説教「十字架を仰ぎ見つつの人生」

2023年4月2日、六浦谷間の集会

「受難節第6主日」棕櫚の主日

                      

説教・「十字架を仰ぎ見つつの人生」鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書56章1-8節

   ヘブライ人への手紙10章1-10節

   ルカによる福音書23章32-49節

賛美・(説教前)讃美歌21・298「ああ主は誰がため」

   (説教後)讃美歌21・311「血しおしたたる」

本日は「棕櫚の主日」であります。イースターの一週間前の日曜日でありますが、この日に主イエス・キリストが都のエルサレムに入ったとき、人々は、イエス様の奇跡の業、神様の嬉しい御心を示されていますので、この偉大な人が都に来られたということで棕櫚の枝をもって大歓迎したのであります。棕櫚の主日と称しているのは、ヨハネによる福音書が昔の口語訳聖書で「しゅろの枝」と記しているので、今でも「棕櫚の主日」と称しているのです。この棕櫚の主日から始まる受難週は、イエス様のご受難の歩みを示されつつ歩んでいました。しかし、この年になって、受難節は喜びつつ歩むべきだと示されるようになっていますが、一つのきっかけはスペインにおける棕櫚の主日を経験してからです。スペイン・バルセロナには娘の羊子が滞在していますので、丁度、受難週、イースターの頃滞在しています。娘の羊子はカトリック教会のミサに出席し、奏楽奉仕をしています。バルセロナ滞在中に、私達もこのカトリック教会に出席しました。そして棕櫚の主日の経験をさせていただきました。その棕櫚の主日前の週に、サグラダ・ファミリア教会の前の通りに露天商が多く出て、受難週の棕櫚の枝を売っているのです。受難週に関するものばかりではなく、いろいろな楽しいお菓子や玩具も売っているのです。そのような露天商が沢山並んでいるのでお祭り騒ぎの様でした。そして棕櫚の主日の日、教会に行きますと、子供たちが棕櫚の枝をもって教会に集まってきているのです。子供たちは神父さんと一緒に聖壇に上がります。ミサが進むうちにも、子供たちは棕櫚の枝を床に打ち付けて、賑やかにイエス様をお迎えするのでした。このような棕櫚の主日を経験して、お祭り騒ぎのような棕櫚の主日のミサでしたが、これからイエス様がご受難の道を歩むのですが、それは私達を救うためであり、まさに喜びであるのです。その意味でも棕櫚の主日は喜びつつミサをささげているのです。日本では受難節、受難週は質素な、克己の生活をするという昔ながらの信仰が根底にありますが、もっと喜びつつ迎えなければならないのです。今朝示されますように、十字架はイエス様のご受難ですが、そのご受難が私たちの救いであり、楽園への導きであり、喜びつつイエス様の十字架のお導きをいただくのであります。

 本日の旧約聖書イザヤ書56章です。聖書の人々は当時の強国バビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンに連れて行かれたのです。しかし、そのバビロンが衰退し、ようやく解放されたのでした。約50年間の捕われから解放された人々への励ましと導きの言葉が記されているのです。捕われから解放されたものの、人々の苦しい状況は続いています。困難に生きる人々へ、神様の御心を示しているのが本日のイザヤ書であります。

「主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し、わたしの恵みの業が現れるのは間近い」と示しています。旧約聖書の根底にあるのは、神様が人々に与えた十戒でした。第1戒から第4戒までは神様を信じることであり、第5戒から第10戒までは人間関係の戒めです。イエス様はこの十戒を、「あなたがたは神様を愛し、隣人を愛しなさい」とまとめています。まさに十戒は神様を愛し、人間を愛して生きることが、人々の生きる道なのです。だからこの56章2節には、「いかに幸いなことか、このように行う人、それを固く守る人の子は。安息日を守り、それを汚すことのない人。悪事に手をつけないように自戒する人は」と示しています。「このように行う人」とは「神様を愛し、人々を愛して生きる」人なのです。そして「安息日を守る」ことが重要なことなのです。安息日を守る戒めは第4戒であります。「安息日を守ってこれを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と戒められているのです。これは旧約聖書に記される天地創造が基となります。神様は日曜日から創造の業を始め、金曜日に終わるのです。そして、土曜日を安息日としているのです。神様が休んだから、人間も休むというのではなく、この安息日に神様の創造の業を深く受け止めることなのです。それは神様の創造により、今、恵みによって生かされていることを感謝するということなのです。一つ一つ神様の恵みと祝福が満ちていることを示されるならば、十戒を正しく生きるということになるのであります。

