説教「救い主と共に」

2022年11月20日、六浦谷間の集会

「降誕前第5主日

                      

説教・「救い主と共に」鈴木伸治牧師

聖書・サムエル記下5章1-5節、

   コリントの信徒への手紙<一>15章20-28節

   ルカによる福音書23章35-43節

賛美・(説教前)讃美歌21・386「人は畑をよく耕し」

   (説教後)讃美歌21・535「正義の主イエスに」

 本日は11月の第三日曜日であり、いくつかのことを覚えながら礼拝をささげています。まず、本日は「収穫感謝日」であります。他の国でも収穫祭がおこなわれています。日本の教会が「収穫感謝日」としているのは、アメリカが第四木曜日に「収穫感謝祭」を行っているので、11月の第三、または第四日曜日を「収穫感謝日」として礼拝をささげています。神様が私達にお恵みを下さっているので、私たちが日々の歩みを導かれているのです。使徒言行録14章16節以下には、「神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです」と示されています。まさに神様は自然の恵みを通して、私たちを導いてくださっているのです。人間はその恵みを思うことなく、これは自らが植え、育て、収穫したと思っています。しかし、あの小さな種粒から、どうして芽が出てくるのか、その自然の神秘を探ることはできないのです。神様が自然の神秘を導いてくださっているのです。収穫感謝日には教会の皆さんが果物、野菜等を持ちより、聖壇付近に飾り、これはまさに神様のお恵みであることを感謝しつつ礼拝をささげます。

 本日はまた「謝恩日」とされています。謝恩とは、長年牧師として歩まれた皆さんが、隠退されて過ごされていますが、隠退された教師、またご遺族への感謝をあらわす日にもなっています。私自身も隠退教師になっています。牧師はもともと信徒でありました。神様に召されて教師、牧師になりますと死ぬまで教師の身分になります。隠退しても隠退教師なのです。

 さらに、今朝は「終末主日」であります。来週の11月27日からは早くもアドベントになります。主イエス・キリストがこの世に到来するのを心から待望するのです。今年のクリスマス礼拝は12月25日であります。 本日は11月の第三日曜日、いくつかの意義を示されながら、「救い主と共に歩む」喜びの人生を示され、祝福の歩みを導かれたいのであります。

 旧約聖書ダビデイスラエル国家の王様に選任されたことを記しています。サムエル記下5章からであります。聖書の国イスラエルは、もともと王国ではありませんでした。神様を中心とする12部族の宗教連合体でありました。従って、各部族の長を中心にそれぞれが歩んでいたのです。しかし、周辺の国々に悩まされておりました。その時、現れたのが士師と言われる人たちです。ギデオン、サムソンという士師が現れて、苦難にある人々を救ったことが士師記に記されています。そういう中で、我々も王国になる必要があるとして、祭司サムエルに王を立てるように申し入れるのです。そして、最初に立てられたのがサウル王でした。サウル王は当初は神様の御心をもって国を治めていましたが、次第に自分の思いで国を治めることになるのです。それで、神様はサウルではなく、ダビデを王として選任します。ダビデが選任されても、現実にはサウル王がいます。ダビデはサウルの家来として働くのです。そのサウル王が戦いで死にました。その子どものヨナタンダビデとは親友の仲ですが、彼も戦いで死んでいくのです。こうしてダビデには敵対する者がいなくなり、全イスラエルの王様に選任されたのであります。それが今朝の聖書です。ダビデは長老たちから油を注がれます。「油を注ぐ」ということは、救い主として選任することであります。油注がれた者は指導者となりますが、神様の御心により人々を指導するのです。神様の御心による指導ですから、良い歩みが導かれるということであります。「油を注ぐ」との言葉は「メシア」であります。メシアは良き指導者、救い主であります。従って、「メシア」は「油を注ぐ」と言う意味ですが、「救い主」との意味に変わっていったのであります。ダビデは30歳で王となり、40年間王様でした。ダビデはまさにメシアでした。いつも神様の御心を人々に示したのであります。そのため、後の世の人々が、苦しい時代にあって、再びダビデが現れることを待望するようになりました。それがメシア待望になったのであります。本当の喜びを持って歩む希望を求めるようになったということです。その本当の喜びはイエス・キリストによって実現したのであります。

