説教「救い主に従う」

2021年11月21日、六浦谷間の集会

「降誕前第5主日」       

                      

説教・「救い主に従う」、鈴木伸治牧師

聖書・サムエル記上16章5B-13節

          テモテへの手紙<一>1章12-17節

         マルコによる福音書10章17-22節

賛美・(説教前) 讃美歌21・386「人は畑をよく耕し」

           (説教後) 讃美歌21・536「み恵みを受けた今は」

 今朝は日本基督教団の教会歴によりますと、「降誕前第5主日」であり、「収穫感謝日」、「謝恩日」をおぼえつつ礼拝をささげるということであります。キリスト教の教会は、ほとんどの教会が収穫感謝礼拝をささげます。もともと収穫感謝祭はアメリカが発祥の地です。アメリカでは第四木曜日を収穫感謝祭、Thanksgiving Day とされています。昔、イギリスでも宗教改革運動が展開し、イギリスはカトリック教会でもなくプロテスタント教会でもない英国国教会となったのでした。その英国国教会に対しても新しい信仰を持った人々、ピューリタン清教徒と言われる人々は、信仰の自由を求めてアメリカ大陸へと渡ったのでした。アメリカ大陸にはコロンブスが既に渡っています。そのときヨーロッパの病原菌まで運んでしまい、免疫力なかった多くの原住民が死んだといわれます。ピューリタンの人々がアメリカに渡ったとき、それでも存在していた原住民に助けられながら、開拓していったのでした。そして、収穫の喜びを、神様に感謝をささげる収穫感謝礼拝をささげるようになったといわれます。さらにその後、第16代大統領になったエイブラハム・リンカンが第四木曜日をThanksgiving Dayとして休日にしたのでした。

 今朝は収穫感謝日でありますが、日本基督教団は「謝恩日」として定めています。牧師として歩んだ人が隠退しますが、その隠退牧師を支える取り組みが教団の年金局であります。隠退牧師ばかりではなく、既に天国へと召された牧師のお連れ合いを支えることも年金局の働きです。謝恩日には全国の教会に呼びかけて献金をささげていただき、年金の基金としているのです。隠退教師を支える百円献金運動もありますが、全国の教会の皆さんが、毎月百円をささげて隠退教師を覚えているのです。

 今朝はさらに「終末主日」であります。収穫を得るということは、終わりの意味がありますので、終末主日には謝恩日、収穫感謝日を重ねているのです。私たちは与えられているお恵みにより生かされながら、今歩んでいる道が「永遠の命への道」であることを受け止めなければなりません。収穫を感謝し、終末を覚えつつ歩むこと、救い主に従う人生なのです。

 旧約聖書ダビデの王としての選任が記されています。ダビデの主に従う生き方を聖書は証しています。ダビデは聖書の国、イスラエルを平和に治めた名君であります。偉大な王様として後々まで語り継がれ、人々の苦しみの中から、もう一度ダビデのような王様が現れて我々を救ってもらいたいという希望が生まれました。それがメシア(救い主)待望思想であります。そのダビデの生き方はまさに主に従うことでありました。

 聖書の国イスラエルは国ではありませんでした。ヤコブの12人の子供たちが成長し、それぞれの部族を形成します。それで、最初の王になったのがサウル王でした。しかし、サウルは神様の御心から離れてしまったので、神様は次の王を選任するのでした。それがダビデでありました。今朝の聖書はダビデが選ばれる場面であります。しかし、ここでのダビデはまだ少年でありました。ダビデの選任に当たったのは祭司サムエルでありました。サムエルは神様から御心を示され、ダビデの家、エッサイのもとに行きます。エッサイには8人の子どもがいました。サムエルはエッサイと末の子供を除く7人の子ども達と会うのです。しかし、7人とも神様の御心ではありませんでした。「あなたの息子はこれだけですか」とサムエルが聞くと、エッサイは「まだ末の子がいます。今、羊の番をしています」と言いました。早速、タビデが呼ばれます。神様はそのダビデこそ王となるべき人物であるといわれました。

