説教「救い主を見つめつつ」

2018年4月1日、六浦谷間の集会 
「復活節第1主日イースター

説教・「救い主を見つめつつ」、鈴木伸治牧師  
聖書・イザヤ書42章10-17節
    コリントの信徒への手紙<一>15章1-11節
     ヨハネによる福音書20章1-18節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・148「すくいのぬしは」
    (説教後)讃美歌54年版・152「陰府のちからは」

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 今朝は主イエス・キリストのご復活日であります。イースターおめでとうございます。イエス様のご復活は私たちの新しい歩み出しであります。毎年、イースターを春に迎えることができるのは、本当にお恵みであります。3月は年度の終わりの時であり、4月は始まりであります。イースターを3月に迎える場合もありますが、終わりと始まりを示されながら、イエス様のご復活のお導きを示されるのです。今まで苦しく歩んでいた人は、もはや新しい歩みが始まったことを知らなければなりません。今まで悲しみを持ちつつ歩んでいた人は、もはやイエス様の福音の喜びを知らなければなりません。今まで喜びを持っていた人は、イエス様の新しい喜びを持って歩み出さなければなりません。主イエス・キリストのご復活は私達に新しい命、新しい歩みを与えてくださるのであります。
 今年は4月1日がイースターであり、2018年度の始まりの時であります。イースターと共に年度が始まることのお恵みを示されています。2010年3月に30年間務めた大塚平安教会を退任したのですが、その後、横浜本牧教会の代務者及び付属の早苗幼稚園に就任することになりました。そのときも4月1日がイースターでありました。最初の横浜本牧教会の礼拝説教を担当し、その後、礼拝後はイースターのお祝いと共に私の歓迎会を開いてくださいました。横浜本牧教会はイースターには墓前礼拝をささげることになっており、歓迎会が終わりましてから上大岡にある教会墓地に赴いたのであります。代務者として最初の日曜日がイースターであり、午後からは墓前礼拝等があり、家に帰ったのが夕刻であり、疲労をおぼえた次第です。しかし、その日からイースターと共に新しい歩みが始まったのであり、イエス様のご復活と共に新しい歩みが導かれているとの思いがあり、力強い示しを与えられたのでした。そのときの代務者及び園長は、その年の9月で終わりました。新しい牧師を迎えるまでの暫定的な留守番牧師でもあったのです。
 結局、隠退牧師としての歩みが始まるのは2011年6月からです。2010年10月からは、どこの教会にも属さない無任所牧師として過ごしていました。そして、その後は隠退したと言う訳です。隠退してからはスペイン・バルセロナにおります羊子のもとへ3回ほど訪れています。いずれも2ヶ月くらいの滞在ですから全部で半年位滞在しているのです。そしてマレーシア・クアラルンプール日本語聖書の会のボランティア牧師として3ヶ月ほど赴いています。そのような歩みをしていたのですが、再び横浜本牧教会からお招きをいただきました。今度は代務者ではなく、幼稚園の園長としてであります。今回も暫定的な園長であり、今までの牧師が2016年9月で退任したので、次の牧師が就任するまでということでした。次年の3月までの半年のつもりでいたのですが、新しい牧師が決まりませんでしたので、一年間延長され、一年半の務めとなりました。この3月に職務が゜終わったのであります。今回は半年ではなく一年半の務めであり、幼稚園全体を示されながら歩みましたので、いろいろと関わることができました。やれやれ、これでまた隠退生活を楽しみつつ過ごせると思ったのですが、この4月からは伊勢原教会に関わる伊勢原幼稚園の園長を務めることになりました。早速、本日の4月1日には伊勢原教会で幼稚園教職員の紹介がありますので、礼拝に出席したのでした。そのため、六浦谷間の集会の礼拝は午後4時からの開会となったのです。
 先ほども示されましたが、2010年4月から横浜本牧教会の代務者、園長の職務が始まったとき、4月1日のイースターからでした。そして今回も新しい職務が始まったとき、やはり4月1日のイースターからであります。イースターから始まる新しい歩みは、やはりご復活のイエス様が共におられるとの信仰が深まるのであります。新しい出会い、新しい出来事に恐れを持つことなく、何事もイエス様のお導きとして歩みでありましょう。

