説教「天に宝を積みながら」

2017年11月26日、六浦谷間の集会
「降誕前第5主日」 

説教・「天に宝を積みながら」、鈴木伸治牧師
聖書・サムエル記上16章5B-13節
    テモテへの手紙<一>1章12-17節
     マルコによる福音書10章17-22節
賛美・(説教前) 讃美歌54年版・422「われらたがやし」
    (説教後)535「今日をも送りぬ」


 今朝は日本基督教団の教会歴によりますと、「降誕前第5主日」であり、「収穫感謝日」、「謝恩日」をおぼえつつ礼拝をささげるということであります。キリスト教の教会は、ほとんどの教会が収穫感謝礼拝をささげます。もともと収穫感謝祭はアメリカが発祥の地です。アメリカでは第四木曜日を収穫感謝祭、Thanksgiving Day とされています。昔、イギリスでも宗教改革運動が展開し、イギリスはカトリック教会でもなくプロテスタント教会でもない英国国教会となったのでした。その英国国教会に対しても新しい信仰を持った人々、ピューリタン清教徒と言われる人々は、信仰の自由を求めてアメリカ大陸へと渡ったのでした。アメリカ大陸にはコロンブスが既に渡っています。そのときヨーロッパの病原菌まで運んでしまい、免疫力なかった多くの原住民が死んだといわれます。ピューリタンの人々がアメリカに渡ったとき、それでも存在していた原住民に助けられながら、開拓していったのでした。そして、収穫の喜びを、神様に感謝をささげる収穫感謝礼拝をささげるようになったといわれます。さらにその後、第16代大統領になったエイブラハム・リンカンが第四木曜日をThanksgiving Dayとして休日にしたのでした。
 今朝は収穫感謝日でありますが、日本基督教団は「謝恩日」として定めています。牧師として歩んだ人が隠退しますが、その隠退牧師を支える取り組みが教団の年金局であります。隠退牧師ばかりではなく、既に天国へと召された牧師のお連れ合いを支えることも年金局の働きです。謝恩日には全国の教会に呼びかけて献金をささげていただき、年金の基金としているのです。隠退教師を支える百円献金運動もありますが、全国の教会の皆さんが、毎月百円をささげて隠退教師を覚えているのです。
 今朝は「収穫感謝日」、「謝恩日」であり、日本基督教団は「降誕前主日」としていますが、キリスト教の暦では「終末主日」であります。収穫を得るということは、終わりの意味がありますので、終末主日には謝恩日、収穫感謝日と意味深く示されるのであります。働いたから恵みを知るのではなく、私の存在そのものに神様の恵みが与えられているのです。私たちは与えられているお恵みにより生かされながら、今歩んでいる道が「永遠の命への道」であることを受け止めなければなりません。収穫を感謝し、終末を覚えつつ歩むこと、天に宝を積みながらの人生です。永遠の命への道を、信仰を持って歩みたいのです。

