説教「救いの約束」

2021年11月14日、六浦谷間の集会

「降誕前第6主日」       

                      

説教・「救いの約束」、鈴木伸治牧師

聖書・出エジプト記6章2-13節

   ヘブライ人への手紙11章23-29節

   マルコによる福音書13章3-13節

賛美・(説教前) 讃美歌21・106「み前に集まり」

   (説教後) 讃美歌21・449「千歳の岩よ」

 今年も早くも11月の半ばとなり、年の終わりを迎えようとしていますが、年月の早さをつくづくと感じています。過ぎ去ってしまった年月は、常に早いものだと思いますが、その時は祈りつつ歩み、出会いの人々と共に歩んでいたのです。私は82歳になりましたが、この年になると、常に召される時を心に示されながら歩むようになります。いわば終わりの時です。終わりの時を常に心に示されながら歩むことを示しているのが聖書です。ですから、終わりを示されつつ歩むのは、何も老人に限らず、若い人々も心に示されながら歩まなければならないのです。今朝は教会の暦においても終末を示される聖書の教えなのです。日本基督教団の教会暦は「降誕前第6主日」となっていますが、他の教会暦では「終末前主日」としています。そして次週の11月21日が「終末主日」であり、11月28日が「降誕節第一主日」になります。すなわち、降誕節になりますと新しい教会暦になるのです。キリスト教の歩みは今週と次週を持って一年の暦が終わるということです。今朝は「終末」を示されるのであります。

キリスト教の暦の上でありますが、世の終わりを示されるときなのであります。終末はいろいろな意味として示されます。一つは世の始まり、天地創造の始まりがあったのだから、天地の終わりがあると考えられるのであります。それがいつであるかはわかりません。終末は天地が次第に滅んでいくと考えている人もあります。地球温暖化が進み、次第に滅んでいくということです。しかし、ある日突然、天地が崩壊するとも考えられています。聖書的には、神様が終末を与えるということであります。主イエス・キリストが再びお出でになり、人間の一人ひとりの生き方を問い、審判を与えるのであります。その日、その時はわかりません。何万年、何億年先のことかも知れません。しかし、明日のことかも知れません。その日その時がわからないので、いつ終末が来てもよいように、今のとき、目を覚まして歩みなさいと教えているのが主イエス・キリストであります。

 出エジプト記6章2節以下は、神様がモーセに使命を与えています。この使命については、既に出エジプト記3章で示されています。モーセは神様から使命を果たすため、アロンと共にエジプトの王様ファラオのもとに出かけ、イスラエルの奴隷の人々を解放するように交渉します。エジプトにとって奴隷がいなくなることは大きな痛手であります。ファラオはそんなことを言ってきたことに対して、今まで以上の重い労働を奴隷の人々に課すのでした。それで奴隷の代表がファラオに労働が重すぎることを訴えるのですが、ファラオは聞こうとしません。そのため奴隷の人々もモーセを恨むようになります。それで、モーセは神様に弱音を吐くのです。「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いを下されるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとしません」と神様に言うのです。その訴えに答えたのが今朝の聖書、出エジプト記6章2節からであります。神様は改めてモーセの使命を言い渡します。モーセが奴隷の人々を解放すること、新しい土地へと導くこと、神様の民として生きること、その使命を実行するのがモーセであることを示すのでした。モーセは常に神様に弱音を述べながら、神様の使命に応えていくのであります。

 モーセは神様のお力によって、エジプトの人々に終末、審判を与えます。そして、神様の御心に従う聖書の人々が新しい神の国へと導かれていくのであります。絶えず御心を求めての旅路でありますが、神の国、新しい土地、乳と蜜の流れる土地へと導かれていくのであります。モーセの信仰なのです。今朝の聖書、ヘブライ人への手紙11章23節以下はモーセの信仰の証を記しています。24節、「信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです」とモーセの信仰を示しています。神様の導きを信じてファラオと戦い、奴隷の人々を約束の地へと導いて行ったのでありました。

