説教「十字架が導く人生」

2018年3月18日、六浦谷間の集会 
「受難節第5主日

説教・「十字架が導く人生」、鈴木伸治牧師  
聖書・哀歌3章18-33節、ローマの信徒への手紙5章1-11節
マルコによる福音書10章32-45節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・143「十字架をあおぎて」
(説教後)讃美歌54年版・257「十字架の上に」

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 受難節第5主日を迎えました。主のご受難と共に、十字架の救いを仰ぎ見つつ歩んでおります。次週はいよいよ受難週になります。教会の暦では受難とか受難週とか、何か暗いことを述べているようです。世の中は、今は終わりの時期で、締めくくりをして新しい状況へと送り出すときなのです。早苗幼稚園も前週15日には卒園式が行われました。45名の子供たちを送り出したのであります。第三学期になって、園長として卒園する子供たちとお弁当を食べました。毎回4名の子供たちが園長室にやってきて、一緒にお弁当を食べました。いろいろなお話をしながらお弁当を食べますが、小学校への思いは、やはり大きな期待を持っているようです。いろいろと胸を膨らませて小学校へと進むのでしょう。3月は入学の発表の時でもあります。知り合いの子供が、どこの大学、どこの高校に合格したと知らせてくれます。3月は希望の月でもあるのです。
3月は年度の終わりであり、教会にしても幼稚園にしても今までの締めくくりでもあります。締めくくりをして、4月からの新しい歩みを予定しているのです。毎日、散歩していますが、関東学院の前を通ることが多いのです。そこでいつも目にすることは、校門の入り口に置かれている石に刻まれている言葉です。「人になれ。奉仕せよ」との言葉が刻まれています。関東学院という学校の方針なのでしょう。一人の人間になるということは、人と共に生きるということです。人の世界の中に生きるものとして、人に仕えて生きることが祝福の人生なのです。やはり、キリスト教主義の学校ですから、聖書から示される学校の方針であると示されるのです。キリスト教は主イエス・キリストのご受難、十字架によって人間の正しい歩みが導かれることを信じています。人間は自分の奥深くに自己満足があり、他者排除の姿勢を持っているのです。その様な人間を神様は、最初は十戒をもって導きました。それが旧約聖書の示すところです。しかし、十戒では人間は救われなかったのです。そこで神様はイエス・キリストをこの世に生まれせしめ、まず十戒を中心とした神様の御心をイエス様によって示されたのです。しかし、人々は分かりませんでした。自分の中にある重大な姿、自己満足・他者排除です。聖書はそれを罪であると指摘しているのです。人間は誰もが自己満足・他者排除を持っています。だから人間はみんな罪人と言わなければならないのです。しかし、人間は自分が罪人であるとは思わないのです。その自己満足が大きくなって、人を排除し、差別していることがわからないのです。分らない人間に対して、神様はイエス様の十字架によりお救いになられたのでした。イエス様の十字架の死と共に、私の中にある自己満足・他者排除も滅ぼしてくださったのです。そのイエス様のご受難を見つめることが受難週の導きなのです。年度の最後の日曜日が受難週であり、4月の最初の日曜日が復活祭、イースターであることは、今年はまことにお恵みの教会の暦になっています。今のこの時、イエス様の十字架の救いを土台として新しい歩みをしたいのであります。

