説教「救いの使者として」

2017年11月19日、六浦谷間の集会
「降誕前第6主日」 

説教・「救いの使者として」、鈴木伸治牧師
聖書・出エジプト記6章2-13節
    ヘブライ人への手紙11章23-29節
     マルコによる福音書13章3-13節
賛美・(説教前) 讃美歌54年版・174「起きよ、夜は開けぬ」
    (説教後)504「実れる田の面は」


 スペインに滞在しております娘の羊子が12月20日に帰国するという知らせが、突然ありました。1月10日にはバルセロナに戻るということです。実は今年の7月24日に帰国し、8月29日にバルセロナに戻ったばかりです。前回の帰国は、2月12日に男の子を出産し、私達が行かれないものですから、孫を連れて来てくれたのです。そのときは6ヶ月になる孫でした。また、12月に帰国するといい、今度は彼と共に三人で帰国するということでした。日本の伝統的なこととして、お正月には故郷に帰り、孫と爺、婆が共に過ごすのですが、そんな思いで帰国してくれるのかもしれません。私達にとりましては遠いスペインからわざわざ帰国してくれるので、大きな喜びでもあります。夏に帰国したときは、羊子は、浅田真央さんのアイスショウでピアノを演奏し、思い出に残ることでした。
 今年も早くも11月の半ばとなり、新しい年を迎えようとしていますが、年月の早さをつくづくと感じています。昨年の10月から横浜本牧教会付属早苗幼稚園の園長を担うようになりましたが、来年の3月までになっており、後任の牧師・園長が決まりつつあります。園長を務める中で、幼稚園のいろいろな問題点に気がつき、教会の役員会と相談しつつ取り組みました。幼稚園の園庭と隣の駐車場とは低い垣根になっており、これでは不審者が侵入しやすいので、高いフェンスで囲みました。幼稚園の入口は電動シャッターになっており、災害時に停電となれば作動しなくなります。そうなるとそこから避難することもできず、開閉式の門扉を設置したのです。保育時は開閉式の門扉の出入りですが、夜間は電動シャッターにしています。さらに出入り口は傾斜になっており、滑りやすいこともあり、その傾斜の一部を階段にしたのです。妊婦のお母さんには階段を使用してもらうことにしたのでした。そして、これから工事に入りますが、二階からの避難用滑り台を設置することです。二階からの滑り台は一ヶ所設置されていますが、三教室の子供たちが一度に避難するには、それだけでは足りないのです。避難用滑り台は通常は遊具にもなりますので、楽しく利用するでしょう。このような取り組みをしているうちにも園長に就任してから一年を経てしまいました。
 過ぎ去ってしまった年月は、常に早いものだと思いますが、その時は祈りつつ歩み、出会いの人々と共に歩んでいたのです。私は78歳にもなりましたが、この年になると、常に召される時を心に示されながら歩むようになります。いわば終わりの時です。終わりの時を常に心に示されながら歩むことを示しているのが聖書です。ですから、終わりを示されつつ歩むのは、何も老人に限らず、若い人々も心に示されながら歩まなければならないのです。今朝は教会の暦においても終末を示される聖書の教えなのです。日本基督教団の教会暦は「降誕節主日」となっていますが、他の教会暦では「終末前主日」としています。そして次週の11月26日が「終末主日」であり、12月3日が「降誕節第一主日」になります。すなわち、降誕節になりますと新しい教会暦になるのです。キリスト教の歩みは今週と次週を持って一年の暦が終わるということです。その意味で「終末」を示しているのが今朝の聖書であります。
キリスト教の暦の上でありますが、世の終わりを示されるときなのであります。終末はいろいろな意味として示されます。一つは世の始まり、天地創造の始まりがあったのだから、天地の終わりがあると考えられるのであります。それがいつであるかはわかりません。終末は天地が次第に滅んでいくと考えている人もあります。地球温暖化が進み、次第に滅んでいくということです。しかし、ある日突然、天地が崩壊するとも考えられています。聖書的には、神様が終末を与えるということであります。主イエス・キリストが再びお出でになり、人間の一人ひとりの生き方を問い、審判を与えるのであります。その日、その時はわかりません。何万年、何億年先のことかも知れません。しかし、明日のことかも知れません。その日その時がわからないので、いつ終末が来てもよいように、今のとき、目を覚まして歩みなさいと教えているのが主イエス・キリストであります。