 イザヤはこのように神様の恵みを示されていることを示し、人々が神様の「祈りの家」に集められることを示しているのです。6節に、「主のもとに集まってきた異邦人が、主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す」と示しています。つまり、十戒を基本として生きる者は、どのような人々も神様の「祈りの家」に導かれると示しているのです。「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」とも示しています。「祈る」ということは神様の御心を示されることであり、祈りが導かれているならば、そこは「祈りの家」であるのです。

私達にとって祈りが導かれるのは、イエス様の十字架です。イエス様が十字架にお架りになり、私たちの根源的な罪をお救いくださったのです。十字架を仰ぎ見ることが私達を祝福の人生へと導かれることなのです。イエス様は日々、十字架のお導きを与えてくださっているのです。旧約聖書は神様にお祈りするならば、人間の基本的生き方、十戒を基にした人生が導かれることを示しているのです。イエス様は繰り返し「神様を愛し、人々を愛しなさい」と教えておられるのです。

 今朝の新約聖書ルカによる福音書は、主イエス・キリストが捕えられ、十字架への道を歩み始めることが記されています。そのイエス様が十字架への道を歩み始めるにあたり、「祈りの家」に導かれているのです。イエス様はエルサレムの東側にあるオリーブ山にはいつも行かれており、そこでお祈りをささげ、寝泊まりしていたことも示されます。十字架を前にしたときにも、この「祈りの家」に導かれたのです。お弟子さんたちも一緒であったと言われます。いつもの場所に来ると、イエス様はお弟子さんたちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と諭し、イエス様はそこから少し離れたところでお祈りしたのでした。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」とお祈りしたのでした。「杯」としていますが、受けなければならない十字架のことです。イエス様はクリスマスにお生まれになりました。神の子としてお生まれになったと示されますが、人間としてお生まれになっているのです。ですから、人間として洗礼を受け、人間として人々の苦しみを受け止めていたのです。人間であれば、苦しいことは避けて通りたいのです。その気持ちを率直に申しています。「この杯をわたしから取りのけください」と祈りましたが、すぐその後で、「しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください」とお祈りしています。ご自分の気持ちを述べながらも、全て神様に委ねておられるのです。聖書は補足的に「汗が血の滴るように地面に落ちた」と記していますが、全身でお祈りしていたことを示されるのであります。

 このようにお祈りして、イエス様がお弟子さんたちのところに戻ると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいたのです。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と先ほども述べた言葉でお弟子さんたちを励ましています。他の福音書では、眠っているお弟子さんたちをイエス様がたしなめているようにも読めますが、ルカによる福音書は人間的弱さを憐れまれ、励ましているのです。「祈りなさい」とイエス様は導いておられるのです。お弟子さんたちもイエス様の十字架への道を示されています。悲しいことですが、この状況に与えられているのはお祈りであるということです。苦しいとき、悲しいとき、辛いとき、人間は自ずとお祈りが導かれますが、イエス様もこの状況だからこそお祈りをしなさいと導いておられるのです。この後、弟子の中でもユダが時の社会の指導者たちの差し向けた者たちを連れてくるのです。そしてイエス様は十字架への道を歩み始められたのでした。全て神様に委ねておられるのです。もはやこの時点でイエス様の神様による救いが完成されたのです。 

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 今朝は棕櫚の主日として、イエス様が十字架への道を進まれることを示され、さらに十字架の救いの完成を示されています。私達はいつも教会に導かれては十字架を示されています。十字架を示されながら、イエス様が私達を贖ってくださったことを示されるのです。しかし、それは信仰によるものです。一般の人は十字架を見ても何も示されません。当然のことです。その点、カトリック教会は十字架だけではなく、十字架に架けられているイエス様を示されています。フランスのルーブル美術館に展示されているイエス様の十字架の絵は、もちろん十字架ばかりではなく、その十字架に架けられているイエス様が描かれています。イエス様が苦しみながらも祈りつつ十字架におられる実際的な救いを示されるのです。カトリック教会はそのような十字架におられるイエス様を示され、十字架のイエス様のお導きをいただいているのです。私たちもイエス様の十字架を仰ぎ見つつ、イエス様のお導きをいただきつつ歩みましょう。

<祈祷>

聖なる神様。イエス様の十字架の救いを感謝いたします。十字架を仰ぎ見つつ、歩ませてください。キリストのみ名によって。アーメン。

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