 旧約聖書は哀歌の示しを与えられています。哀歌の意味は悲しみの歌という意味であります。元の題は「エーカー」として示されていました。エーカーは嘆きの声です。「何故なのですか。どうしてですか」と神様に問いかけているのです。聖書の人々がバビロンに捕われており、さらに都のエルサレムが破壊されてそのままになっている悲しみを歌っているのであります。自らの状況、都の荒廃を嘆きつつ、神様どうしてなのですか、どうして私たちは捕囚の民として生きているのですか、神様の都でもあるエルサレムが荒廃のままでよいのでしようかと嘆きの歌を歌っているのです。しかし、そのように嘆きつつも、神様の救いを信じているのです。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない」と歌っています。
 信じて待つこと、主に信頼すること、聖書の導きであります。出エジプト記モーセに導かれてエジプトを脱出した人々の信仰を記しています。この場合、人々は不平と不満ばかりを述べる人々でした。困難があればすぐにモーセに詰め寄る人々の不信仰がありました。しかし、出エジプト記は不信仰な人々を導く神様の証でもあるのです。聖書は不信仰な人々への預言者たちの働きを示すものですが、それと共に信じて待つこと、主に信頼する人々を証するものです。ダニエル書はそうした主を信頼する人々を励ましています。ダニエルはバビロンの王様に仕える状況でした。そうした中でも神様には日夜お祈りしていました。そのダニエルが王様に用いられるので、家来たちが妬みを起こし、王様以外の存在を拝むことを禁止するおふれを出させるのです。ダニエルがいつものように神様にお祈りしていることが王様に知らされます。おふれを破るものはライオンの穴に投げ込まれるのです。王様はダニエルを愛していました。しかし、自分が出したおふれであるので、やむなくダニエルをライオンの穴に投げ込むことを許すのです。翌日、王様は悲しみつつライオンの穴を見に行きます。するとダニエルは元気な声で王様に応えるのでした。主に信頼すること、そこに救いがあることを示しているのです。このダニエル書は神様を信じる人々を迫害する状況に生きる人々を励ますことが目的でありました。ダニエルのような状況になったとしても、神様に信頼し、信じて歩む者には、神様の導きがあり、救いがあることを示しているのであります。
 「主に望みをおき尋ね求める魂に、主は幸いをお与えになる。主の救いを黙して待てば、幸いを得る」と哀歌は示しています。「主は、決して、あなたをいつまでも捨て置かれはしない」と励ますのであります。「人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心ではない」とも示しているのであります。今の苦しみは神様が与えておられるのか、との思いがあります。しかし、今の苦しみは「神様の御心」ではないのであります。人生の途上、どうしても歩まなければならない境遇があります。神様の与えた試練でもありますが、それが神様の御心ではないと哀歌は示しているのであります。神様はあなたを導き、あなたに幸いを与えているので、「どうしてなのですか」と神様に問いつつも、そこに神様の深い導きがあることを知りなさいと哀歌は示しています。

 どうしてですか、と問うのは主イエス・キリストのお弟子さんたちでした。マルコによる福音書10章32節以下が今朝の聖書です。イエス様はすでにご自分の十字架への道をお弟子さん達に示しました。「祭司長や律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」ということをお弟子さん達に示しました。その時、お弟子さんのペトロが「そんなことがあってはなりません」と言ってイエス様をたしなめるのでありました。どうしてですかとの問いをイエス様にしているのであります。お弟子さん達にとって、主イエス・キリストに従うということ、それはどのような形であるかは分かりませんが、しかし祝福へと導かれると思っていたのであります。だから、今朝の聖書でも、イエス様が再び十字架への道を示したのでありますが、「そんなことがあってはならない」ので、ゼベダイの子どもであるヤコブヨハネがイエス様にお願いするのです。マタイによる福音書ではヤコブヨハネの母親がイエス様にお願いしていますが、マルコによる福音書ではヤコブヨハネが直接イエス様にお願いしているのです。イエス様の十字架への道と弟子たちのイエス様への思いが意味深く示されています。ヤコブヨハネは「先生、栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人をあなたの左に座らせてください」とお願いしたのであります。いわゆる右大臣、左大臣にしてくださいとの願いです。イエス様が栄光を受けたらと言っていますが、その栄光は人間的に考えている栄光であります。イエス様が救い主として現れたことは信じている弟子たちであります。その救い主イエス様が、いわば王様のような存在になること、その時には右大臣、左大臣にしてくださいとの願いでありました。それに対して、それを聞いた他の弟子たちはヤコブヨハネに対して腹を立てるのであります。ということは他の弟子たちも同じような気持ちを持っていたのであります。
 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と言われた主イエス・キリストの示しと、弟子たちのイエス様への思いは大きく異なるのであります。イエス様が十字架への道を歩むこと、お弟子さん達にとってエーカーであります。「なぜですか。なぜお苦しみを受けられるのですか」との嘆きの声を発しなければなりません。しかし、お弟子さんたちは自分でエーカーを打ち消し、希望のイエス様にしているのであります。「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない」と哀歌で示されました。イエス様は十字架の道を進んで行かれます。それは時の指導者のイエス様に対する妬みでありますが、神様はこの十字架を通して人間をお救いになられたのであります。人間はどうしても自己満足を克服できません。他者排除をなくすことができません。神様はイエス様の十字架の死と共に人間の奥深くにある悪なる姿を滅ぼされたのであります。私たちは十字架を仰ぎ見ます。そこには私の古い姿、自分を中心にする生き方が滅ぼされているのであります。
 先ほどもお話ししましたが、関東学院の校門に書かれている言葉、「人になれ。奉仕せよ」という言葉は、別の意味で受け止める人がいるかもしれません。「人になれ」と言っているのですから、勉強して、成功して、お金もちになることであると思うわけです。それこそ「人になれ」ということだと思うのです。「人になる」ということは、人と共に生きるということです。「人になれ」と言い、その後に「奉仕せよ」と奨励しているのです。人を見つめ、人と共に生きることが祝福の人生であると示しているのです。やはり、聖書の示しが土台となっていることが示されるのです。

