説教「導く存在に委ねつつ」

2022年5月1日、六浦谷間の集会 

「復活節第3主日

                      

説教・「導く存在に委ねつつ」、鈴木伸治牧師

聖書・エゼキエル書34章11-16節

   ペトロの手紙<一>5章1-11節

   ヨハネによる福音書10章7-18節

賛美・(説教前)讃美歌21・327「すべての民よ、よろこべ」

   (説教後)讃美歌21・459「飼い主わが主よ」

 

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 私たちは、主イエス・キリストのご復活をいただき、主のお導きをそれぞれの生活の中で与えられながら歩んでおります。今年は4月17日が主イエス・キリストのご復活日でありました。イエス様はそれから40日間、ご復活のお姿をお弟子さん達や人々に現されているのであります。ですから、私達はご復活のイエス様をしっかりと示される時なのであります。ご復活のイエス様は私達の生活、職場、社会の中に生きる中で現わされているのであります。従って、私達は今いる状況の中でご復活の主が共におられて導いて下さっていることを信じつつ歩みたいのであります。

 今朝の旧約聖書新約聖書も羊飼いと羊の関係が示されています。羊飼いが羊を養うこと、それは教会の牧師と教会員の関係にたとえられるのです。すなわち羊飼いである牧師は羊である教会員を養うのであります。「牧師」という呼称も「牧する人」という意味で、羊を牧すること、教会に集まる人を牧するのです。その関係の職務を「牧会」と称しています。「牧会」と言われても、一般社会の人たちはその意味が分かりません。キリスト教の独特な言葉であります。牧師は人間でありますが、神様の選びをいただき羊飼いとなります。しかし、人間の羊飼いに対して、その羊飼いを養う存在、主イエス・キリストを大羊飼いと称します。大牧者と称しているのです。人間の羊飼いはイエス様の真の羊飼いから職務を委ねられて、イエス様の十字架の救いへと人々を導くのです。今朝は何よりも私達を導いて下さる存在に委ねて歩むことを示されるのであります。

 旧約聖書は神様が良い羊飼いとして人々を導いているのであります。今朝はエゼキエル書34章により示されています。エゼキエルという預言者は囚われの状況の中で神様の御心を示した人であります。聖書の国ユダは紀元前587年にバビロンによって滅ぼされてしまいます。時の指導者たちは神様の御心に従わず、大きな国々の狭間にあって、こちらの国の力、あちらの国の力に頼ろうとします。滅びに至るのは、神様の御心に従わない審判でもありました。バビロンに滅ぼされ、多くの人々がバビロンに囚われの民として連れて行かれるのであります。その中にエゼキエルがいました。囚われの民を捕囚の民といっていますが、エゼキエルは捕囚としてバビロンで過ごすうちに神様の召しをいただくのであります。そして捕囚となっている人々、希望をなくし、力をなくし、苦しみつつ生きる人々に神様の御心を示すのであります。

 「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す」と示します。神様は羊飼いであると示し、ばらばらになっている羊を一つの群れに導くと言われているのであります。聖書の人々は歴史を通して外国から攻められ、そのたびに人々は外国に逃れ、散り散りになっています。その人々を離散の民と称しています。ディアスポラと称していますが、今や神様がディアスポラを集め、一つの群れに導くと言われるのであります。「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」と示すのであります。

 聖書の人々は神様に選ばれた民です。それは最初の人であるアブラハム、次にイサク、ヤコブと続きますが、神様が選びの民として導いていますが、この関係を通して聖書の人々でない人々にも神様の導きを与えているのであります。選びの民との関係は人々への示しであります。従って、選びの民への示しは、広く世界の人々への示しであり、導きであるのであります。私達は聖書の示しを私自身への神様の示しとしていただかなければならないのであります。今、エゼキエルが捕囚の人々に神様の導きを与えたとき、この導きは私の導きとして示されなければなりません。「わたしは良い牧草地で彼らを養う。彼らは山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。わたしがわたしの群れを養い、憩わせる」と示しております。羊が良い牧場で養われること、まさに希望であります。神様が生活の糧を与え、生活の場を与えてくださるのです。神様に心を向けるとき、神様は必ず良い羊飼いとなって、私という羊を養ってくださるのです。そうであれば、今生きている場が神様の牧場であるのです。この牧場で生きることであります。この牧場は御言葉という牧草をいただく場、教会であり、教会という牧場で神様が私達を養ってくださるのであります。

