説教「救いの源」

2023年3月26日、三崎教会

「受難節第5主日

                      

説教・「救いの源」鈴木伸治牧師

聖書・哀歌1章1-6節

   ルカによる福音書20章9-19節

賛美・(説教前)讃美歌21・302「暗いゲッセマネ

   (説教後)讃美歌21・481「救い主イエスの」

 今朝は3月の最終日曜日であり、2022年度の終わりの礼拝です。2022年度も礼拝に向かう歩みが導かれてまいりましたことを感謝したいと思います。教会によってはこの3月をもって牧師が退任されるので、最後の礼拝と言うことで、それぞれの思いを持ちながら礼拝をささげておられることでしょう。そのような状況を示されながら、もはや13年も経てしまいましたが、私自身の退任のことを示されていました。2010年3月に30年間務めた教会を退任することになり、3月末の礼拝は送別説教であり、礼拝後は送別会でした。送別の日であり、皆さんといろいろとお話をしている中でも、30年間の牧師の歩みで、いろいろと評価が言われるようになるのです。いろいろな取り組みを振り返ってくださり、その労をねぎらってくださったり、思い出話に花を咲かせるのでした。お葬式を何回したとか、結婚式が何回したとか、改めて今までの歩みを振り返るのです。しかし、そういう中で、洗礼者が何人であったということは、なんか、牧師の働きを報告されているみたいで、気が重くもなりました。牧師の評価は何人の人を救いへと導いたか、と思われてもいるのです。一つの例話になりますが、一人の老牧師が教会を退任することになり、その時、教会のある人が、牧師に「長いこと、教会の牧師を勤めましたが、洗礼者は一人でした」と言ったということです。その牧師も長い牧師の勤めでしたが、洗礼者は一人であることには、こころを痛めつつ教会を去って行ったのでした。しかし、たった一人の洗礼者でしたが、その洗礼者が牧師となり、多くの人々を洗礼に導き、大伝道者と言われるようになっていたのでした。

 救いの源は主イエス・キリストなのです。本人の働きによって、洗礼者が多いとか少ないという評価は、きわめて人間的な考えなのであり、イエス様の十字架の福音を人々にお伝えする、それが牧師の勤めであり、信者の皆さんのお証しなのです。救いの原点はイエス様であるのです。

 本日の旧約聖書は哀歌であります。聖書の人々がバビロンの国に滅ぼされ、多くの人々がバビロンの国の空の下で、苦しみつつ生きるようになった時代です。故郷の都エルサレムはバビロンによって破壊され、荒廃したままであります。そのような状況を悲しみつつ歌っているのが哀歌であります。哀歌と言われるように悲しみの歌であります。本来、聖書の原題は「エーカー」というものです。エーカーは「どうしてなのか」、「なぜなのか」ということです。嘆きの言葉がエーカーであるのです。嘆きの言葉が聖書の題になっているということです。

 「なにゆえ、独りで座っているのか。人に溢れていたこの都が」と嘆いています。都エルサレムは荒廃したままになっています。そもそも聖書の国、ユダがバビロンに滅ぼされた原因は何であったか、ということです。聖書の人々は神様に選ばれた民として、神様の御心によって生きることでありました。それが周辺の国々、大国の狭間にあって、指導者達は人間の力に頼ろうとしたのであります。アッシリア、エジプト、バビロンの力関係を計りにかけながら生き延びる道を求めていました。そういう中で預言者達、中でもエレミヤは真の神様の御心に立ち帰るよう教えました。人間の力ではなく、神様の御心に立ち帰るよう求めたのであります。今はバビロンの国が脅威であり、他の国に助けを求めて交戦するのではなく、バビロンに降伏しなさいと示しました。指導者達はエジプトの力を求めていたのであります。エレミヤの説得は無視され、結局ユダの国はバビロンに滅ぼされることになったのであります。そのことを示しているのが1章5節であります。「シオンの背きは甚だしかった。主は懲らしめようと、敵がはびこることを許し、苦しめる者らを頭とされた。彼女の子らはとりことなり、苦しめる者らの前を、引かれて行った」と事実を示しているのです。

 あなたは神様の御心で満たされているか。心を清くして、神様の御心に土台を据えているか、聖書が繰り返し求めていることなのです。自分の中から悪霊を追い出しても、土台を据えないので、すぐに悪霊が帰ってきますよ、と聖書は示しているのです。マタイによる福音書は、もっとわかりやすく示しています。「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである」と示しています。そして、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」(マタイによる福音書7章24-27節)と示しています。土台の上に立つことを示しているのです。