 毎日、散歩していることを最初にも述べ、関東学院の前を通ることが多く、そのため校門の場に書かれている「人になれ。奉仕せよ」との言葉を紹介しました。そこまでお話ししましたので、私と関東学院との関わりをお話ししておきたいと思います。今までも、いろいろな形で証させていただいております。私は小学校3年生の途中から、関東学院の中にある教会の日曜学校に通っていたのです。その頃は1948年、昭和23年ですから、昭和20年に戦争が終わりましたので、敗戦後の苦しい生活をしていたのです。その頃、母が病気で病院に入院していました。ある日、その母をお見舞いしてくれた子供たちがありました。突然、病室に入ってきて、花を差し出しながら、「早く良くなってください」と言われたのでしょう。それは6月の第二日曜日であり、教会では「こどもの日・花の日」でありました。母にとって、見ず知らずの子供にお見舞いされ、お花を贈られて、本当に感銘深く受け止めたのでした。見舞ってくれた子供たちは、亡くした子供くらいの年齢であったと思います。それは私の兄ですが、兄は学童疎開させられ、戦争が敗戦となり、帰ってきたときには栄養失調になっており、肺炎を起こし、小学校4年生で亡くなったのでした。その後、母は退院しますが、間もなく私を連れてその日曜学校に行きました。花の日の礼を述べ、今後息子が日曜学校に出席しますから、よろしくお願いいたします、と挨拶するのでした。私にとっては日曜学校なんて初めてのことです。いわば母が勝手に出席を決めたということです。それからは、日曜日になると日曜学校に通わされました。小学校3年生の秋ころではないでしょうか。その後、4年生、5年生、6年生とほとんど休むことなく日曜学校に出席していました。毎年、精勤賞をもらっていました。
 関東学院教会の日曜学校に出席する子供たちは、ほとんどが関東学院小学部の生徒でした。だからそのまま中学部へと進んでいくのです。そういう子供たちと交わっているうちに、私自身も関東学院の中学部に行きたくなったのです。両親も私の願いを受け止めてくれて、中学部への受験をいたしました。しかし、受験は失敗に終わり、入ることができなかったのです。人世の挫折ということでは、私はその時に経験したことになります。小学校の先生は、私が関東学院という私立中学に進むことをみんなに公言していましたので、受験に失敗して、みんなと一緒に公立の中学校に進むのは嫌であろうからと、他の私立中学を紹介してくれました。横浜高校の付属でもある横浜中学でした。そして、もう関東学院の日曜学校にいけないので、二人の姉たちが出席していた横浜の清水ヶ丘教会に出席するようになったのです。
 私の人生の挫折こそ、今の私へと導かれる始まりであったと、今では深く受け止めています。もし関東学院中学に合格していたら、それなりに成長したと思います。「人になれ。奉仕せよ」の生き方へと導かれたことでしょう。そして教会もバプテスト派の教会の信者となっていたと思います。それはそれで祝福の人生へと導かれたと思いますが、あの人生の挫折があって、日本基督教団の教会に導かれ、牧師への道が導かれたのです。イエス・キリストの十字架のお導きが「幸いを得る人生」へと導かれたと信じているのです。私自身の挫折、苦しみは十字架のイエス様が引き受けてくださっていると信じるようになるのです。今日までの人生は、イエス様の十字架のお導きであると示されています。十字架は私たちのあらゆる歩みをも受け持ってくださるということです。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架による救いを示され、感謝いたします。すべての始まりは十字架であることを証させてください。主イエス・キリストのみ名によりお祈りします。アーメン。