説教「まことの牧者」

2020年9月20日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第17主日

 

説教、「まことの牧者」 鈴木伸治牧師

聖書、エレミヤ書50章4-7節

   ペトロの手紙<一>2章11-25節

   ヨハネによる福音書10章1-6節

賛美、(説教前)讃美歌54年版・166「イエス君は」

   (説教後)讃美歌54年版・211「ひつじかいの」

 

 9月も半ばを過ぎましたが、例年ですと、秋の歩みを示されつつみ言葉を示されるのであります。教会の歩みは、教会の牧師、そして信徒が信頼しつつ歩んでいます。教会は牧師を中心にして歩んでいます。牧師は教会員の皆さんを心に示されながら、神様の御心を示し、信仰を養い、共に祈りつつ歩んでいるのです。教会員の皆さんも牧師により御心を示され、信仰を励まされているのです。従って、教会におきましては牧師と信徒は特別な関係で歩みが導かれているのです。しかし、牧師も一人の人間であり、信徒の皆さんはその生き方に戸惑いを覚えることもあります。それが牧師不信になってしまうこともあるのです。牧師も信徒の皆さんに対して希望が持てなくなり、退任することもあるのです。

 いろいろな教会事情があります。牧師と信徒、互いに信頼しつつ歩むことです。時々紹介していますが、宮城県の教会で牧師をしていた時です。陸前古川教会で牧師をしている時でした。同じ地区に登米教会がありました。そこの教会の牧師が退任し、代務者を立てて歩んでいたのです。ある時、陸前古川教会の牧師館に登米教会の役員、年配の婦人の方がお訪ね下さいました。言われたことは、登米教会の牧師になっていただきたいということでした。その場合、陸前古川教会の牧師をしていますので、登米教会に対して兼任牧師ということになります。二つの教会の牧師になることでした。その要望を受け止めたのです。登米教会は10名くらいの教会員であり、礼拝もそれくらいの出席でした。陸前古川教会の礼拝を午前中に行い、午後3時から登米教会の礼拝となりました。古川から登米まで車で1時間でありました。日曜日になると私達夫婦、そして3人の子ども達と共に伺っていたのです。その登米教会の皆さんは牧師に絶対的信頼を寄せてくださったのです。教会は町と共に学校法人幼稚園の設立準備委員会を開いていました。しかし、少しも前進しない計画に対して、設立準備委員会の解散を教会役員会に提案しました。町に住む教会の皆さんです。今まで一緒に準備委員会を担ってきたのに、見捨てるようなことはできないと思われます。しかし、教会役員会は牧師の提案を受け止め、今後は自分達で進めようということになったのです。役員の皆さんは高齢のご婦人ばかりです。全面的に牧師を信頼してくださったのです。その信頼が祝福され、学校法人幼稚園の設立となったのでした。

 牧師と信徒、祈りを共にする関係は祝福の歩みへと導かれるのです。そこに教会の基本があると示されています。それは何よりも神様の御心をいただく歩みなのです。

旧約聖書は、前週に続いて預言者エレミヤの示しです。エレミヤは大国バビロンに対して降伏するように説得していることが特色です。前週も降伏を説得していました。それに対して、そのバビロンは間もなく滅びると言う安易な希望を持たせたのが偽預言者でありました。しかし、そのエレミヤもこの50章では、偽預言者と同じように、バビロンがやがては滅びることを示しているのです。その時には、聖書の人々は「泣きながら来て、彼らの神、主を尋ね求める」と示しているのです。路頭に迷っていた人々です。自分達を苦しめる存在が滅びれば、神様の救いが与えられると信じるのです。「彼らはシオンへの道を尋ね、顔をそちらに向けて言う。『さあ、行こう』と。彼らは主に結びつき、永遠の契約を忘れられることはない」と示しています。「シオンへの道」とは神様の御心が示されるところなのです。シオンは都エルサレムであり、神殿が置かれている場であります。その神殿により、神様の御心が示されるのです。今のイスラエル国家ができる前、世界にいるユダヤ人は「シオンに帰ろう」との合言葉で、シオンに帰ることを目指したのです。それをシオニズム運動と称しています。そしてイスラエル国家が成立したのです。シオンは神様の御心を示されるところなのです。神様の御心によって生きる希望であるのです。