 旧約聖書ダビデの王としての選任が記されています。ダビデの主に従う生き方を聖書は証しています。ダビデは聖書の国、イスラエルを平和に治めた名君であります。偉大な王様として後々まで語り継がれ、人々の苦しみの中から、もう一度ダビデのような王様が現れて我々を救ってもらいたいという希望が生まれました。それがメシア(救い主)待望思想であります。そのダビデの生き方はまさに主に従うことでありました。
 聖書の国イスラエルは国ではありませんでした。ヤコブの12人の子供たちが成長し、それぞれの部族を形成します。今まではアブラハム、イサク、ヤコブという民族の長、族長を中心に歩んでいましたが、ヤコブ以後は12部族の歩みとなりました。それではバラバラになってしまいますので、神様を信ずる12部族の宗教連合体と称しました。ヤコブの別名がイスラエルでありましたので、その宗教連合体をイスラエルと称したのであります。しかし、周辺は王様を中心とする国々であり、それぞれの部族は周辺の国々に悩まされていたのであります。自分達も王様を中心とした歩みが必要であると判断しました。
 今朝の聖書はダビデが選ばれる場面であります。しかし、ここでのダビデはまだ少年でありました。ダビデの選任に当たったのは祭司サムエルでありました。サムエルは神様から御心を示され、ダビデの家、エッサイのもとに行きます。エッサイには8人の子どもがいました。サムエルはエッサイと末の子供を除く7人の子ども達と会食をいたします。その会食の時、神様がお選びになっている王様を探すのであります。サムエルは最初に長男のエリアブを見たとき、まさにこの人こそ神様がお選びになった王様だと思うのです。すると神様の御声が聞こえてきます。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と言われたのであります。サムエルは他の子ども達を見ましたが、結局そこにいる7人の子ども達は神様の御心の人ではありませんでした。「あなたの息子はこれだけですか」とサムエルが聞くと、エッサイは「まだ末の子がいます。今、羊の番をしています」と言いました。早速、タビデが呼ばれます。神様はそのダビデこそ王となるべき人物であるといわれました。
 今朝の聖書は「ダビデ、油を注がれる」との表題です。聖書の世界では、指導者になる人は頭に油が注がれます。それをメシアと言っています。油注がれた者は神様のお心を実践し、人々を平和に導くのであります。そのため、油注がれた人は「救い主」と言うことになります。ダビデは油を注がれましたが、だからすぐに王様になったのか、そうではありません。神様から見放されたとしても、実際にはサウル王がいるのです。タビデはそのサウル王の家来として仕えます。そのダビデが戦いで殊勲の働きをするので、人々はダビデを賞賛するようになりました。それに対して、サウル王はダビデを憎むようになり、殺すことまで考えるようになるのです。ダビデはサウル王から逃れて、逃亡生活をしなければなりませんでした。それは大変苦しい日々でありました。そういう中でダビデは神様の御心に忠実に従いつつ生きたのでありました。やがてサウル王が戦いで死んでいきます。そこで、ようやくダビデが王様として迎えられていくのであります。聖書がダビデを証する時、主に従う忠実な僕として証しています。主に従う者の見本として示しているのであります。苦しい状況、悲しい状況、いかなる時も主に従うこと、まさに「天に宝を積みつつ」生きたのでした。そのような歩みを私たちも求められているのであります。

 主に従う生き方を主イエス・キリストは教えておられます。マルコによる福音書10章17節からが今朝の聖書であります。「金持ちの男」との表題であります。今朝は17節から22節までとして示されていますが、更にその後の23節から31節まで示されなければなりません。金持ちの男がイエス様に「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねます。するとイエス様は「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と言いました。それに対して金持ちの男は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えました。イエス様は彼を見つめ、慈しんで言われたのであります。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」と言われました。このイエス様の言葉を聞いた金持ちの男は、悲しみながら立ち去って行ったのであります。「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言う金持ちの男であります。イエス様が示した掟とは十戒でありました。十戒は普通に生きていれば守っていることになります。だから、「子供の時から守ってきました」と言うのです。23節からになりますが、金持ちの男との対話のあと、イエス様は「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と言われました。「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われています。それに対して弟子達は「それではだれが救われるのだろうか」と互いに言い合いました。らくだが針の穴を通るようなことは人間にはできませんが、「神にはできる。神は何でもできるからだ」とイエス様は言われています。ペトロがイエス様に「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました」というので、主イエス・キリストは「主に従う」ことの姿勢、内容を示されているのです。「はっきり言っておく。わたしのため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」と示されています。
聖書の中にこの言葉がなければ良いのにと思います。「家族や財産を捨てる」、これは人をつまずかせる言葉と思うのです。イエス様に従うには家族や財産を捨てなければならないと教えられているようです。そうではありません。この教えは先ほどの金持ちの男の受身的な生き方ではなく、積極的な生き方を示しているのであります。イエス様は、イエス様のため、福音のために家族や財産を捨てた者は、この世で迫害を受ける、と言っているのであります。このことはキリスト教と言うことより、「社会の基準」であります。家族を大切にすること、財産を守ること、社会の人々の基準でありますから、外れるようなことがあると批判されるのです。趣味に致しましても、家族を放っておいて趣味で喜んでいれば、社会の人々は批判します。毎日、遊び回って無駄使いをすれば、やはり社会の批判がおきます。社会の基準に生きなければならないのです。
家族を捨てる、財産を捨てると言われていますが、イエス様のために、福音のために捨てるのです。「捨てる」と言われているので、引っかかってしまうのですが、「捨てる」と言う意味を示されなければなりません。「捨てる」という聖書の言葉はアフィエナイです。アフィエナイは「捨てる」という意味ですが、「与える」という意味もあります。全く逆と思われますが、同じことを示しているのです。イエス様が「捨てる」と言っているのは、自分を捨てなさいということであります。自分を「捨て」て自分を「与える」ことなのです。すなわち仕える生き方であります。家族は愛する者たちであります。自分の世界なのであります。そうである限り、私たちはイエス様が示す積極的な生き方ができないのであります。家族も財産も同じ意味合いでイエス様は示しているのです。財産を捨てて自分を与える生きかたは他者に仕える生き方でもあります。家族に対しても自分を捨てて与える生き方でなければならないのです。家族を捨てた者、すなわち自分を捨てた者は、社会の基準から外れることで批判され、迫害を受けることになります。
 しかし、私たちはイエス様を信じて生きていますし、また日曜日には教会に来て礼拝をささげていますが、家族を捨てたなんて毛頭思ってもいません。一生懸命に聖書を読んでいますが、家族を捨てるためだなんて考えていません。むしろ、自分がイエス様を信じて生きることで、家族が幸せになってほしいと願っています。イエス様を信じるようになったので、自己満足や他者排除を捨てることに努めていますので、自分を家族に与えながら生きるようになっているのです。「今この世で、迫害を受ける」と言う「社会基準」を気にしてはなりませんとイエス様は教えておられるのです。だから、社会基準を気にすることなく、主イエス・キリストの十字架の救いを信じて生きるとき、家族や財産が祝福されると示しておられます。家族や財産が祝福されるとき、「永遠の命」をいただくと教えておられるのです。従って、この聖書は家族を仲たがいするためではなく、祝福の家族へと導く教えであるということです。

