説教「人生の指針を与えられる」

2021年3月14日、六浦谷間の集会

「受難節第4主日

 

説教・「人生の指針を与えられる」、鈴木伸治牧師

聖書・出エジプト記24章3-8節

   ペトロの手紙<二>1章16-21節

   マタイによる福音書17章1-8節       

賛美・(説教前)讃美歌21・300「十字架のもとに」

   (説教後)504「主よ、み手もて」

 

 「人生の指針」は、はっきりとわかる状態で、その道を歩む場合もありますが、暗中模索しているような状況で、気がついたら、「人生の指針」を歩んでいたということもあるでしょう。自分の名前を示されながら歩む場合もあります。私も時々、自分の名前の意義を示されることがあります。自分の名前の意味を親から聞いたことはありませんが、自分なのに励まされているのです。私の名前は「伸治」ですから、「伸びることを治める」という意味合いであり、一つのことを伸ばして生きることであると示されているのです。その意味では、隠退してもなお御言葉に向かう姿勢が与えられていると思います。幼稚園の子供たちの名前をいつも示されていますが、今は「太郎」さんとか「花子」さんという名はありません。耳で聞いても可愛い名前が多くなっています。

 聖書でもいろいろな人々が登場していますが、その名前については、その人の人生を示すような名が示されています。神話の世界でありますが、最初の人、アダムは土(アダマ)から造られていることから、この名前になっています。アブラハムは最初はアブラムという名前でしたが、神様によってアブラハムという名になったとき、その意味は「多くの国民の父」としての名前であったのです。アブラハムに与えらせた子供はイサクという名でした。高齢のサラから子供が生まれることを聞いたとき、サラは笑ったのでした。イサクとは「笑い」の意味でもあるのです。その笑いは祝福の笑いでもあったのです。モーセは水の中から拾い上げられたという意味でありました。聖書は名前が与えられるとき、その人の人生を示すような名前が与えられているのです。

人生の指針は神様の御心に生きるということであります。今朝は御言葉に向かう人々が、人生の指針を与えられて、祝福の道を歩んだことを示されているのであります。

 神様を仰ぎ見、神様のお心に養われる人生が祝福の人生なのであります。今朝の旧約聖書は人々が神様の言葉を守り、行うことを告白しているのであります。旧約聖書には、モーセという指導者が現れています。聖書の人々がエジプトで奴隷に生きており、それも400年も苦しみの歩みでした。それで神様はモーセを選び、奴隷の人々を脱出させたのでした。そのことは旧約聖書出エジプト記に記されています。奴隷の国から脱出した後、モーセは神様の御心を人々に読み聞かせるのであります。モーセが神様の言葉とすべての法を人々に読み聞かせたとき、人々は皆、声を一つにして「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います。守ります」と答えたことが今朝の聖書の示すところです。この告白が、聖書の人々の「人生の指針」として、たえず目標として存在するのです。「神様のみ言葉に従う」こと、それが祝福の人生であり、人生の指針であると示しているのです。

 聖書の人々はエジプトの国で奴隷として生きること400年であります。もともと聖書の人々はカナンに住んでいましたが、全国的な飢饉が訪れ、食べることに窮することになりました。その飢饉を生き抜くために、神様はヤコブの子供、ヨセフをエジプトに導いていたのです。ヨセフは夢を解く不思議な力を持っていました。最初は兄達の妬みで、奴隷として売られていくのですが、夢を解く力が王様にも及ぶのです。エジプトの王様の見た不思議な夢を解くことにより、ヨセフは王様に次ぐ大臣になりました。ヨセフの指導でエジプトにはたくさんの食料が蓄えられるようになりました。そして、飢饉が訪れ、ヤコブの一族が買出しにやってきました。そこで兄弟たちとの劇的な再会がありました。そして、ヤコブの一族はエジプトに寄留することになるのです。しかし、その後、ヨセフのことを知らない王様が、自分の国に他所の国の者が住んでいることに懸念を持ち、奴隷にしてしまうのであります。苦しみの生活が始まったのです。その苦しみに対し、神様はモーセを指導者として、聖書の人々をエジプトから脱出させたのでありました。モーセの使命は二つの内容があります。一つはエジプトからの脱出であり、もう一つは神様の御言葉により養われる人々へと導くことでありました。それが今朝の示しであります。