エレミヤは人々を迷える羊と称しています。迷える羊となって各地に散らされている人々です。迷える羊になったのは、羊飼いのためですが、当時の指導者たちです。指導者たちは神様の御心を求めることなく、人間的な思いで諸国の力により頼んだのでした。しかし、諸国は自らの利益でしか動きません。人々は苦しい状況で各地に散らされて行ったのです。その迷える羊を救うのは神様であり、今やまことの羊飼いが現れて、人々を平和へと導くとエレミヤは示しているのです。迷える羊となった聖書の人々ですが、それは悪しき羊飼いの故であります。しかしまた、必ずしも羊飼いばかりではなく、羊そのものが神様の御心から離れて行ったことも示されています。イザヤ書53章は「苦難の僕」について記されています。6節に、「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方向に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」と示しています。人間一人一人の歩みは、いつも自分勝手なのです。自分の利益のために、思いのままに生きているのです。その様な羊である私たちの至らぬ姿、罪を神様は「苦難の僕」に負わせられたと示しているのです。「苦難の僕」は主イエス・キリストを示していると言われています。まさにイエス様は私たちの自己満足に生きる姿を十字架によって滅ぼされたのです。迷える羊は、悪しき羊飼いばかりではなく、羊そのものの生き様があるのです。

「シオンへの道」を歩みなさいとエレミヤは示しているのです。シオンに顔を向けて、「さあ、行こう」と言いなさいと示しています。シオンに顔をむけることで、神様は「永遠の契約を忘れない」とも示しています。神様は人間が祝福の内に歩むことを導いているのです。そういう約束、契約を結んでくださっているのです。まず十戒を与え、人間の基本的な生き方を示しました。そして、預言者を立てて、神様の御心を示され、人間の祝福への道を導かれておられるのです。「私を養う存在」が導いてくださっているのです。偽預言者たちが、バビロンは滅びると人々に述べ、安易な希望を抱かせたのに対して、エレミヤは「シオンへの道」を示したのでした。御心が示されるシオンに心を寄せ、御心に希望を持つことが祝福の歩みであると示しているのです。単に自分達を支配しているバビロンが滅びると言っているのではなく、私達が羊であり、その羊が真実まことの羊飼いに向かうことを導いているのです。

 「わたしは良い羊飼いである」とイエス様は示されました。もっとも、そのように言われているのは今朝の聖書の後の部分です。今朝の聖書はまことの羊飼いと偽りの羊飼いについて示しています。羊は野原にいて、のんびりと自由にすごしているように見えます。それぞれ野原で過ごしている羊を、羊飼いは危険がないように見張っているのです。イエス様によるたとえ話の中に、迷子の羊についてのお話しがあります。そこでは100匹の羊がいて、一匹が迷子になったので、99匹を残しておいて、迷子の一匹の羊を探し当てた羊飼いのお話しでありました。このように羊を飼う場合、50匹、100匹の羊を飼うようでした。以前、イスラエルの聖地旅行をしました。バスに乗って移動するうちにも、野原と言うか、荒れ野と言うか、その様な場所を通って行きます。羊があちらこちらに見られます。しかし、それはまばらで、100匹もいるなんて思われませんでした。おそらく広い範囲で放し飼いをしているのでしょう。イエス様がお生まれになったとき、野にいた羊飼いが、夜、天使の歌声を聞き、救い主の御生まれになったことを示されたのでした。その時、羊飼いは夜も羊の番をしていたのですから、家に帰らず、野原で過ごしていたことになります。100匹の羊のお話しは、羊飼いが家に帰る時に羊の数を確認したのでしょう。いろいろな羊の状況を示されていますが、今朝の聖書の羊たちは「囲い」の中にいる羊です。飼い主の家の側なのでしょう。囲いの中にいる羊を羊飼いが連れ出し、野に山に連れて行くのでしょう。羊たちは羊飼いに従い、おとなしく従って行きます。「羊は羊飼いの声を知っており、羊飼いも自分の羊の名を呼んで連れ出す」と記されています。羊と羊飼いの信頼関係が出来ているのです。だから羊飼いではない強盗が羊を連れ出そうとしても、羊たちは強盗の声に聞き従わないと言われています。むしろ逃げ去ってしまうのです。イエス様が、このたとえをお話しているのは、当時の指導者であるファリサイ派の人々に対してであったと言われます。ところが、自分達のために言われていることが分らなかったというのです。相変わらず指導者達、ファリサイ派の人たちは、自分達こそ人々を導く存在であると思っているのです。

