説教「救い主を拝む」

2018年12月30日、六浦谷間の集会 
降誕節第1主日」 歳晩礼拝

説教・「救い主を拝む」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書61章1-11節、
    ヨハネの手紙<一>1章1節-2章2節
     マタイによる福音書2章1-12節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・115「ああベツレヘムよ
    (説教後)讃美歌54年版・118「くしき星よ、闇の夜に」

 今回の礼拝は2018年の最後の礼拝となりました。この世のカレンダーのことであり、私たちは主イエス・キリストのご降誕により新しい歩みが始まっています。基本的にはクリスマスは次年の1月6日まで続いていますので、クリスマスの飾りはまだ続いています。我が家もクリスマスのリースは前週の23日の前の日に飾りました。もっと早く飾ろうと思っていましたが、つい後回しになっていたのです。23日の六浦谷間の集会のクリスマス礼拝には、知人の皆さんが来られるので、リースを飾ったと言う訳です。日本では、クリスマスが終われば、クリスマス飾りは全て取り除けられ、新しい年の松飾りに変わりますので、クリスマスについては昔のことになってしまうのです。その意味でも、カレンダーが変わること、新しい年を迎えるという思いが深まっていくのであります。バルセロナに滞在していたとき、クリスマスのためにいろいろなグッズを売る屋台が出ていましたが、それは24日には全て撤去されました。屋台を出していた皆さんもクリスマスをお祝いしたいからです。しかし、バルセロナは1月6日の顕現祭が本当のクリスマスになるようで、それまでは顕現祭を待望しつつの歩みとなるのです。顕現祭には東の国の博士さんたちがイエス様にお会いし、宝物をささげたことで、むしろ顕現祭の方が賑やかにお祝いしているのです。
 今年のお正月はバルセロナ在住の羊子家族が一時帰国していました。羊子、イグナシオさん、義也君は2017年12月20日に一時帰国しました。その年の7月末から8月初めにかけて羊子と義也君が帰国しています。そのときはイグナシオさんは来られませんでしたが、今回の年末からの帰国にはイグナシオさんも一緒に来られたのです。1月4日には羊子家族と鎌倉に出かけました。まだお正月であり、鎌倉は大変な人でした。1月6日の土曜日には深沢教会で羊子のピアノ・リサイタルを開かせていただきました。深沢教会は齋藤篤牧師ですが、ドイツのケルン・ボンの集会で牧会していましたので、バルセロナの集会にも来られており、羊子ともお交わりがあったのです。齋藤牧師は私の神学校の後輩でもあり、私自身とも関わりがありました。齋藤牧師は喜んで羊子のピアノ・リサイタルを開いてくれたのでした。そのリサイタルには大塚平安教会の津田喜一郎さん、大西良平さん、大符満子さんも出席してくれました。以前、津田さんと大西さんは深沢教会に出席していたのです。1月10日には羊子家族はバルセロナに帰って行きました。連れ合いのスミさんには「すずらん」というサロンに通うようになり、1月11日に体験・見学をしました。以後、毎週木曜日と金曜日の二日間はサロンに通うようになります。月曜日と水曜日のデイサービスには2017年10月から通うようになり、2018年も一年間通いつつ過ごしました。従って、連れ合いのスミさんは月曜日と水曜日はデイサービスに、木曜日と金曜日はサロンに通っており、一週間のうち四日間は出かけるようになりました。
 私は3月までは横浜本牧教会付属早苗幼稚園の園長を担っていました。3月までは、月に一度ですが横浜本牧教会の礼拝説教を担当していました。横浜本牧教会は後任の牧師が決まりましたので、留守番園長としての役目は3月で終わりました。ところが4月からは伊勢原教会に関わる認定こども園伊勢原幼稚園の園長に就任したのであります。1月頃から伊勢原教会の服部能幸牧師より園長就任の打診があり、早苗幼稚園が3月で終了するので、まだ余力があると思いつつ承諾したのでした。以後、4月からは伊勢原幼稚園の園長として務めています。自宅から伊勢原幼稚園まで2時間を要しますが、しかし務めは月、水、金の三日間にしていますので、休み休み務めています。伊勢原幼稚園では教会の礼拝説教はありませんが、8月12日に礼拝説教を担当させていただきました。牧師の休暇ということで担当させていただきました。礼拝説教は6月17日に宿河原教会の礼拝説教を担当させていただきました。三崎教会は2月25日、4月29日、6月25日、7月29日、9月23日、10月28日、12月16日の礼拝説教を担当させていただきました。8月19日には横浜本牧教会に招かれ礼拝説教を担当させていただきました。
 伊勢原幼稚園ではいろいろな行事を踏まえながら、特にキリスト教幼稚園の意義を深めながら担当しています。子どもたちへの礼拝説教は、今までは教会の皆さんが順次お話しをしていましたが、私が園長に就任してからは、園長が毎回お話しをするようになっています。教職員の聖書研究も担当するようになり、キリスト教幼稚園の内容を深めさせていただいているのです。
 以上、2018年の歩みを振り返っておきましたが、神様のお導きであり、用いてくださっていることを心から感謝しているのです。そのような歩みの中にも、今朝示されるように「救い主を拝む」歩みが大切なことなのです。聖書の示しをいただきます。

