説教「救いの時が到来する」

2018年3月25日、六浦谷間の集会 
「受難節第6主日」 棕櫚の主日

説教・「救いの時が到来する」、鈴木伸治牧師  
聖書・イザヤ書50章4-9節
    フィリピの信徒への手紙2章5-11節
     マルコによる福音書14章32-42節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・142「さかえの主イエスの」
    (説教後)讃美歌54年版・515「十字架の血に」

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 受難節第6週の歩みとなり、本日は「棕櫚の主日」であります。本日より受難週となり、イエス様の最後の一週間になります。私たちのために主イエス・キリストは十字架への道を歩まれるのであります。主の十字架を仰ぎ見つつ歩む一週間であります。
マルコによる福音書は11章1節以下にエルサレムの都に入るイエス様を記しています。前週は主イエス・キリストがご自分の受難について三度目に述べられたことが示されていました。そのご受難を示されたにも関わらず、お弟子さんのヤコブヨハネは、イエス様がご栄光を受けられるときには、自分たちを右、左に座らせてくださいとお願いしております。イエス様のご受難予告を真に受けとめない姿でありました。そのことは都エルサレムに向かう途上でありました。そして、今朝はいよいよエルサレムに入るのであります。それが棕櫚の主日であります。
次第にイエス様の救いの時が迫っているのであります。イエス様が都エルサレムに入られる時、祭りにやってきている多くの人々が、なつめやしの枝を持って迎えに出たと記されています。前の口語約聖書のヨハネによる福音書は「棕櫚の枝」と訳していたので、この日を「棕櫚の主日」と称するようになりました。人々は「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。われらの父ダビデの来たるべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と叫びつつイエス様を出迎えたのでした。「ホサナ」とはヘブル語で「いま救いたまえ」との意味です。メシア的な人に向かって叫ぶのであります。このエルサレムの都を入ってくるローマの総督やユダヤの王様等に対し、都の人々は儀礼的に歓呼して出迎えていました。その時、王様にしてもローマからの総督にしても、軍馬にまたがり、家来を連れてどうどうと入城してきます。今、同じように人々から歓呼して出迎えられているイエス様は、軍馬ではなく、ロバに乗っての入城なのです。ロバは大変おとなしい動物であり、平和の象徴でもありました。ゼカリヤ書9章9節に、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ロバに乗って来る」と預言が記されています。イエス様はこの預言を実現されているのであります。まさにイエス様は人々に平和をもたらすために、ロバに乗って来られたのであります。
 主イエス・キリストはお弟子さん達に平和を与えています。それは14章27節ですが、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と示しました。そして、イエス様が復活されて弟子達に現れたとき、「あなたがたに平和があるように」と言われました。まず、平和を与え、弟子達を励ましたのであります。「平和」「平安」をヘブル語で言えば「シャローム」であり、ギリシャ語で言えば「エイレーネー」であります。平和であるということは、神様との関係が正しく導かれることなのであります。関係とは、人間が神様のお心により生きることであります。私たちはどこかの教会で奉仕する以外は、自宅にて六浦谷間の集会として礼拝をささげています。その六浦谷間の集会、礼拝が終わりますと、「あなたに平安がありますように」と夫婦で相互挨拶をしています。それは前任の大塚平安教会時代からでありまして、礼拝の終わりには、「あなたに平安がありますように」と互いに挨拶をしているのであります。神様との関係が正しく導かれますように、と祈りあっているのであります。
 今や主イエス・キリストは平和を与えるために十字架の道をまっすぐに進まれているのであります。ひたすら神様のお心に従うイエス様でありました。イエス様の忍耐、十字架への道、従順なる歩みこそ、私たちを真に救われることになるのであります。

