説教「御心を示される人生」

2021年6月20日、六浦谷間の集会

聖霊降臨節第5主日」  

                      

説教・「御心を示される人生」、鈴木伸治牧師

聖書・申命記26章1-11節

   コリントの信徒への手紙<二>8章1-7節      

   マタイによる福音書5章21-26節

賛美・(説教前)讃美歌21・356「インマヌエルの 主イエスこそ」

   (説教後)讃美歌21・510「主よ、終わりまで」

 

 6月も中旬になり、間もなく6月24日を迎えます。一般には何の意味もありませんが、私たちは日本基督教団が発足した日として大事な日であります。すなわち日本基督教団の誕生日でもあるのです。1941年、昭和16年に設立しましたので、今年でちょうど80年であります。私は1939年の生まれですから、2年後に設立されました。その頃は日本は戦争中であり、お国が一つとなって戦うように、国全体の風潮でもありました。それまではいろいろな教派に分かれていましたが、国の指導もあり、一つとさせられたのでした。しかし、その頃、キリスト教の人々は一つとなることを模索していたのであります。その後日本は、これ以上戦争はできないということで、敗戦を求めたのでした。それが1945年であります。日本の敗戦と共に合同教会でありましたが、元の教派に戻る人々がありました。しかし、せっかく一つになったのであるから、このまま合同教会として歩むことを決めたのが今の日本基督教団であったのです。80年間の歩みでありますが、様々な課題と取り組みながら歩んでまいりました。そして、さらに課題を担いつつ歩んでいるのであります。

 私は、この日本基督教団の総会書記として2002年に就任しました。そして2010年までの8年間、書記の職務を担いました。書記は何よりも記録を残すことであり、すべての会議の記録を残し、整理し、歴史を担うことでした。議長、副議長と共に会議を担うことでもありました。大塚平安教会の牧師、ドレーパー記念幼稚園の園長を担いながらの職務であり、大変ではあったと思いますが、単に自分の思いで担っているのではなく、神様のお導きとして担ったのであります。従って、いつも御心を示されつつの歩みであったと思います。聖霊のお導きをいただいていたのであります。

 本日の旧約聖書申命記26章1節から11節は表題に記されているように、「信仰の告白」であります。この申命記は、聖書の人々がエジプトで奴隷の境遇にあり、その苦しみの中から神様によって救い出された後、指導者モーセが神様の導きを示し、今後は神様の御心によって生きるように教えているのであります。すなわち、「信仰の告白」を唱和しつつ歩みなさいということです。旧約聖書において信仰告白とは、歴史の導きを感謝することなのです。エジプトを脱出した聖書の人々は、神様の導く「乳と蜜の流れる土地」であるカナン、パレスチナへと導かれます。この申命記の時点では、まだその土地には入っておらず、目の前にしているのです。これから約束の土地で生きるにつき、あなたがたは信仰告白を繰り返し唱和しつつ歩みなさいと教えているのです。

 「あなたの神、主が嗣業の土地として得させるために与えられる土地にあなたが入り、そこに住むときには、あなたの神、主が与えられる土地から取れるあらゆる地の実りの初物を取って籠に入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所に行きなさい」と示しています。そして初物をささげながら祭司に言います。「今日、わたしはあなたの神、主の御前に報告します。わたしは、主がわたしたちに与えると先祖たちに誓われた土地に入りました」と述べるのです。導かれた土地に住むことの感謝であります。祭司が初物の籠を受け取り、祭壇に供えた時、人々は信仰の告白をするのです。「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました」と歴史を述べ、苦しい歴史でありましたが、神様がお導きをくださり、奴隷の状態から救い出し、「乳と蜜の流れる土地」へと導いてくださったことを繰り返し朗唱するのであります。今、初物ささげるということは、導かれて恵みに生きていることの証しなのであります。それと共に、初物をささげるということは、共に生きる姿勢を神様に示しているのです。

