお弟子さん達は答えています。「洗礼者ヨハネ」と言う人がいますと答えています。ヨハネはイエス様より先に現れて、悔い改めの教えをと洗礼を授けた人であります。その洗礼者ヨハネは時の王様の生き方を厳しく批判しましたので、首を切られて殺されてしまいました。人々はそのヨハネが再び現れたと言っていますし、ヨハネのようだとも言っているのです。他には「エリヤ」であるとの見方もありました。エリヤと言う人は古い時代の人で、エレミヤよりも早く現れ、神の人と言われていました。預言者でありますが、その頃は神の人と言われていました。神様の力強い業を人々に示した人であります。イエス様が神様の業を示しているので、エリヤの再来と思う人もいたのです。また、イエス様が神様の御心をお話するので、昔の預言者と思う人もいたのです。このような人々のイエス様の理解を聞いた後で、イエス様はお弟子さん達に「それでは、あなた方はわたしを何者だと言うのか」と尋ねたのであります。お弟子さんの中のペトロが「あなたは、メシアです」と答えたのでありました。あなたはメシアであるということ、あなたは救い主でありますと言っているのであります。イエス様の弟子として、イエス様に従ってきたとき、多くの人々の癒し、神様の御心を教えること、力ある業を示されてきたお弟子さんたちは、まさにこの方こそ救い主、メシアであると信じたのであります。
 イエス様を救い主として見ること、そこに救いがありました。救いを真実あたえられるために、自分自身の罪の姿を示されることであります。ペトロの信仰告白を聞いたイエス様は、ご自分の進んで行かれる道を示されました。イエス様が多くの苦しみを受けるということ、社会の指導者たちから排斥されて殺されるということ、しかし三日目に復活されることをお話されたのです。するとペトロはイエス様をわきへお連れして、いさめ始めたのです。マルコによる福音書は、ペトロのイエス様をいさめた内容は記していませんが、マタイによる福音書はこのように記しています。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(16章22節)とペトロがイエス様に意見を述べているのであります。ペトロを始めお弟子さんたちはイエス様が苦しみを受け、殺されることなど到底考えられないことです。希望をもってイエス様に従ってきたのであります。この方に従うことにより、必ずや良いことになると信じでいたのであります。お弟子さんたちはイエス様に人間的な希望をもっていたのであります。イエス様が殺されることなど考えも及ばなかったのであります。「そんなことがあってはなりません」というペトロに、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱るのであります。
 神様は人間が救われない姿を持っているので、救いを始めておられるのであります。今までは預言者を通して「立ち帰れ」と示してきました。しかし、人間は立ち帰ることができなかったのであります。常に自己満足に生きることしかできない人間に対して、主イエス・キリストを世に出現され、御心を示し、業を持って導きましたが、それでも人間は救いの道を歩むことができませんでした。そのため神様はイエス様を十字架にお架けになるのであります。社会の指導者、長老、祭司長、律法学者たちによって殺されますが、それが命の救いでありました。昔、バビロンに滅ぼされた時、それは神様が人々の命の救いを与えるためなのです。今、時の指導者たちの妬みにより殺されますが、このイエス様の死を通して人間をお救いになるのであります。主イエス・キリストは十字架で死んでいきますが、その時、人間の奥深くにある自己満足、他者排除の姿をも滅ぼされたのであります。十字架は私が克服できない悪なる存在をイエス様が滅ぼされたのであります。
 十字架を仰ぎ見るということは、私自身を見つめることになります。私が真実生きるためにイエス様が十字架におかかりになった事実を信じることであります。私達が自分を見つめること、それは自分の十字架を負うということなのです。

 讃美歌54年版の331番はイエス様の十字架を賛美しています。私の愛唱讃美歌ですが、讃美歌21にはありませんので、除外されているのが残念です。「主にのみ十字架を負わせまつり、われ知らずがおにあるべきかは」と歌われています。作者のトマス・シェパードはイギリス国教会の聖職でしたが、国教会から離れて非国教会に転向しました。定められた信仰の形式から、自由な信仰の牧師になったのです。当初は納屋で集会を続けていたと言われます。後に信仰者の群れが多くなり、教会にまで育てたと言われます。この作者の信仰は、まさに十字架の信仰でした。主イエス・キリストが十字架にかけられてまで、人間をお救いになられたことに対して、その十字架にどのように向き合っているのか。その信仰を人々に宣べ伝えたのでした。新約聖書の中で、パウロは「十字架の救いを無駄にするのか」と繰り返し示しています。コリントの信徒への手紙(一)15章2節に、「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、この福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」と示しています。十字架の救いを無駄にしていないかと言うことです。さらに、ヘブライ人への手紙2章3節では、「これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう」と示しています。十字架の救いに対して「むとんちゃく」になるなということです。私達の信仰は十字架に始まり、十字架により完成するのです。
この讃美歌を基にして新年の賀状をくださった方がおられました。「師にのみ十字架を負わせまつり、われ知らずがおにあるべきかは」と添え書きがありました。牧師が一人でこつこつと牧会をしていることに対するものでした。牧師は十字架の福音を宣べ伝えているのです。その働きを教会員が見ているだけであるのか、と自省の意味で書いておられるのです。「主にのみ十字架を」と歌いつつ、私に与えられた使命を担いたいのです。現在の私にイエス様は十字架への道を与えてくださっているのです。
<祈祷>
聖なる神様。私たちの命をお救いくださり感謝いたします。十字架の救いを多くの人々に示させてください。主イエス・キリストによってお祈りいたします。アーメン。