 旧約聖書イザヤ書50章から示されます。「主の僕の忍耐」との題があります。これはイザヤという預言者への神様の示しであります。イザヤが神様のお言葉を示す時、そのお言葉を聞くのは囚われの人々でした。南ユダの国がバビロンにより滅ぼされ、多くの人々がバビロンに捕われて連れて行かれたのであります。異国の空の下で、人々は都エルサレムを思い、解放の時を待ちつつ過ごしていますが、ともすると希望をなくし、力をなくしてしまうのです。その時、預言者イザヤが神様のお心を力強く示すのであります。
 「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる」とイザヤは自分の使命をはっきりと示しています。しかし、その使命は困難が伴うのです。「わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから、わたしはそれを嘲りとは思わない」と述べるイザヤでありました。自分に襲いかかる存在があったとしても、神様が導きを与えてくださることを信じているのであります。
 預言者イザヤは、苦しみを受けることにより、その苦しみが人々の救いの基となることを示すのであります。イザヤ書53章は「苦難の僕」を示しています。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と」。苦難の僕こそ人間を救われる存在であることを示しているのであります。イザヤはある場合には自分にあてはめ、自分ではない苦難の僕が人々を真に救うことを示しているのであります。メシア、救い主と言えば、ダビデのような強い存在、王国の王様として現れる権力ある者としての待望でありました。しかし、そのような救い主待望に対して、むしろ苦難を受けて人間の真の救いを与える存在、救い主を示しているのが預言者イザヤの示しなのであります。力ではない、権力ではない、病を担い、痛みを負ってくださる存在こそ真の救い主であると示すのであります。そのような存在が人間の中にいるのか。人間として苦難の僕を示していますが、本質的には神様ご自身が苦難の僕として人間を救われるのであります。
 神様だから、人間を救うのに、いかようにもなると思うでしょうか。確かに神様は、いとも簡単に人間を救うでありましょう。しかし、救われる人間は、その救いに対して何とも思わないのです。神様だから当たり前であるとしか思わないのです。与えられる救いが、自分にとってどのような意味があり、この救いによって自分がどのように生きるべきかを示されなければならないのです。旧約聖書の中にロトの家族が審判のソドムの町から救われる物語が創世記19章に記されています。アブラハムと共に故郷を出たロトですが、途中でアブラハムと別れ、低地の豊かな土地ソドムの町に住むようになるのです。しかし、ソドムの町は悪徳栄え、神様はこの町を滅ぼされるのであります。神様の使いの導きにより、ロトと妻、そして二人の娘がソドムを後にして審判から逃れるとき、ロトの妻は後ろを振り返るのです。神様の使いは、「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる」と警告を与えていました。今、この救いの時に、それこそ「命がけで」救いに身をゆだねなければならないのです。神様だから、いとも簡単に救ってくださる、というような思いではいけないのです。ロトの妻は、救いの時に、命がけで救いに委ねることをしなかったのです。