 「わたしは良い羊飼いである」と主イエス・キリストは宣言されています。イエス様は旧約聖書で示されている神様と人々との関係を、そのままご自分にあてはめているのであります。イエス様が世の人々の前に現れた時、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。時が満ちるとは、主イエス・キリストによる救いが実現する時なのであります。今まで聖書の人々は救い主を待望しつつ生きてまいりました。ダビデ王の時代は、まさに平和な時代でした。そういう時代が再び来るために、そのために救い主が現れることを待望していたのであります。しかし、人々の待望は力の強い王様的な存在として、権力を持って平和を与えてくれると信じていたのであります。イエス様が現れた時もそのように思っていました。イエス様は人々に神様のお心を示し、神様の業を現しました。人々は心の潤いを与えられ、体を損ねている人々を喜びへと導かれたのです。しかし、人々はイエス様を救い主として信じるまでには至りませんでした。人々がイエス様を真の救い主として信じるのは十字架によるのです。その救いの時はまだ来ていなかったのであります。

 「わたしは良い羊飼いである」と宣言されています。「わたしが来たのは、羊が命を受けるためである」と示されています。羊が命を受けるために、イエス様がご自分の命を捨てられたのであります。イエス様が十字架によりご自分の命を捨てられたのは、私達がイエス様の命をいただき、永遠の命へと導かれるためであります。イエス様はヨハネによる福音書11章25節で、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と示されました。「死んでも生きる」、「信じる者は死ぬことはない」と示されていますが、私達の信仰の人生を示しているのであります。イエス様の教えは神様の国に生きることであります。この現実はいかなるものでありましょうとも、苦しい状況かもしれませんし、悲しい現実なのかもしれません。しかし、イエス様を信じるとき、すでに神の国に生かされているのであります。神様の国は死んで行くところではありません。今の現実の生活において、ここが神の国であることを信じて生きることなのであります。

 クリスマスを迎えるアドベントの時、幼稚園の子ども達に羊飼いのお話をしていました。救い主がお生まれになったことを天使のお知らせで知り、いち早く馬小屋に駆けつけたのは羊飼い達でありました。なぜ羊飼いが救い主がお生まれになったことを知ることができたのか。羊飼いは羊を養う者として、いつも耳を傾けています。今ないている羊はどの羊なのか分かります。羊のメイタロウというわけです。あのなき方はお腹がすいているということ、あるいは具合が悪いということ、羊のなき声で知るのです。だから羊飼いさんはいつも聞こう、聞こうとしています。その姿勢が神様のお告げを聞くことができました。だから私達もいつもお友達の声に耳を傾けましょう。神様のお告げも聞こえてきます、とお話しています。人間の羊飼いがそのような姿勢であるなら、イエス様の羊飼いは私達のどんな声でも聞きとってくださるのであります。

 知り合いの牧師のお話でありますが、長年お勤めになった教会を退任することになりました。教会は感謝の記念品を贈ることになり、その牧師に希望を聞きました。するとその牧師はテレビや映画で人気の「寅さん」のビデオを所望されたのでした。今までのビデオですが、かなりありました。この牧師は、以前より寅さんの物語に共鳴されており、何かと物語を引用されていました。寅さんの原点は「とらや」というお団子屋さんですが、そこにいるおじさん、おばさん、そして寅さんの妹のさくら、そのさくらの連れ合い等が、寅さんと共に人々を受け入れて、喜びつつ歩んでいる姿、その「とらや」を中心とすること、それは教会の原点であると述べています。どんな人も排除しない、どんな人も受け止めて共に歩もうとする、まさにイエス・キリストの姿なのです。

 私達は自分という存在が祝福の人生を歩むために、自分を超えた存在に委ねて歩むことが大切なのです。イエス様が私を導く存在であります。

<祈祷>

聖なる御神様。良い羊飼いのイエス様に導かれ感謝致します。御心に従う羊とさせてください。イエス様の御名によりおささげ致します。アーメン。

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