 今朝の聖書は「ダビデ、油を注がれる」との表題です。聖書の世界では、指導者になる人は頭に油が注がれます。それをメシアと言っています。油注がれた者は神様のお心を実践し、人々を平和に導くのであります。そのため、油注がれた人は「救い主」と言うことになります。ダビデは油を注がれましたが、だからすぐに王様になったのか、そうではありません。神様から見放されたとしても、実際にはサウル王がいるのです。タビデはそのサウル王の家来として仕えます。やがてサウル王が戦いで死んでいきます。そこで、ようやくダビデが王様として迎えられていくのであります。聖書がダビデを証する時、主に従う忠実な僕として証しています。主に従う者の見本として示しているのであります。苦しい状況、悲しい状況、いかなる時も神様に従う歩みであったのです。

 神様に従う生き方を主イエス・キリストは教えておられます。マルコによる福音書10章17節からが今朝の聖書であります。「金持ちの男」との表題であります。今朝は17節から22節までとして示されていますが、更にその後の23節から31節まで示されなければなりません。金持ちの男がイエス様に「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねます。するとイエス様は「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と言いました。それに対して金持ちの男は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えました。イエス様は彼を見つめ、慈しんで言われたのであります。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」と言われました。このイエス様の言葉を聞いた金持ちの男は、悲しみながら立ち去って行ったのであります。「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言う金持ちの男であります。イエス様が示した掟とは十戒でありました。十戒は普通に生きていれば守っていることになります。だから、「子供の時から守ってきました」と言うのです。

 金持ちの男は、「子どもの時から守ってきました」という通り、与えられている十戒は、いつも自分を正しくするための戒めであるのです。聖書の人々は、十戒を中心にして生きているのです。その生き方に対して、イエス様が欠けているものとして示しました。それは「他の存在」でありました。十戒は「自分の存在」なのです。十戒を守ることは、自分という存在が神様に正しいものとされると信じられているのです。しかし、その十戒こそ、「他の存在」を示される戒めなのです。イエス様は十戒の真の意味、「他の存在」を受け止めて歩むことを示されたのでありました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」、それが十戒の真の意味でありました。その意味を知った金持ちの男はかなしみながら立ち去ったのでした。十戒を守ることは、神様に従う歩みなのです。「他の存在」と共に歩むことなのです。

 先ほども触れましたが、今朝は「収穫感謝礼拝」としてささげています。この日は、教会によっては与えられているお恵み、果物や野菜を礼拝堂の前、聖壇に置き、感謝しつつ礼拝をささげるのです。幼稚園でも収穫感謝礼拝をささげていました。やはり、その日は果物なり、野菜を一品持参し、聖壇に置き、神様のお恵みとして感謝するのでした。礼拝後は教会学校のお友達は、病気で休んでいるお友達や、教会員で高齢となり、礼拝に出席できない方を訪問して、収穫礼拝でささげた果物等を差し上げるのでした。幼稚園の場合は、日曜日ではなく週日に収穫感謝礼拝をいたします。礼拝後は、いつもお世話になっている警察や消防署をお訪ねし、職員の皆さんに差し上げていました。神様のお恵み、収穫を感謝することは、自分の存在にお恵みが与えられていることを示されることなのです。大きな存在のお導きを常に示され、神様の御心に従いつつ成長することを願っています。

 今朝は「謝恩日」です。伝道者として、牧師として働いた皆さんです。その職務を終えて隠退しています。隠退しても「隠退牧師」と称していますから、牧師になった人は一生「牧師」なのです。その働きを感謝して、年金を定めており、信者の皆さんが献金しては年金の財源を作っているのでした。隠退しても牧師ですから、死ぬまで神様の御心に従いつつ歩んでいるのです。謝恩日献金と共に「100円献金運動」もあります。全国の教会員の皆さんが、月に100円をささげて隠退牧師を支えているのです。

私達は現実を生きている今、その現実がどのような状況でありましょうとも、主イエス・キリストの福音、十字架による救いを与えられているのですから、まさに喜びなのです。その喜びの生活は、十戒の教えを真に受け止めて歩むことなのです。「他の存在」を受け止めて歩むこと、自分を捨て、自分を与えることが主に従う私たちの人生なのであります。救い主に従いつつ歩む人生なのです。

<祈祷>

聖なる御神様。お恵みを感謝いたします。主に従い、主の祝福をいただかせてください。キリストのみ名によっておささげいたします。アーメン。

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