説教「救い主が来られるので」

2017年12月3日、六浦谷間の集会
「降誕前第4主日」 降誕節アドベント

説教・「救い主が来られるので」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書51章4-11節
    テサロニケの信徒への手紙<一>5章1-11節
マルコによる福音書13章24-37節
賛美・(説教前) 讃美歌54年版・94「久しく待ちにし」
(説教後)523「身に負いえぬ」


 早いもので本日は12月3日、年末という思いが深まってまいります。この12月は「師走」とも称しています。「師走」とは、年末になって仏教のお坊さんが走り回ることから言われるようになったということです。仏教ではお盆やお正月に先祖の霊が帰ってくると言われています。従って、その前にお坊さんが御経をあげておくということなのです。それは年末になりましても、お坊さんがあちらこちらのに家を回るということでもあります。学校の先生が走り回るという意味もあるそうです。年末にあたり、先生が家庭訪問をして、生徒の成績や成長ぶりを家庭に報告して回ることから来ているというのです。そのように示されると、キリスト教の牧師も「師走」なのかもしれません。12月になるとクリスマスの月ですから、その準備に追われます。また、年末にあたり教会員を訪問することも多いのです。クリスマスの準備はもちろん教会の皆さんと共に準備をするのですが、やはり牧師はいろいろなことを示されながら準備に当たるのです。クリスマス案内を作ったり、案内を配布したり、飾り付けをしたり、聖夜礼拝の準備をしたりして毎日忙しく過ごすのです。12月の最終日曜日は歳晩礼拝と言い、この年の最後の礼拝であり、そのときには一年の歩みをプリントして配布するのです。キリスト教は年度の歩みですので、一年間の歩みは4月から3月までですが、12月はこの世のカレンダーで終わりですから、この年の歩みをまとめておきたいのです。これは社会的にも、今年の十大ニュースとして、政治にしてもスポーツにしても、出来事を振り返りますので、教会も準ずるようになっています。
 このような意味合いのある「師走」を迎えていますが、今年は12月3日から待降節アドベントに入りました。クリスマスを待望する日が始まったということです。前週の11月26日は教会の暦では「終末主日」と申しまして、世の終わりを示されたのであります。キリスト教の暦の終わりであります。従って、本日はキリスト教の暦では始まりの日となるのであります。その意味では新年ということになります。新しい思いを持って主イエス・キリストの出現を待望するのです。
 西暦は主イエス・キリストが生まれた時をもって始まっています。イエス様が生まれる前、紀元前になりますがユダヤ教におきましても内紛が続いていました。そのため、その頃、世界を制覇するほどのローマに調定を依頼したのです。その時、ローマは政教分離を指導したのでした。ユダヤ教は信仰と政治が一体となっていたからです。それに対して政教一体はもとからのユダヤ教であり、反対するする人があり、ローマに抵抗したのです。結局、ローマには抵抗できず、ローマの属州になったのであります。この属州が始まってから間もなく、救い主イエス・キリストが出現するのです。時代的にはローマに支配されている暗い社会です。人々は苦しい状況の中で救い主の出現を待望していたのです。そのような暗い社会に光のイエス様が現れましたので、待降節になるとローソクの明かりを増やしながら、次第に明るくなってゆくイエス様の出現であるクリスマスを待望するようになったのです。出現した救い主イエス様と共に歩むことが私達の人生であります。