 終末を覚える礼拝において、私たちは前週の礼拝でアブラハム、今朝の礼拝でモーセの信仰を示されました。私達はこの二人のどちらかの姿を持っています。神様の導きを信じて、黙々と御心に従うアブラハムの生き方です。御心をいただき、なかなか従い得ないで、神様に自分の思いを投げかけ、自分の弱さを神様に申し上げながら御心に従うモーセの生き方です。この二人の信仰をわたし達も持ちながら終末に向けて歩んでいるのです。

 その終末を主イエス・キリストは厳しく示します。マルコによる福音書13章3節以下に終末が示されます。イエス様と弟子達が神殿の境内を出て行くとき、弟子の一人が「先生、御覧ください。なんと素晴らしい石、なんと素晴らしい建物でしょう」と言います。それに対してイエス様は「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と言われたのです。これは神殿の崩壊を述べているのです。それに対して弟子達は、そのようなことがいつ起こるのか、またどんな徴があるのかと聞くのでした。それに対してイエス様は終末の出来事をお話されたのであります。

 「人に惑わされないように気をつけなさい。私を名乗るものが大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」と言われています。「わたしがそれだ」というのは、「わたしが救い主だ」という者が多く出てくるというのです。戦争や地震、飢饉が起きると、終末ではないかと思います。これらはまだ終末ではないと言います。また、イエス様を信じるゆえに迫害を受けることになります。しかし、聖霊の導きがあるから、信仰により生きなさいと教えています。さらに家族においてもいがみ合わなければならなくなります。最も悲しいことであります。それらの悲しみ、苦しみを経験することにより終末の到来を思うことになるのです。しかし、終末の予告的なことであるかもしれませんが、終末ではないと言います。大切なのは「最後まで耐え忍ぶ者」であり、その者が「救われる」のであると示しています。終末の徴として、現実の悲しみ、苦しみを示しています。どのような状況に置かれようとも、信仰によって生きるならば、「最後まで耐え忍ぶならば救われる」のであります。この「最後まで」のときが終末であります。今、どんなに苦しくても、悲しくても、まだ終末ではない。「最後」のときが終末なのです。従って、私たちの日々の歩みを信仰によって生きること、そこに真の救いがあることを教えているのであります。置かれている状況において、御心に従いつつ歩みたいのであります。「御国を来たらせたまえ」と祈りつつ歩むことであります。この聖書の示しを、私達は「救いの約束」として示されたいのであります。

 救いの約束は、私たちが聖書を紐解くとき、いつも示されるのです。聖書は神様が私たちを導き、お救い下さる約束の書なのです。マレーシア・クアラルンプールに日本語で礼拝をささげる会の皆さんがおられますが、その中心となっておられる諸江修さんからお便りをいただきました。お便りでありますが、「み言葉」をいただいたということです。クアラルンプールで日本語の礼拝をささげている皆さんがおられますが、2013年に私たち夫婦も招かれまして、ボランティア牧師として赴きました。その集いの牧師が退任して、その後、専任の牧師が決まらないので、日本基督教団の隠退牧師が三ヶ月ずつ順次赴くことになり、私は五番目の牧師として赴いたのです。いつも20人くらいの礼拝出席でした。そのうちクアラルンプールに半永久的に住んでいる方が半数で、後の半数は一時的に会社から派遣されている皆さんなのです。そういう皆さんは日本語の集会をしている集会を探し出して出席するのでした。2、3年でいなくなりますが、滞在中は集会に出席されるのでした。そういう意味でもこの日本語集会は大切な存在でもあるのです。しかし、その集会も、今は新型コロナウィルス感染予防で開くことができません。そのため、集会に出席している皆さんが順次、集会のホームページに「お祈り」を掲載しているということです。聖書の言葉と共に「お祈り」を掲載することによって、神様のお約束を示されるのでした。今回、諸江さんが聖書の「み言葉」を送ってくださったのでした。神様の救いのお約束を示されたということです。「救いの約束」はイエス・キリストの十字架によって実現されているのです。

<祈祷>

聖なる神様。終末信仰を持ち、忍耐を持って歩むことができ感謝致します。御国を待望しつつ歩ませてください。キリストの御名により。アーメン。

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