 終末を心に留めつつ歩むということ、信仰に生きる姿であります。しかし、人生は喜びもありますが、苦難に生きることもあります。その苦難にあっても信仰による忍耐を持って生きることが私達の人生であります。そのためにも信仰の人生をいよいよ導かれたいのであります。信仰に生きる示しは前週においても示されました。終末に向かうとき、聖書はアブラハムモーセの信仰を示します。前週はアブラハムの信仰を示されました。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とヘブライ人への手紙が示していますが、アブラハムがまさにその信仰をもって生きたのであります。見えない事実でありますが、生きている者の神様は、見えない事実を確実に与えてくださるのであります。今朝はモーセの信仰です。アブラハムは黙々と神様に従う姿勢がありました。それに対して、モーセは常に神様の御心を求めて歩んだのであります。
 出エジプト記6章2節以下は、神様がモーセに使命を与えています。この使命については、既に出エジプト記3章で示されています。3章ではモーセに召命が与えられます。召命とは「命を召す」と書きますから、神様の御用のために召しだされるという意味です。モーセに召命が与えられ、その働きの内容、すなわちエジプトで奴隷として苦しんでいる人々を救いだすことを示されたとき、モーセは躊躇するのです。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」とモーセは神様に言うのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」と神様は力付けてくれるのですが、それでもモーセは拒みながら言うのです。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と応えるべきでしょうか」と言うのでした。その時、神様は御自分の自己紹介をいたします。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたがたに遣わされたのだ」と言われたのです。この後、神様は聖書の人々がエジプトで奴隷としてどんなにか苦しんでいるかを示します。だから神様はモーセを選んでエジプトに遣わすことを、モーセに懇々と諭すのであります。ところが、それでもモーセは躊躇するのです。モーセは神様に逆らって、「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うのでした。そこで、神様は共におられる証拠を示すのです。まず、モーセが持っている杖を地面に投げさせます。すると杖は蛇になりました。更に、神様はモーセの手を懐に入れさせます。懐から手を出すと、手は重い皮膚病になっているのです。再び手を懐に入れると、元の手になるのでした。これらの奇跡は神様がモーセと共にいる証拠なのです。このようにして、神様の力がモーセに与えられていることを示されるのですが、モーセはそれでも躊躇しています。
 4章10節、「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つほうではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです」と言うのでした。それに対して、神様は「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている」と言われ、アロンがモーセに代わって語ることを示すのでした。モーセはようやく神様の召命に応えました。神様のお言葉をいただいてすぐに従ったアブラハムとはまったく反対のモーセなのです。弱さを神様に投げかけていくこと。これがモーセの信仰なのです。この後もモーセはことごとく問題を神様に投げかけます。そして、御心をいただいては一歩前進していくのであります。
 モーセは神様から使命を果たすため、アロンと共にエジプトの王様ファラオのもとに出かけ、イスラエルの奴隷の人々を解放するように交渉します。エジプトにとって奴隷がいなくなることは大きな痛手であります。ファラオはそんなことを言ってきたことに対して、今まで以上の重い労働を奴隷の人々に課すのでした。それで奴隷の代表がファラオに労働が重すぎることを訴えるのですが、ファラオは聞こうとしません。そのため奴隷の人々もモーセを恨むようになります。それで、モーセは神様に弱音を吐くのです。「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いを下されるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとしません」と神様に言うのです。その訴えに答えたのが今朝の聖書、出エジプト記6章2節からであります。神様は改めてモーセの使命を言い渡します。モーセが奴隷の人々を解放すること、新しい土地へと導くこと、神様の民として生きること、その使命を実行するのがモーセであることを示すのでした。この後も、モーセは常に神様に弱音を述べながら、神様の使命に応えていくのであります。
 モーセは神様のお力によって、エジプトの人々に終末、審判を与えます。そして、神様の御心に従う聖書の人々が新しい神の国へと導かれていくのであります。絶えず御心を求めての旅路でありますが、神の国、新しい土地、乳と蜜の流れる土地へと導かれていくのであります。モーセの信仰なのです。今朝の聖書、ヘブライ人への手紙11章23節以下はモーセの信仰の証を記しています。24節、「信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです」とモーセの信仰を示しています。目に見えない方の導きを信じてファラオと戦い、奴隷の人々を約束の地へと導いて行ったのでありました。
 終末を覚える礼拝において、私たちはアブラハムモーセの信仰を示されました。私たちはこの二人のどちらかの姿を持っています。神様の導きを信じて、黙々と御心に従うアブラハムの生き方です。御心をいただき、なかなか従い得ないで、神様に自分の思いを投げかけ、自分の弱さを神様に申し上げながら御心に従うモーセの生き方です。この二人の信仰をわたし達も持ちながら終末に向けて歩んでいるのです。