 「主はわたしに油を注ぎ、主なる霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために」とイザヤは宣言しています。このようなメッセージを伝えなければならない社会的情勢がありました。まさに社会的には中心がなく、いわゆる拠り所がない生き方でありました。聖書の民はバビロンという大国に滅ぼされ、多くの人々がバビロンに捕囚として連れて行かれたのであります。約50年、異国の空の下で、捕われの身として過ごしたのであります。ところがバビロンの勢力が弱まり、ペルシャによってバビロンは滅ぼされたのであります。それにより聖書の人々は解放されてユダの国に帰るのであります。しかし、多くの人々はもはや住み慣れたバビロンに残っていました。帰還しても生活することは困難であることを知っていたからであります。まして50年は、もはや老人になっているのであり、力を弱くしているのであります。50年の空白を取り戻すことはできないと思ったのです。従って、都のエルサレムに帰ったのは、そんなに多くの人々ではありませんでした。都に帰った聖書の人々はまず崩された神殿の修築を致します。そして都の建て直しをするのであります。しかし、バビロンにつれて行かれなかった人々がいます。さらに周辺の人々がいます。50年もいなかった人々が帰って来た時、現地の人々は冷たくあしらったのであります。
 不安定な、中心が定まらない社会に生きる人々へのメッセージを伝えるのが今朝のイザヤなのであります。神様は困難な状況に生きる人々を決して見過ごされることはないのです。「貧しい人々に良い知らせ」を、「打ち砕かれた心を包んでくださる」とイザヤは示しているのであります。だから、新しい思いをもって歩みなさい、神様のお心を知りなさいと示します。「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び踊る。主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる」と言うのであります。今までの生活は、たとえバビロンの捕囚という苦しい生活でありましたが、人々はそれなりに捕囚の生活にも馴染んだ生き方でありました。しかし、今また新しい歩みをする時、戻りたいという思いもあり、新しい歩みへの不安がありました。そういう不安に対して、神様の導きによる新しい歩みに、勇気をもって委ねなさいと教えているのがイザヤなのであります。新しい歩みとしての「晴れ着」を神様がくださるのです。神様の御心こそが基なのであり、それは今まで歩んだ恵みの導きを示されるということです。そして恵みの歩みを基にして、新しい歩み出しが導かれていくのであります。クリスマスのメッセージはそのことです。今まで与えられた恵みを基にして新しい歩みが導かれるのです。