 旧約聖書イザヤ書51章であります。このイザヤ書が書かれた時代は紀元前8世紀ですから、イエス様が出現する800年前の頃でした。その時代も暗い社会でありました。バビロンの国に捕われの身になっている状況であります。旧約聖書出エジプト記がありますが、神様の偉大な力によって奴隷として生きていた聖書の人々がエジプトから脱出した記録であります。奴隷の苦しみを神様が受け止め、モーセを通して救い出したのでした。脱出した人々は、まず十戒を与えられます。神様の戒めを守りつつ生きることが祝福となることを示され、神様の示すカナンの土地へと導かれて行ったのであります。そのカナンに定着するようになり、はじめは民族の共同体でしたが、諸国と対抗するためには王国とならなければなりませんでした。そして、ダビデ王の時代になります。そして、その後ソロモンが後継者になりますが、ソロモンの後は国が二つに分裂します。南ユダと北イスラエルとなります。その頃になると大国が現れるようになり、北イスラエルは紀元前721年にアッシリアに滅ぼされ、南ユダは紀元前587年にバビロンの国に滅ぼされたのであります。今朝の聖書は南ユダの人々がバビロンに捕われの身になり、バビロンで希望もなく生きている状況であります。希望と力をなくしている人々に神様の御心を示し、希望と喜びを与えているのが今朝のイザヤのメッセージであります。
 今朝の聖書、イザヤ書51章3節、「主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とする。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」と示しています。シオンは故郷の都エルサレムであります。バビロンの侵攻で都は破壊されています。廃墟と化しています。しかし、神様はその廃墟をエデンの園とすると示しているのです。エデンの園は創世記の最初に記される楽園であります。アダムとエバが自由にのびのびと過ごしたところであります。神様は荒れ地をすべて平和な園とすると示しているのです。そのエデンの園のようになった都にあなたがたは帰るのですよと励ましているのであります。「わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を傾けよ。教えはわたしのもとから出る」と示しています。もう一度、神様の教え、戒めをいただき、真に従うことを諭しています。
エデンの園に帰るには、今の歩みが神様により、祝福の歩みとならなければならないのであります。そのままの姿で、ただエデンへの希望を持つのではなく、何よりも今の自分が神様のお心にあって正されなければならないのであります。エデンの園に導かれると言った時、今の姿で導かれることはないということです。一般的にも天国、極楽は善人であり、良い人生を生きた人が迎えられると思われているのではないでしょうか。仏教の葬儀はお経をあげ、極楽の世界に送り出すという、生きている者の努力が必要です。マレーシアに滞在した時、大きな共同墓地を見学しました。そこにはイスラム教以外の、キリスト教、仏教、ヒンズー教等の墓地があります。丁度、埋葬式が行われていました。仏教であったと思います。その時、紙の束を空に向かって投げるのです。そして紙束はバラバラになって舞い降りてくるのですが、それは模造のお金であるということでした。死んだ人にお金を持たせてあの世に送るということなのです。「地獄の沙汰も金しだい」と言う言葉がありますが、死んでもお金を持っていれば、良い思いをすると考えられているのでしょう。それに対してキリスト教の葬儀は、死者を覚えて神様にお祈りをささげることなのです。いろいろな生き方がありますが、神様の慈しみをお祈りすることなのです。
聖書の世界でも、楽園に導かれるためには、御心に生きることが大切なことであると示しています。7節、「わたしに聞け。正しさを知り、わたしの教えを心に置く民よ。人に嘲られることを恐れるな。ののしられてもおののくな」と励ましています。人間を恐れることなく、悪に対する審判を与える神様を恐れなさいと教えているのです。「彼らはしみに食われる衣。虫に食い尽くされる羊毛にすぎない。わたしの恵みの業はとこしえに続き、わたしの救いは代々に永らえる」と言われるのであります。
 奴隷の人々をエジプトから導き出した神様は、再び奴隷となっているバビロンの国から、人々を導き出すのであります。出エジプト、出バビロンは神様の変らない導きなのであります。出エジプト十戒を与えられました。今、出バビロンでは預言者イザヤを通して神様のお心を示しているのです。この状況の中で、まず神様の御心を聴くということです。私たちは神様を仰ぎ、救いの御業、主イエス・キリストの十字架を仰ぎ見ることが、私たちの歩む道なのであります。私の歩みは終末をしっかりと受け止め、主イエス・キリストの到来を待望することなのであります。