 神様の御心から離れてしまう人間の生き方は、自己中心であり、他者排除であります。人間は本来神様の御心をいただいて生きるとき、平和な人間の社会に導かれるのであります。そのことは創世記2章で記される人間創造で示されています。神様は天地を造られた時、最後に人間を創造されました。神様は土で人の形を造りました。しかし、まだ人間ではありません。神様は土で造った人の形の鼻に命の息を吹き入れたのであります。すると人間は生きた者となったと示しているのであります。これは、もちろん神話的な書き方ですが、深い真理を示しているのであります。つまり、人間は神様の息をいただいて生きるということであります。「息」という言葉は「ルアッハ」であります。ルアッハには、「生きる、霊、風」とも訳される言葉であります。

 新約聖書におきまして、主イエス・キリストもルアッハを放棄している人々を示しているのであります。ルカによる福音書20章9節以下でイエス様はたとえをもって現実をお示しになっておられます。「ぶどう園と農夫」のたとえであります。このたとえを示される時、旧約聖書イザヤ書5章を合わせて示されるのです。イザヤ書は「ぶどう畑の歌」としています。神様がぶどう畑に良いぶどうを植えました。よく耕し、石を取り除き、良いぶどうができるようにしたのです。ところが収穫は「すっぱいぶどう」でした。これはなぜかと問うているのです。せっかく手をかけ、面倒を見たのに、結果がこのようになるとは、神様の導きを拒否したからなのです。そのイザヤ書の示しと同じように、ルカによる福音書も、神様の導きを拒否する人々を示しているのであります。「ある人がぶどう園作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た」という設定であります。ぶどう園の主人は収穫の時期になったので、収穫の利益を得るために僕を送ります。しかし、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで返したのであります。主人は、さらに他の僕を送りますが、同様に袋だたきにして何も持たせないで追い返したというのであります。三人目の僕も送りますが、傷を負わされて放り出されたということです。主人は、今度は自分の息子を送ります。愛する息子なので、敬ってくれるだろうと思ったのです。しかし、農夫たちはその息子を殺してしまったというのです。

 このたとえ話は、先に送られた僕たちは旧約聖書に登場する預言者を示しているのです。神様は預言者を通して、神様の御心に生きるよう示しますが、人々は聞き入れませんでした。むしろ迫害された預言者たちでした。今、神様はイエス様を世に遣わし、神様の御心を示されたのであります。ところが、指導者達の妬みが高まって、ついに十字架によって殺されてしまうのです。これは後に起こるべきことを示しているのであります。人々はイエス様のお話を興味深く聞いていましたが、このお話は明らかに指導者達のことを言っていると悟るのでした。その時、イエス様は「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」と言われました。家を造るときは石で土台を固めますが、もう土台の石は必要ないということで、他の石は捨てます。しかし、家を建てるとき、守り本尊のように石を中心にするのです。捨てた石からそれを拾うということです。まさにイエス様が人々から捨てられますが、人々の中心になっていくことを示しています。

 こうして、ついに人々は神様の御心を拒否し、主イエス・キリストを十字架に付けて殺してしまうのであります。十字架は主イエス・キリストが、人間がどうすることもできない自己満足、他者排除を滅ぼすことでありました。神様の命の息を与えられて生きるのが本来の人間なのです。しかし、神様の息ではなく人間の息を持って生きようとするのが人間の姿でありました。預言者を送り、神様の命の息を示すのでありますが、受け止めませんでした。そして、ついに神様の御子イエス様をも無視し、殺してしまうのであります。十字架は時の指導者達による妬みの結果であります。しかし、神様は、この十字架を救いの原点となさいました。十字架によりイエス様の血が流され、死ぬのは私の罪、自己満足と他者排除を滅ぼされたと信じることなのです。

 今朝は「救いの源」を示されました。救いと言うことでは、この世の中にいろいろなことを示されます。一般に「救い」と言うのは、今の苦しい状況から解放されることであります。物価高から解放、マスクからの解放、

苦しい人間関係からの解放等、いろいろな救いがありますが、この私自身のために生きる力を与えてくださったのは主イエス・キリストなのです。イエス様は私たちの「救いの源」であることを今朝は示されました。

 <祈祷>

聖なる神様。イエス様のお導きを感謝致します。救いの源に導かれながら歩ませてください。キリストの御名によりお祈りします。アーメン。

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