 私は23歳の時に神学校に入りました。自分の生きる道は伝道者ではないか、と示され始めるのは高校生の時でした。私は五人兄弟の末っ子でありましたが、すぐ上の兄は日本の敗戦後に亡くなっています。上三人は姉達で神学校に入る頃は、二番目の姉も三番目の姉も結婚しています。一番上の姉と両親と四人家族でした。私は両親が40歳代で生まれていますから、私が23歳であることは、両親は65歳にもなっていました。もう定年を迎えていました。昔の考え方からすれば、一人息子が親と共に過ごすことであり、姉に頼ることではありません。従って、伝道者に進むにあたり、思いにあったことは家を捨てるということでありました。牧師になれば日本全国、どこに行くか分かりませんし、親と共に生活するということはないわけです。ですから神学校に入るということ、伝道者の道を歩むということには、躊躇していたのであります。そのように思い悩んでいるとき、結婚しないでいる一番上の姉が、両親とは私が一緒に住むから、あなたは牧師さんになりなさい、と勧めてくれたのでした。その言葉に励まされて神学校に入ったのであります。その時の思いは家を捨てたということではありませんが、そんな思いを持っていたと思います。今から思いますと、社会基準であり、今朝示されていますように、主に従う歩みは家族の祝福であると示されているのであります。牧師になった私を両親は喜んでくれましたし、社会基準と言うより、社会の人々も存在を認めてくれたと思っています。両親の葬式は、両親は浄土真宗の信者でありましたので、仏教の葬式でした。自宅での葬式であり、仏教では葬式の時、花輪を家の外に並べます。その花輪の最初は大塚平安教会であり、次はドレーパー記念幼稚園の花輪でした。焼香に来られた方が、「ここの家の息子さんはキリスト教の牧師さんなんですって」という声が聞こえてきます。
 マルコによる福音書は「主に従う」ことは家族を捨てる悲しみということではなく、新しい家族を与えられる喜びを示しているのです。私たちは「主に従う」ことを、悲観的にとらえてはならないのです。「主に従う」ことは喜びなのです。その喜びをもっともっと大きくしなければならないのです。
現実を生きている今、その現実がどのような状況でありましょうとも、主イエス・キリストの福音、十字架による救いを与えられているのですから、まさに喜びなのです。その喜びの生活は、家族を捨てるという悲壮感ではなく、家族もその喜びにより救われるのであります。自分を捨て、自分を与えることが主に従う私たちの人生なのであります。それが「天に宝を積みつつ」歩む人生なのです。
<祈祷>
聖なる御神様。福音に生きる喜びを感謝いたします。主に従い、人生の勝利者となることができますよう導いてください。主のみ名によっておささげいたします。アーメン。