 「救い主が来られる日」、すなわちクリスマスは12月25日に設定され、多くの人々がこの日を喜ぶようになりました。主イエス・キリストの存在があるからには出現した日が当然あるのです。聖書は「救い主が来られる日」をもう一度設定しています。しかし、それは設定できない日でありました。主イエス・キリストが再びお出でになる日は設定できないのであります。
 今朝の聖書、マルコによる福音書13章24節以下が今朝のテキストになっています。「人の子が来る」との表題になっています。「人の子」とは主イエス・キリストであります。イエス様が再び来られる日について教えています。しかし、その日はいつであるかは示されていません。終末のときには再びイエス様が来られて、祝福される人々を集めると言われています。26節、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使達を遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」と示されているのです。32節、「その日、その時は、だれも知らない」のであります。神様だけが御存知あることを示しています。だから、目を覚ましていなさいと教えているのです。人間は自然の変化を読み取ることができます。聖書に記されるように、「いちじくの枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近いことがわかる」と言われています。マタイによる福音書16章2節では、「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしを見分けることができないのか」とイエス様が言っておられます。私たちも空模様、季節の移ろいの中にも次に起きることを知ることができます。今は秋であり、深まりつつあります。各地の紅葉がきれいです。私たちは紅葉は今であり、やがて紅葉は落葉となり、冬枯れのときとなることを知っています。夜、月が出て、その月に傘ができると、明日は雨だろうと思います。自然の変化により、次に起きることを予測する私たちでもあります。そうであれば、終末を受け止め、目を覚まして生きなければならないのであります。
「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰ってくるのか、夕方か夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたにはわからないからである」と示しています。この部分はマタイによる福音書25章で、イエス様が三つのたとえ話をしていますが、そのたとえ話をまとめた言い方であります。マタイでは、10人のおとめが花婿さんをお待ちしている状況です。夜になって、ともし火をともしてお待ちしているのですが、油がなくなってきたので、5人の乙女は予備の油で継ぎ足します。5人の乙女は油を持ってなかったので、買いにいくのですが、その間に花婿が到着して門が閉められ、5人の乙女は入ることができなかった言うことです。次のタラントンのお話しは、マルコでは「家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ」たというお話しになります。マタイの場合はたとえ話により、わかりやすく示していました。「目を覚ましていなさい」と聖書は示しています。
クリスマスに主イエス・キリストがお生れになり、成長して十字架の贖いにより人々をお救いになりました。それは今から2千年前の出来事です。聖書はこのクリスマスを示しながら、再びイエス様がこの世に現れることを示しているのです。それは12月25日ではありません。いつであるのか、何億年後なのか、明日なのか分からないのです。だから、いつイエス様が再び現れても良いような歩みをしなさいと教えているのが今朝の聖書です。神様の御心をいただいて生きると言うことです。イエス様の十字架の贖いを信じて、救いの喜びを持ちつつ生きることが、今の私達でなければならないのであります。

今朝は、私が在任していたドレーパー記念幼稚園の先生たちが出席され、共に礼拝をささげています。私達の証しとして、幼稚園を退任した後の歩みを報告させていただきます。2010年3月に大塚平安教会、ドレーパー記念幼稚園を退任しましたが、その4月から横浜本牧教会の代務者としての牧師、付属の早苗幼稚園の園長を担うようになりました。ですから大塚平安教会を退任しても、再び現役としての職務がありました。それは半年間であります。後任の牧師が10月に就任することになったからであります。これで、ようやく隠退生活になったのですが、長年、日曜日には礼拝説教を務めるという習慣が続くことになるのです。土曜日には説教が作成されていました。その説教はブログで公開するようになっています。10月からどこの教会にも所属しないので、どこの教会に出席しようかと夫婦で話し合っていました。しかし、説教は用意されている、牧師と信徒がいる、ということで、この自宅で六浦谷間の集会として、夫婦二人で礼拝をささげるようになったのです。それと共に、毎月一度でありますが横須賀上町教会の礼拝説教および聖餐式を担うことになりました。さらに隔月ですが三崎教会の礼拝説教を担うようになりました。その他は夫婦で六浦谷間の集会として礼拝をささげてきたのです。当初は大塚平安教会の小澤八重子さんが近くの追浜にお住まいで、時々でありますが出席されていました。あるいは時には我が家の子供たち、また本日のように知人の皆さんが出席されることもあります。そして今は、昨年10月から横浜本牧教会付属の早苗幼稚園の園長を再び担うようになり、横浜本牧教会の礼拝説教を月に一度でありますが担当させていただいています。
こうして私達は隠退していますが、礼拝をささげつつ歩んでいます。それは「救い主が来られるので」、その救い主を見つめながら歩んでいるということです。
<祈祷>
聖なる御神様。イエス様の光の到来を心から感謝いたします。再び救い主イエス様が来られる日に、主の群れの一員でありますよう導いてください。主によって、アーメン