 旧約聖書イザヤ書の示しであります。イザヤが新しい歩みを示しています。それも「神様の勝利」として人々に神様の御心を示しているのであります。この時代は聖書の人々がバビロンの国に捕われている状況であります。少し聖書の歴史を顧みておきましょう。聖書の民族が始まるのはアブラハムという人であります。神様はアブラハムを選び、聖書の民族の祝福の基とされました。その後、イサク、ヤコブと続きますが、ヤコブの子ども達12人がそれぞれの部族の中心になります。つまり12部族が神様を中心とした歩みをすることになります。しかし、周辺の国々はみな王国であります。王様を中心にして存立しているのであります。イスラエルの12部族はそれぞれの部族の長がいても、王国には対抗できません。それで自分達も王国になって、周辺の国々に対抗することを考えるのであります。それで最初に王様になったのはサウル王でした。神様のお選びでもありました。しかしサウル王は、最初は神様のお心によって支配しますが、次第に自らの思いで国を治めるようになるのであります。神様のお心から離れてしまったサウルに対し、神様もサウルを見はなし、ダビデを次なる王様にさせます。ダビデは人間的な面もありますが、全体的には神様のお心をもって国を治めたのであります。そのためダビデは後々まで名君とされ、もう一度ダビデのような王様が現れることを願うようになるのであります。それがメシア思想と言うものであります。メシアとは救い主との意味合いであります。そのダビデの後がソロモン王であります。ソロモンは神様の知恵をいただき、神様の知恵をもって国を治めますが、しかしきわめて人間的に生きた王様でもありました。そのため、ダビデのようには慕われなかったのであります。ソロモンの後にお家騒動が起き、イスラエルの国は北イスラエル、南ユダの国として二つに分かれてしまうのであります。その北イスラエルは紀元前721年にアッシリアという大国に滅ぼされてしまいます。そして南ユダは紀元前587年にバビロンの国に滅ぼされてしまうのであります。北イスラエルにしても南ユダにしても預言者イザヤ、エレミヤ等が神様のお心を示し、人間の力に頼るのではなく、ただ神様のお心に従いなさいと繰り返し示すのであります。結局、大国の狭間にある聖書の人々は、とくに国の指導者達はアッシリアに助けを求め、エジプトに心を寄せたりするのであります。神様から離れてしまっている人々に対する審判がバビロンに滅ぼされるという結果になりました。多くの人々がバビロンに連れて行かれたのであります。いわゆる捕虜でありますが、聖書の世界では捕囚と称しています。異国の空の下で故郷や中心のエルサレムの神殿を思いつつ過ごすのであります。
 そこで今朝の聖書になります。第二イザヤは捕囚の人々に神様のお心に立ち帰るよう示しています。神様こそ真にあなた方を導く方であり、慰めを与え、新しい希望を与えてくだると示しているのであります。「新しい歌を主に向かって歌え。地の果てから主の栄誉を歌え」と人々を励ましています。もはや苦しみの歌ではなく、悲しみの歌ではなく、神様があなた方を今の状況から解放してくださるので、立ち上がりなさい、新しい歌を、喜びの歌を歌いなさいと示しています。「主は勇士のように出で立ち、戦士のように熱情をふるい起し、叫びをあげ、鬨の声をあげ、敵を圧倒される」と言うのであります。あなた方はもはや苦しんでいるのではない、悲しんでいる時ではないと示しています。「わたしは決して声を立てず、黙して、自分を抑えてきた」と示していますが、神様は黙りこくっているのではありません。人々が神様から離れてしまったので、あたかも神様が沈黙を保っているように感じるのであります。神様はいつの時代においても御心を示していました。それは預言者という人々であります。預言者は時の社会に神様のお心を示してきました。しかし、神様に心を向けない人々は神様の御心が聞こえないのであります。バビロンの捕囚で苦しみのうちに生きている人々は、今こそ預言者の言葉を聞くようになりました。捕囚の身であるという絶対性に対して、イザヤは「神様の勝利」宣言を示すのであります。人々が神様に心を向けるとき、神様こそ私達をお救いくださり、新しい歩みを導いてくださることを知るのであります。新しい歩みが始まったのであります。新しい歩みは神様のお心にある歩みなのであります。今の私の絶対性を打破されなければならないのであります。