 「あなたはそれから、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前にひれ伏し、あなたの神、主があなたとあなたの家族に与えられる全ての賜物を、レビ人およびあなたの中に住んでいる寄留者と共に喜び祝いなさい」と示しています。レビ人は祭司族として嗣業すなわち収穫するための土地は与えられていません。ただ神様に仕え、そのお仕事をするからです。ここには記されていませんが、人々は十分の一をささげて、レビ族を養うのです。そのレビ族と共に寄留者を覚えなさいということです。やはりここでは省略されていますが、ささげものはレビ族、寄留者、そして寡婦や孤児にもわけ与えられるのです。そのことは今朝の聖書の後、12節から記されています。「十分の一の納期である三年目ごとに、収穫の十分の一を全部納め終わり、レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施し、彼らが町の中でそれを食べて満ち足りたとき、あなたの神、主の前で次のように言いなさい」と示しています。十分の一を納める、それは必要を求めている人々に与えられるのです。

  聖書の人々は恵みの十分の一をささげながら、信仰告白をするのです。今、ここにいる自分を導いてくださる神様は歴史を通してお恵みをくださっているのです。その事実を朗唱しつつささげものをするのです。ささげられた物は恵みに乏しい人々にわけ与えられるのです。旧約聖書の人間の生き方を示されています。

 この旧約聖書の人生観を基本にしながら、主イエス・キリストが教えておられます。マタイによる福音書5章21節からはイエス様による律法の再解釈として教えられています。「腹を立ててはならない」との教えです。これは「昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている」と引用しながら、イエス様が新たなる教えをしているのです。もともと十戒にその戒めがあります。第六戒として「殺してはならない」と示されています。その戒めを示され、「人を殺した者は裁きを受ける」と言われるようになっているのです。しかし、十戒は裁きが目的ではなく、人が良い人生を生きるための指針なのです。裁きを受けるから人を殺すな、という教えになっていますが、そうではなく、良い人生を生きるための戒めなのです。

 この5章21節からの教えの前に、イエス様は律法に関わることを教えておられますので、注意しておく必要があります。それは17節からですが、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と示しています。律法すなわち十戒は廃止するどころか、今のあなたがたの戒めであるということです。律法学者やファリサイ派の人々は律法を中心に生きていますが、表面的な生き方なのであり、真に十戒を受け止めなさい、と示しているのです。それで具体的に律法を取り上げ、どのように十戒から教えられるかを示しているのです。

 このように十戒を全身で受け止め、実践しつつ生きること、それが私達の「生涯のささげもの」なのです。旧約聖書の人々は、神様にささげものをしながら信仰の告白をしました。私達は、私自身を生涯のささげものとして、基本である十戒を守り、隣人と共に生きることが求められているのです。十分の一をささげることは隣人と共に生きるためです。十戒を基本として生きるならば、それが私達にとって十分の一をささげて生きることになるのです。

 以前、日本基督教団世界宣教委員会の幹事をされておられる加藤誠先生からお電話をいただきました。マレーシア・クアラルンプール日本語キリスト者集会のボランティア牧師として、三ヶ月間担ってもらいたいということでした。実はその年の9月10月にスペイン・バルセロナにいる娘の羊子のもとに夫婦で行くことになっており、その時はお断りしました。そのような事情がありますが、その他には、隠退している今、あまり職務を持ちたくないと思っていたのです。時々、諸教会から説教の依頼がありますが、そのようなことでしたら引き受けるのですが、はっきり言えば、牧会を再びするということは、億劫であるとの思いがありました。しかし、連れ合いのスミさんが、「行ってきたら」と勧めてくれましたので、最後の力を振り絞るつもりで、承諾したのでした。今、その時を振り返った時、まさに神様のお導きであると思いました。自分で隠退を決め、だからこれはできないというのではなく、神様のお導きに委ねることが大切なのであります。御心が示されている人生なのであります。

 イエス・キリストは十字架を通して御心を示してくださっています。イエス様の十字架の贖いを示されれば、自分の都合は言うことができないのです。御心を示されていますから、自分のいろいろな都合を考えるのではなく、御心に委ねる人生を歩みたいのです。

<祈祷>

聖なる御神様。お導きを感謝致します。御心のお示しのままに歩ませてください。主イエス・キリストによっておささげします。アーメン。

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