 イエス様が生まれたという知らせは多くの人々に不安を与えました。今朝の聖書はマタイによる福音書2章1節以下でありますが、登場する人々の不安が示されています。イエス様がベツレヘムでお生まれになった時、東の方から占星術の学者たちがイエス様に会いにやってきました。占星術の学者とは星占いの人々です。毎日、空を見上げては星を見つめていました。星の現れ方により世の中の指針を与えていたのであります。その彼らが不思議な星を見つけ、その星を目指して都エルサレムにやってきたのであります。占星術の学者たちは、不思議な星が救い主出現の意味であることを知り、まさに不安を持ちつつ会いにやってきたのであります。彼らがエルサレムで述べたことは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言っています。ユダヤにはヘロデ王がいます。それなのに、はっきりと新しい王様について述べているのでありますから、占星術の学者たちも不安があったはずです。しかし、新しい王様にぜひお会いしたいとの思いが強かったのであります。不安が思いを強めたということです。
 一方、占星術の学者たちの言っていることを聞いて不安を覚えたのはユダヤの人々、都エルサレムの人々でした。ヘロデ王がいるのに、また新しい王様が現れたとなると、これはいったいどうなるのかと不安を覚えました。なかでも不安におののいたのはヘロデ王自身であります。占星術の学者たちを呼び、ことの次第を聞き、送り出しました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」と占星術の学者たちは確かに言っているのです。穏やかではありません。王様は祭司長、律法学者たちを集め、その事実を確かめさせるのであります。彼らは旧約聖書に示されている預言の言葉を王様に示すのでありました。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者達の中で、決していちばん小さい者ではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである」と旧約聖書ミカ書5章1節の預言の言葉を王様に示したのであります。それにより王様は学者たちをベツレヘムに送りだしたのです。
 不安を覚えると言うことは、新しい歩みに対する不安なのであり、新しい事実が分からないままに動揺するのであります。マタイによる福音書はヨセフさんを中心にイエス様の降誕物語が記されています。ヨセフさんはマリアさんとは婚約の仲でありました。ところがマリアさんは身ごもったというのです。ヨセフさんは不安を覚えました。こういうことがあってはならないということです。それでマリアさんとの関係を断つ決心を致します。しかし、天使に示されたことは、新しい事実を受け止めることであったのです。新しい事実は不安にならざるを得ないのです。しかし、その不安を励ましたのは神様でありました。これはルカによる福音書マリアさんにおいても同じであります。自分から子供が生まれる、しかも神の子が生まれると言うこと、非常に不安を覚えました。マリアさんの不安を励まし、新しい状況に一歩を踏み出すよう導くのは神様でありました。
 クリスマス物語は実に不安を突き破って、新しい状況へと歩み出す示しなのであります。占星術の学者たちは不安のままにお生まれになったイエス様とお会いしました。そして、もってきた宝物を贈り物としてささげたのでありました。まさに不安のままにイエス様とお会いしましたが、今や新しい歩みが始まったことを確信し、ヘロデ王に報告しなければなりませんが、報告することなく帰って行ったのでありました。不安はなくなりました。博士さんたちの不安は、間違いというべきか、彼らは星の導きで進みましたが、都のエルサレムに行ってしまったのです。都に入ってからは星の導きはありませんでした。だから、「ユダヤ人の王としてお生まれになられた方は、どこにおられますか」と人々に尋ねたのでした。ヘロデ王によってベツレヘムであることを示され、その方角に進むと再び導きの星が現れたのでした。人間的な思いで、救い主だから都にお生まれになられたと思ってしまったのです。導きの星に委ねて歩まなければならなかったのです。星の導きに委ねたとき、救い主にお会いすることができ、拝むことができたのでした。

 この一年間はお恵みの年であったことを最初に述べました。ことしは79歳の歩みであり、来年は80歳になります。もはや現役の牧師は隠退していますが、共に担っていました幼稚園の園長は2016年の早苗幼稚園、そして今年の4月からの伊勢原幼稚園の園長になっています。神様はまだ用いてくださっているのだと示されています。用いてくださる限り励みたいと思います。
今年は親しくお交わりをさせていただいた数人の方を天国へお送りしています。大塚平安教会時代にお交わりいただいた柵山悦也さんが1月7日に召天されました。ご両親はホーリネス教会の牧師であり、戦争中の迫害を経験されながら歩まれたのです。時に触れてそのお証を示されていました。7月11日には角田真澄さんが召天されました。真澄さんは一時は他の教会に転会しました。ご自分の働き場所を示されていたのです。大塚平安教会にいる限り働き人が多いので、比較的小規模な教会に移られてのお働きでした。しかし、また大塚平安教会にもどられてお交わりを深めていたのです。ご葬儀に列席させていただきました。その後、角田敏太郎さんが11月29日に召天されました。真澄さんのご葬儀に列席し、喪主である敏太郎さんに、私は自分を指さしながら「私が分かりますか」と尋ねました。「分るよ、旧い付き合いではないか」と言われてことが、今でも耳に残っています。角田さんは大塚平安教会の草創期からの方で、それなりに教会の中心として歩まれてきました。その角田さんとは教会の歴史、教会の姿勢等でしばしば議論していました。しかし、基本的には良いお交わりが導かれたと思っています。
教会に導かれた皆さんが、イエス様とお会いし、「救い主を拝む」歩みでありました。十字架の御救いをいただき、いつも十字架のイエス様に導かれていたのです。救い主を拝みつつ、新しい年も歩みたいと示されています。
<祈祷>
聖なる御神様。ご降誕により新しい歩みが導かれていることを感謝致します。勇気をもって新しい歩み出しができるよう導いてください。主の御名によりささげます。アーメン