 私達も新しい歩みが始まりました。主イエス・キリストのご復活が私達を新しい歩みへと導いてくださるのであります。今朝はヨハネによる福音書によりイエス様のご復活が示されています。「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」と報告しています。週の初めの日は日曜日であります。ユダヤ教の社会でありますから土曜日は安息日であります。神様が天地を創造され、七日目に休まれたので、土曜日は安息日とされました。安息日は神様の創造を感謝し、そのご栄光をたたえる日であります。そして翌日の日曜日から普通の生活に戻るのであります。週の初めの日になります。社会では週末と言えば、土曜日、日曜日でありますが、キリスト教では日曜日が週の初めの日であります。それは主イエス・キリストが甦られたので、新しく始まる日とされました。日曜日はご復活のイエス様を喜び、讃美する日であります。
 マリアさんが日曜日の朝早く、まだ暗いうちに、イエス様のお墓に行きました。ところがマリアさんがイエス様のお墓に行きますと、墓の前に置かれていた石が取りのけられているのを知るのであります。この時代の埋葬は横穴に遺体を安置するものであり、入口が空いていれば、動物が入ることが考えられるので、石でふさいでいたようです。しかし、マタイによる福音書の報告によりますと、かねてよりイエス様は十字架にかけられ、墓に納められて三日目に復活することを示していましたので、それを聞いている時の社会の指導者達は、イエス様の弟子達が死体を盗んで、どこかに隠し、イエス様は復活したと言いふらすと思いました。ですからお墓の入り口を大きな石でふさぎ、番兵をつけて死体を盗まれないようにしたと報告しています。しかし埋葬されてから三日目の朝、その大きな石はもろくも動かされたのであります。ヨハネによる福音書はその辺りは詳しく報告していません。お墓参りに行ったマリアさんも、当然のことながら入口は石でふさがれていると思って行ったのであります。ところが石は取りのけられていました。そこですぐにお弟子さん達に知らせに行くのでありました。知らせを聞いたペトロさんと「イエス様が愛しておられたもう一人のお弟子さん」が、墓に走って行きました。彼らもお墓の入り口は石でふさがれていると思っていたのであります。そして、お墓について、確かにイエス様のご遺体がないことを確認したのであります。
 今朝の聖書の示しはそれで終えています。つまり、彼らはイエス様がご復活になられたことには思いが及ばなかったのであります。この時点では、かねてよりイエス様がご復活することを示していたにしても、復活されたということには思いが及ばなかったということであります。しかし、彼らの確固たる思い、イエス様はお墓の中に安置されているという事実が否定されたのであります。イエス様のご復活を確信する第一の段階であります。すなわち、私達は自分が絶対と思っていることが、イエス様のご復活によって打ち破られるということであります。今までこのようであったから、このように展開していくだろうとは私達の思いであります。しかし、私達の思いは打ち破られるのであります。まず、十字架にかけられ、死んで葬られ、三日目にご復活されたということは、本当は信じられないのであります。ところが今は、私達は信じています。主イエス・キリストは十字架におかかりになりました。それは時の社会の指導者達の妬みでありました。しかし、神様は人間がどうしても克服できない姿、内面的な悪の姿、自己満足、他者排除の根本的な姿をイエス様の十字架の死と共に滅ぼされたのであります。私達は十字架を仰ぎ見ることによって、私の内なる悪の姿が滅ぼされたと信じるのであります。救いであります。自分ではどうすることもできない自分自身をイエス様がお救いくださったのであります。イエス様のお弟子さん達はイエス様のご復活を信じる第一関門を通過したことになります。絶対と思っていたことが打破されることです。そして、この後、ご復活のイエス様が現れ、ご復活を示されたのであります。もはや第一関門を破られているお弟子さん達は、そのままご復活のイエス様を信じたのであります。私達も第一関門である絶対性を打破されなければなりません。そして、そこにこそご復活のイエス様が現れ、力を与え、導きを与え、新しい歩みへと導いてくださるのであります。主イエス・キリストのご復活は新しい歩みを導いてくださるということであります。

 横浜本牧教会はこの4月から新しい牧師、園長を迎えました。夫婦で牧師であり、二人の牧師を招聘したのでした。一人は教会の主任担任牧師になりますが、もう一人は、夫人の方ですが幼稚園の園長を担っていただくことにしたのです。お二人とも、今までは幼稚園のある教会で担任教師として務めていましたが、しかし幼稚園にはかかわっていませんでした。幼稚園はお二人とも初めてのことであります。それで、一時は私が一緒に手伝うような方向を検討したりしました。しかし、たとえ初めての取り組みにしても、幼稚園の教職員がしっかりしていますので、共に歩んでいくでありましょう。人間的に思いは、人間的な経験等によって決めてしまうのですが、特に今年はイースターからの歩み出しであり、共におられるイエス様が、二人の牧師の働きを導いてくださると信じています。人間的な不安は必要ありません。主と共にあることこそ祝福の歩みとなるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。主のご復活により、新しい一歩を歩みだすお恵みを感謝いたします。どうか新しい歩みが祝福となりますようお願いいたします。主の名によって。アーメン。