説教「神様の御心をいただきながら」

2017年12月10日、横浜本牧教会
「降誕前第3主日」 降誕節アドベント

説教・「神様の御心をいただきながら」、鈴木伸治牧師
聖書・エレミヤ書36章1-8節
    マルコによる福音書7章1-13節
賛美・(説教前) 讃美歌21・229「いま来たりませ」
    (説教後)511「光と闇とが」


 降臨節第二週となり、二本のローソクにより明るくなりました。クリスマスが近づき、一段と明るくなったことを示しているのであります。三本のローソクが点灯し、そして四本のローソクが点灯しますとクリスマスを迎えることになります。四週間前から主イエス・キリストのクリスマスを待望する、心の備えが導かれているのであります。
 早苗幼稚園もクリスマスにはページェントを演じて、イエス様のご降誕をお祝いします。そのため今は練習をしているところでありますが、子供たちはそれぞれの役になりきって、一生懸命に演じています。ページェントはイエス様のご降誕の物語であり、馬小屋の中で生まれたイエス様は飼い葉桶に寝かされており、そこに天使のお告げを受けた羊飼いさん達がお祝いにやってきます。星の導きを受けて博士さんたちがやって来て宝物をささげます。天使さん達も飼い葉桶を囲んで礼拝するのです。このクリスマス物語はマタイによる福音書ルカによる福音書に記されている物語を合成したものです。私たちは素朴にその物語を受け止め、イエス様のご降誕をお祝いしているのです。
 このことは聖書を読む人々の解釈が表現されることになるのです。西洋の歴史においてキリスト教が大きな役割を果たしていますが、なかでも芸術に関しては今でも鮮明に残されています。2011年でありますが、バルセロナに滞在したとき、娘がパリの三大美術館、ルーブルオランジュリー、オルセー美術館の見学に連れて行ってくれましたが、聖書物語を題材とした絵画の多さに驚くばかりです。ルーブル美術館ではキリストの十字架の絵画が数多く展示されており、キリスト教の信仰を持たない人々にとっては気持ち悪い印象があるのではないかと思います。パリの美術館ばかりではなく、各国の美術館、また教会にはたくさんの聖書に関する絵画、彫刻が展示されているのです。これらは作者の思い、聖書を受け止めた姿勢において描かれており、また制作されています。作品を鑑賞することにより、作者の聖書の受け止め方を示されるのです。
 私は数年前、横浜市立大学のエクステンション講座を受講しました。そのときのテーマは「イタリア・ルネサンス美術の3大巨匠」(天才芸術家の名作探求)で、レオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロラファエロの芸術を学ぶものです。最初に開かれた講座は、「イタリア・フレスコ画の歴史」について学びました。昔からの画家たちが精力的に残した名画を鑑賞する時、その絵のすばらしさだけを見て、その制作過程については思いも及びませんでした。その講座でテンペラ画、フレスコ画、油絵画等を知ることになりました。フレスコ画は、まず壁に漆喰を塗り、その漆喰がまだ「フレスコ(新鮮)」である状態で、つまり生乾きの間に水または石灰水で溶いた顔料で描きます。やり直しが効かないため、高度な計画と技術力を必要とします。失敗した場合は漆喰をかき落とし、やり直すほかはないということです。このフレスコ画が始まるのは1250年頃で、ミケランジェロが1508年から1512年までの4年間でヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の天井画を描くのはこのフレスコ画であります。フレスコ画は漆喰が乾かない状態で顔料を施すので、漆喰が乾いたとき岩盤になります。従って、その絵は空気に触れても衰えることがなく、何百年も原型のままなのです。ところがフレスコが現れる前の時代はテンペラ画でありました。テンペラ画は卵と顔料を融合させて仕上げるもので、年月の経過と共に衰えることになります。レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」はテンペラであり、だんだんと劣化している現状であるということです。レオナルド・ダ・ヴィンチは熟考する人で、作品に向かっては何回もやり直しをするのです。そのためフレスコ画が流行るようになっても、やり直しができないフレスコ画では描かなかったと言われる。その点、ダ・ヴィンチに師事していたミケランジェロフレスコ画により師を抜くことになるのです。レオナルド・ダ・ヴィンチは絵を描いては、また思い直して修正し、更に描き直して作品を仕上げたということです。それに対してフレスコ画はやり直しができないので、直観的に絵にして行くわけです。レオナルド・ダ・ヴィンチは、例えば「最後の晩餐」の絵を描く時にも、その場面、聖書の場面を繰り返し思い返し、手を加えて行ったと示されます。それに対してミケランジェロは聖書の場面を直感的に受け止めて描いていたと示されるのです。聖書の言葉を何回も反芻しながら受け止めて行く姿、直観的に示される姿、いろいろな姿勢がありますが、聖書の言葉をどのように受け止めているのか、そのことを示されているのです。「神様の御心をいただきながら」歩む私達として、今の状況の中でどのように御心が示されているのか、改めて示されたいのです。