 その終末を主イエス・キリストは厳しく示します。マルコによる福音書13章3節以下に終末が示されます。イエス様と弟子達が神殿の境内を出て行くとき、弟子の一人が「先生、御覧ください。なんと素晴らしい石、なんと素晴らしい建物でしょう」と言います。それに対してイエス様は「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と言われたのです。これは神殿の崩壊を述べているのです。それに対して弟子達は、そのようなことがいつ起こるのか、またどんな徴があるのかと聞くのでした。それに対してイエス様が終末の出来事をお話されたのであります。
 「人に惑わされないように気をつけなさい。私を名乗るものが大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」と言われています。「わたしがそれだ」というのは、「わたしが救い主だ」という者が多く出てくるというのです。戦争や地震、飢饉が起きると、終末ではないかと思う。これらはまだ終末ではないと言います。また、イエス様を信じるゆえに迫害を受けることになります。しかし、聖霊の導きがあるから、信仰により生きなさいと教えています。さらに家族においてもいがみ合わなければならなくなります。最も悲しいことであります。それらの悲しみ、苦しみを経験することにより終末の到来を思うことになるのです。しかし、終末の予告的なことであるかもしれませんが、終末ではないと言います。大切なのは「最後まで耐え忍ぶ者」であり、その者が「救われる」のであると示しています。終末の徴として、現実の悲しみ、苦しみを示しています。どのような状況に置かれようとも、信仰によって生きるならば、「最後まで耐え忍ぶならば救われる」のであります。この「最後まで」のときが終末であります。今、どんなに苦しくても、悲しくても、まだ終末ではない。「最後」のときが終末なのです。従って、私たちの日々の歩みを信仰によって生きること、そこに真の救いがあることを教えているのであります。置かれている状況において、御心に従いつつ歩みたいのであります。「御国を来たらせたまえ」と祈りつつ歩むことであります。この聖書の示しを、私達は「救いの使者として」証しをしたいのであります。

 苦難と言われますが、今は自然災害の苦難に生きる多くの皆さんがおられます。東日本大震災の苦難はまだまだ続いています。さらにその後の災害は、多くの人々が犠牲になり、愛する者を失った悲しみが続いています。帰る家がありません。福島原発事故が重なり、放射能の危険地域になり、住みなれた家を後にしている人々です。これらの地域の人々の中にキリスト教の信仰を持っておられる人々もあります。さらに今は、いつ戦争が起きるかもしれない状況でもあります。世界は揺れ動いているのです。このような苦難の中に生きる私達ですが、イエス様の示しをいただいて、「救いの使者として」歩まなければらないのです。苦しい現実の中で、祈りつつ歩みたいのです。終末信仰をしっかりと持ちつつ歩むことを示されているのです。
<祈祷>
聖なる神様。終末信仰を持ち、忍耐を持って歩むことができ感謝致します。御国を来たらせたまえと祈りつつ歩ませてください。主イエス・キリストの御名により。アーメン。