 苦難の僕は人間の中にはいません。しかし、御子として現れた主イエス・キリストこそ苦難の僕であります。そのことを真実に示しているのが「ゲッセマネの祈り」であります。
 今日は棕櫚の主日であり、日曜日であります。イエス様が都エルサレムにはいられました。翌日、月曜日にイエス様は神殿に行きました。神殿の境内地では両替人や鳩を売る人々の掛け声が飛び交っていました。イエス様は境内地で商売をしている人々追い出しました。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」とイザヤ書56章7節の言葉を引用しつつ、宮清めを行ったのでありました。火曜日になると、イエス様はいろいろなお話をして人々を導きました。水曜日になるとベタニア村でナルドの香油を注がれました。一人の女性がイエス様の頭にナルドの高価な香油を注いだのであります。弟子たちは、こんなことをしてもったいないと言いました。その時、イエス様は言われました。「するままにさせておきなさい。この人はできる限りのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と言われたのであります。すべては十字架への道でありました。そして、木曜日になります。この木曜日に過ぎ越しの食事をするのであります。過ぎ越しの祭りは救いの出来事を確認することでありました。エジプトの奴隷から脱出する時、神様の審判がエジプトに下ります。神様の審判が下っている時、聖書の人々は急いで食事をし、そしてエジプトを脱出していくのでした。後々に至るまで救いの出来事を確認するために、過ぎ越しの祭りを行っているのであります。イエス様もお弟子さん達と過ぎ越しの祭りの食事をしました。この食事が最後の晩餐となりました。この食事の時、イエス様はパンを裂いてお弟子さん達に与えました。そして、今後イエス様の記念、イエス様のお心としてパンを食べなさいと示されたのであります。そして、ぶどう酒を与え、これは契約の杯であるとして与えたのであります。その最後の晩餐で与えられたパンとぶどう酒が今でも聖餐式となって、私達も与っているのであります。
 食事を終えた後、ヨハネによる福音書はイエス様がお弟子さん達の足を洗ったことが記されています。イエス様は盥をもってきて、腰に手ぬぐいをまき、お弟子さん達の足元にうずくまり、一人ひとりの足を洗ったのであります。先生であるイエス様から足を洗ってもらうこと、恐れ多いことでした。洗わないでください、というお弟子さんに、洗わなければわたしと何の関係もなくなると言われるのです。それでは手も頭も洗ってくださいというお弟子さん達でありました。人の足を洗う場合、相手の足を自分目の高さにまで持ち上げたら、相手はひっくりかえってしまいます。相手の足もとに疼くまなければ洗うことはできません。イエス様は足を洗う行為を通して、人に仕える姿勢を示しているのであります。「あなた方も足を洗う人になりなさい」と教えられたのでありました。
 最後の晩餐、お弟子さん達の足洗い、そしてこの木曜日はゲッセマネの祈りがあります。食事の後、イエス様はお弟子さんのペトロ、ヤコブヨハネを連れてゲッセマネの園に行かれました。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われ、少し離れたところで神様にお祈りをささげました。「アッバ、父よ、あなたは何でもお出来になります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られました。「この杯」と言われていますが、杯とは十字架におかかりになることであります。この後、イエス様は時の指導者たちに捕えられ、裁判を受け、十字架の刑へと至ります。指導者たちは主イエス・キリストの存在は、どうしても自分達には不都合でありました。人々を教えるのは自分たちである。しかし、民衆はみなイエスなる者へと傾いていると思っていました。妬みが高まってきます。そして、ついに殺す計画へと進んでいくのであります。
棕櫚の主日は十字架に向かうイエス様を示される時であります。私のためにイエス様が十字架への道を歩まれるのであります。

 主イエス・キリストが命を捨てて、私たち人間をお救いくださったのです。それに対して私たちは、救いとはそういうものなのだと思っているのでしょうか。パリのルーブル美術館を見学したとき、イエス・キリスト磔刑、十字架の絵が次々に展示されています。これでもか、これでもかと十字架の絵を見なければならないのです。鑑賞者は2000年前にこういうことがあったのだ、としか思わないのであれば、救いは与えられないのです。十字架に対して「命がけで」向かわなければならないのであります。イエス様がお話されたたとえ話の中に、「天の国のたとえ」があります。マタイによる福音書13章44節以下です。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」とお話しされました。面白いお話です。畑に宝が隠されているということ。これは昔ですから、大事なものは地面を掘って隠しておく、しまっておくのです。ところが隠した人が死んでしまった場合、隠した宝物は誰も知らないのです。ところが、その土地を借りた人が土地を耕しましたら宝物が出てきたのです。この人に土地を貸した人は宝物については分からないのです。だから、借りた人はこの土地を自分のものにするために、持ち物すべてを売り払い、この土地を買ったということです。イエス様はこのお話をする場合、「天の国は次のようにたとえられる」としてお話されているのです。「天の国」を手に入れるお話です。別の言葉で言えば、「救い」を手にするお話なのです。宝物を見つけた人は、畑の中に宝物があることを知りました。すなわち、「救い」があることを知ったのです。その救いを手にするために、「命がけ」で「救い」を手にすることにしたのです。「持ち物をすっかり売り払い」、何もかも「救い」を目指して「命がけ」で行動したのです。単に傍観者であっては「救い」は手に入らないのです。「命がけ」で主イエス・キリストの十字架をあおぎ見なければならないのであります。
<祈祷>
聖なる神様。十字架の救いを与えてくださり感謝いたします。十字架を原点として新しい一歩を歩みださせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。