 神様のお心をおろそかにすること、旧約聖書エレミヤ書が示しています。36章1節以下であります。神様はエレミヤに御心を示します。「巻物を取り、わたしがヨシアの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す」と言われたのであります。神様がエレミヤに「語ってきた言葉」はここには具体的に記されていませんが、エレミヤ書のいたるところで神様がエレミヤに示した言葉であります。それは神様の御心に帰ることであります。御心に立ち帰り、御心により生きるならば救いの道が開かれるのであります。神様の御心とは、既に示されている十戒を中心として、他の何者にもこころを向けることなく、ただ神様に心を向け、他者の存在を大切にして生きることであります。既に示されている神様の御言葉なのであります。しかし、人々は神様から離れ、自分の思いのままに生きようとしています。それは滅びの道なのであり、神様の御心に立ち帰ることをエレミヤは示しているのです。「帰る」とは聖書の言葉で「シューブ」でありますが、エレミヤ書の主題はまさに「シューブ」でありました。神様の御心に立ち帰りなさいと示しているのです。
 エレミヤは神様の「シューブ」を示します。それをバルクという人がエレミヤの語る言葉をすべて巻物に記したのであります。エレミヤは時の指導者たちによって神殿に入ることは禁じられていました。それはエレミヤがはっきりと神様の御心を示すので、指導者たちはエレミヤの言葉を聞こうとしないし、人々にも聞かせてはならないとしているのであります。それでエレミヤは自分が神殿には行かれないので、弟子のバルクに巻物に記した言葉を神殿で読ませるのであります。バルクはエレミヤの指示通り、神殿に行き、大勢の人の前で巻物を読んだのであります。それを聞いた良心的指導者たちは、この事が王様の耳に入るとエレミヤの命が危ないと判断し、エレミヤとバルクに隠れるように促すのであります。エレミヤの巻物については指導者たちも知ることになり、実際に巻物が取り寄せられ、それが王様のもとへと渡ります。王様は巻物を読ませます。王様は巻物を聞きながら、読み終えた部分を暖炉の火で燃やしていくのであります。ついに巻物を全部読み終えたとき、手元には巻物が残らず、すべて暖炉で燃やされてしまったのです。神様のお心をおろそかにし、顧みようともしない王様の姿勢でした。王様の部下達も巻物の内容を聞いても、悔い改めるどころか、いきりたってエレミヤを捕らえようとします。しかし、エレミヤもバルクも良心的な指導者たちの勧めによって隠れていますので捕らえることができなかったのであります。普遍的な神様のお心は時代を経ても変ることはありません。