 エジプトを脱出した人々はシナイ山の麓に宿営します。そしてモーセは神様の招きによりシナイ山に登っていくのでした。そのシナイ山で神様は十戒を授けたのであります。これは人間が生きるに必要な基本的な戒め、守ることでありました。十戒出エジプト記20章に記されています。

 十戒を示したモーセは、その後神様から示されたこととして、いろいろな戒めを与えています。それは出エジプト記20章22節以下から始まる「契約の書」というものであります。神様のお心をいただいて生きる者は、神様と契約の関係にあり、その契約を守りつつ生きるのであります。まず、聖書の人々が奴隷であったことから、奴隷についての戒めが与えられています。それが23章まで示されているのです。そして今朝の聖書になります。「契約の締結」とされています。つまり、これまで示されてきた戒めに対して、人々が応答すること、戒めに従う姿勢を示すことでありました。「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と告白したのでありました。このことにより、神様は聖書の人々を養い、導くのです。

 神様が示された人間の基本的な生き方、十戒の戒めをしっかりと持ち続けること、それが祝福の人生であることは、新約聖書におきましても普遍的に示されているのです。今朝の新約聖書は「イエス様の姿が変わる」と題されていますが、「山上の変貌」として重要な示しなのであります。

 「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」と最初に記されています。「六日の後」とは、前の部分に示されている弟子達の信仰告白であり、イエス様が十字架への道を歩むことをお示しになってからのことであります。十字架への道が主イエス・キリストのご栄光であることを示しているのであります。高い山に登ると、イエス様の姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなったということです。弟子達が驚きつつ見ると、そこにはモーセとエリヤが現れ、イエス様と語り合っていたというのです。するとペトロは、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのためです」と言うのでした。すると光り輝く雲が彼らを覆ったのであります。そして雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と神様の声が聞こえたのであります。弟子達はこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れたのでありました。それは一瞬のことであり、恐れている弟子たちにイエス様が声をかけたのでありました。

 この山上の変貌は十字架の道を歩むイエス様の勝利の姿であると示されます。まさにその通りでありますが、モーセとエリヤの出現が山上の変貌を意味深く示しているのであります。モーセもエリヤも昔の存在でありますが、モーセ十戒を与えられ、人々に神の言葉として教え導いた人であります。神の戒めを示す存在でありました。そしてエリヤは神様の御言葉を人々に示す預言者であります。預言の言葉は力となり、人々に神様の御心を示したのでありました。モーセは現実の生きる道を示し、エリヤは預言、希望を与えているのです。イエス様がモーセとエリヤと話していたということは、主イエス・キリストが現実を導き、祝福への道を示しているということであります。そして、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と言われたことは、主イエス・キリストが私達の現実を導き、「人生の指針」を与えてくださっていることを示しているのであります。

 聖書が自分にあるということ、「人生の指針」があるのです。前任の大塚平安教会時代、関係施設の綾瀬ホームで聖書の学びをしていました。その綾瀬ホームで働いていた人が退職したのですが、その人と電車の中でばったり出会いました。その人が言いました。「綾瀬ホームで礼拝があり、先生のありがたいお話がありましたが、すいません、何も覚えてはいません。しかし、礼拝で聖書をみんなで順番に読んだことだけは忘れられません。なんかそれだけで力になっているのです」と言われたのです。「人生の指針」がその人と共にあることを示されたのでした。私達には「人生の指針」、神様のお導きがあることを心に示されつつ歩みたいのです。時には、埃だらけの聖書に触ってみる、それだけで力が与えられるのです。「ぱたぱた信者」と言われます。聖書は日曜日に、教会に行くときだけ、埃をはたいて持参する、それだけでも「人生の指針」になっているのです。神様の御心が私たちの人生の指針であること示されたのでした。

<祈祷>

聖なる神様。主イエス様の十字架の救い感謝いたします。十字架の指針により歩ませてください。主イエス・キリストによって祈ります。アーメン

noburahamu2.hatenablog.com