 「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである」(ヨハネ福音書10章10節以下)とイエス様はご自身について示されています。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とも示されています。私と言う存在のために、命を捨ててお守りくださる存在がおられるということです。イエス・キリストは十字架にお架りになり、私達の奥深くにある自己満足を滅ぼしてくださいました。私達は十字架を仰ぎ見ることにより、イエス様により救われていることを示されるのでした。「私を養う存在」がイエス様なのです。ご自分の命を捨てて、「私を養う存在」になられたのです。私は羊であり、イエス様は私を養う羊飼いである、その信仰を深めて歩みたいのです。

 その信仰に生きる私達ですが、現実は教会に導かれ、牧師の示す御言葉で力を与えられ、日々の歩みを導かれているのです。しかし、先ほども示されましたが、牧師も一人の人間であり、羊である私達も思い思いに生きる者です。必ずしも羊と羊飼いの祝福された関係が築かれない場合もあります。私は神奈川教区におきまして、教区副議長を2年、教区議長を4年間務めました。神奈川教区はその頃も約105の教会・伝道所がありました。それらの教会・伝道所が牧師の交替があり、その就任式の司式は議長または副議長の務めでありました。6年間に随分と多くの教会・伝道所の就任式をしました。中には同じ教会で2回も就任式をしています。迎えた牧師ですが、数年で退任してしまうのです。その教会の就任式に赴くと、役員の方が笑いながら、「また、お願いします」と言われたものです。どこの教会も就任式では就任する牧師と教会員の誓約があります。やはりその誓約を大切にしながら歩むことが必要であるのです。

 就任式の誓約は次の通りである。まず牧師に対して。「(前略)あなたはこの教会に招聘されたことを神のみ旨であると信じ、主の栄光のためにその身をこの職にささげる覚悟がありますか。あなたは、主の賜う恵みによって,み言葉の奉仕者としてふさわしい言行をなし、この教会の牧師の務めを忠実に果たすことを約束しますか。(後略)」と問います。教会員に対して。「(前略)あなたがたはこころから感謝して、この教師を受け入れる覚悟がありますか。元来、牧師の任務は教え、勧め、導き、また戒めることであります。それゆえに、あなたがたは牧師の説く真理に、謙遜と善意とをもって聞き従うことを約束しますか。牧師は重大な責任を身に負って群れを守る者であります。それゆえに、使徒たちが命じたように、牧師に対して従順であることを約束しますか。あなたがたは教会の中で紛争を起こしたり、党派を結んだり、分離をはかったりするようなことはなく、どんなことでも愛と和らぎとをもって行い、ことごとく相慰め、励まし、支えて、牧師にその職を全うさせることを約束しますか。(後略)」と問うのです。

 この様な誓約を交わし、教会の歩みが始まるのです。しかし、やはり人間の世界であり、誓約を交わしても信頼関係が崩れることがあります。何よりも羊である私達は、まことの羊飼い、主イエス・キリストに養われていることを信仰の基本として歩まなければならないのであります。

<祈祷>

聖なる神様。私たちの大牧者、イエス様のお導きを感謝します。私を養う存在であるイエス様に委ねて歩ませてください。イエス様のみ名によっておささげします。アーメン。

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