旧約聖書の人々は神様の御言葉を拒否しましたが、新約聖書の人々は都合よく御言葉を変えて生きていました。自分達の都合の良いように神様のお心を変えてしまっていました。そのことを示すのがマルコによる福音書7章1節以下です。イエス様のもとへ当時の指導者といわれるファリサイ派の人々、律法学者が来ました。イエス様のお弟子さん達が手を洗わないで食事をしているのを見て批判するのです。手を洗うということ、これは汚れたものを洗い清めるという意味です。今日のようにばい菌を洗い、インフルエンザ予防ということではなく、汚れから身を守るということなのです。旧約聖書レビ記11章には「清いものと汚れたものに関する規定」が記されています。その中に、「死骸に触れる者はすべて夕方まで汚れる。また、死骸を持ち運ぶ者もすべて夕方まで汚れる」と記されています。つまり死骸に触れた人が、柱や構築物に触れたとき、その触れた部分を誰かが触れたとき、その人は間接的に汚れたものに触れたことになり、汚れを持つことになるのです。従って、食事の前には手をよく洗い、汚れを洗い流すのです。これは宗教的な教えでありました。
それに対してイエス様は14節以下で、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである」と示しています。これらのことは宗教的な言い伝えでした。イエス様は言い伝えを厳格に守ろうとしている人々に対し、むしろ神様の御心、御言葉を都合よく変えてしまっていることに対して反省を求めているのです。神様が人間に与えた十戒の中に、「あなたの父と母を敬いなさい」との戒めは第五戒として与えられています。神様からいただいた御言葉を守ることの教えでありました。しかし、「あなたにさし上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に何もしないで済むのだ、と言っているのです。これは言い伝えで、神様の御言葉を都合よく変えているのです。都合の良いように神様の御言葉を変えてしまうこと、イエス様の怒りがここに示されているのです。
これはルカによる福音書に記されているファリサイ派の人の祈りに示されています。このファリサイ派の人は神殿でこのように祈りました。「神様、わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、またこの徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一をささげています」と祈ったのであります。イエス様はこの祈りは祝福されないと言われています。確かに神様の御言葉をそのまま守って生きています。しかし、神様の御言葉を守って生きるということは、示されている神様の御言葉を表面的ではなく、そこに示されている神様の真の御心に生きるということなのです。示されている神様の御言葉は、私たちが真に生きるということであります。主イエス・キリストの十字架の救いを、私の救いと告白し、自分を愛するように隣人を愛して生きる、という神様の御言葉に生きるということであります。示されている神様の御言葉は「十字架の言葉」なのであります。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(コリントの信徒への手紙<一>1章18節)と御言葉が示されています。

 クリスマスを迎えていますが、クリスマスは十字架への始まりであり、救いの始まりであることを示されなければならないのです。世の中は、もはやクリスマスにもなっています。町を歩けばきらびやかな電飾で、流れるクリスマスソング、気持ちはまさにクリスマスです。クリスマスは十字架への始まりであることを知っていただきたいのです。
 先ほども触れましたが、早苗幼稚園はいよいよ今週13日にクリスマス礼拝をささげ、ページェントを演じてイエス様のお生まれになったことをお祝いします。それぞれの役割を演じる子供たちは、一生懸命に役になりきっています。マリアさん、ヨセフさん、そして博士さんや羊飼いさんの役を演じるのですが、その役が今後の歩みの励みになっていただきたいと思います。昔、宮城県の教会で牧会しているころですが、ある年の幼稚園のクリスマス、演じられたページェントが忘れられません。マリアさんとヨセフさんが、宿屋さんの入口に立っては、「泊めてください」とお願いします。すると、「宿屋さんは、うちの宿はいっぱいなので、向こうの宿屋さんに行ってください」と断ります。この辺りは聖歌隊の歌によって演技が進められるのですが、その年のマリアさんは宿屋さんの主人の前で、土下座してお願いするのです。これにはびっくりしました。練習では、土下座することなく、ヨセフさんと共に立ってお願いしていました。クリスマスの当日になって、いきなり土下座することになるのです。おそらく家の人、きっとお母さんが、そのようにお願いしなさいと教えたと思われます。東北のしきたりなのかもしれませんが、お願いするときには、身を低くすることなのでしょうか。後で先生たちと話し合ったのですが、先生たちが教えなかったことですが、それはそれで意味があると示されたのでした。このマリアさんが、その後、身を低くして成長したのでしょうか。いろいろと考えさせられたのであります。クリスマスには博士さんが登場しますが、東の国の占星術の学者さん達です。この人たちは星占いの人たちで、いつも星を見続けていました。どんなに小さい星でも、光の弱い星でも見ることでした。その「見る」という姿勢が、救い主が生まれたという導きの星を見ることができたのです。だから博士さんのようにお友達を、どんなお友達も見ましょうと子どもたちにはお話しています。さらに羊飼いさんたちは多くの羊を飼っており、いつも羊の声を聞いています。それぞれの羊の鳴き方を知っています。だから、小さい声の鳴き声でも聞こうとしていたのです。その「聞く」ということが、イエス様がお生まれになったという天使の歌声を聞くことができたのです。だから私たちも羊飼いさんのようになりましょうとお話しています。
 クリスマスを迎えます。私たちもマリアさんのようにお告げを信じ、羊飼いさんや博士さんのようになることが、「神様の御心をいただきながら」歩む人生となるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。支えの御言葉を感謝致します。いろいろな状況に生きています。御言葉に導かれつつ歩ませてください。主イエス様の御名によりおささげ致します。アーメン。