 11月第三日曜日は終末主日であり、主イエス・キリストが十字架上で死ぬ状況が新約聖書の示しであります。マタイによる福音書は、東の国の占星術の学者たちが、都のエルサレムにやってきて、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と言いながら探し歩きました。実際のヘロデ王は穏やかではありません。自分が王であるのに、新しい王が現れたとは、いったいどういうことか。学者たちはイエス様にお会いしますが、ヘロデ王には生まれた場所を告げずに帰って行きます。イエス様は王様として現れましたが、それはまた待望していたメシアの出現でありました。人々はイエス様の教えに驚き、また喜び、受入ました。まさに「楽園に生かされる」喜びが与えられたのです。しかし、一部には「ダビデの子よ」と呼びかける人がいますが、そういう呼び方をするのは危険でもあるのです。「ダビデの子」は王としての存在であるからです。救い主ではないか、と人々は思いながらも口には現すことができません。人々はイエス様により、驚くべき奇跡を体験し、心を揺さぶる御心の示しをいただくのですが、メシアとしての確信が持てなかったのであります。「楽園に生かされる」確信ができなかったということです。

 時の指導者の妬みによりイエス様は十字架にかけられました。ローマから派遣されている総督ピラトの命令により、十字架には「これはユダヤ人の王」と書いた札が掲げられていました。占星術の学者たちも総督ピラトも外国人であります。外国人がイエス様を「ユダヤ人の王」と呼んだのでありました。主イエス・キリストはこの世に現れ、神様の御心を示し、苦しい状況にある人々をお救いになりました。差別を受けて生きる人々が多くいました。病にある者、社会の底辺におかれる人々、イエス様は社会の人々から除外されている人々と共におられたのであります。主イエス・キリストが十字架に架けられて死ぬのは、時の指導者達の妬みによるものですが、神様は救いようのない人間をお救いになるために、むしろイエス様が十字架で死なれることを御心とされたのでありました。すなわち、主イエス・キリストの十字架の死と共に、人間の奥深くにある罪、自己満足、他者排除をイエス様の十字架の血により贖われたのであります。私たちは十字架を仰ぎみるとき、私の罪をイエス様が贖ってくださったと信じるのであります。そして十字架を仰ぎ見ることにより、イエス様が私のすべてを受け止めてくださっていることを知るのです。イエス様は自分の命により私達に本当の喜びをもって生きる道を与えてくださいました。私たちはイエス様により永遠の命へと導かれているのであります。

11月も下旬になる頃、知人の皆さんから喪中のご挨拶をいただいています。以前は、知人のご家族、特にご両親とか、祖父母の方がご逝去され、新年のご挨拶はご遠慮するということでした。しかし、最近は、私のような年齢になると、知人の方の喪中なのでした。ご家族の方からお亡くなりになられたことをご連絡いただくのでした。

 先ほども触れましたが、今朝は「収穫感謝礼拝」としてささげています。この日は、教会によっては与えられているお恵み、果物や野菜を礼拝堂の前、聖壇に置き、感謝しつつ礼拝をささげるのです。幼稚園でも収穫感謝礼拝をささげていました。やはり、その日は果物なり、野菜を一品持参し、聖壇に置き、神様のお恵みとして感謝するのでした。礼拝後は教会学校のお友達は、病気で休んでいるお友達や、教会員で高齢となり、礼拝に出席できない方を訪問して、収穫礼拝でささげた果物等を差し上げるのでした。幼稚園の場合は、日曜日ではなく週日に収穫感謝礼拝をいたします。礼拝後は、いつもお世話になっている警察や消防署をお訪ねし、職員の皆さんに差し上げていました。神様のお恵み、収穫を感謝することは、自分の存在にお恵みが与えられていることを示されることなのです。大きな存在のお導きを常に示され、神様の御心に従いつつ成長することを願っています。

 今朝は「謝恩日」です。伝道者として、牧師として働いた皆さんです。その職務を終えて隠退しています。隠退しても「隠退牧師」と称していますから、牧師になった人は一生「牧師」なのです。その働きを感謝して、年金を定めており、信者の皆さんが献金しては年金の財源を作っているのでした。隠退しても牧師ですから、死ぬまで神様の御心に従いつつ歩んでいるのです。謝恩日献金と共に「100円献金運動」もあります。全国の教会員の皆さんが、月に100円をささげて隠退牧師を支えているのです。

私達は現実を生きている今、その現実がどのような状況でありましょうとも、主イエス・キリストの福音、十字架による救いを与えられているのですから、まさに喜びなのです。その喜びの生活は、十戒の教えを真に受け止めて歩むことなのです。「他の存在」を受け止めて歩むこと、自分を捨て、自分を与えることが主に従う私たちの人生なのであります。救い主と共に歩む人生なのです。

<祈祷>

聖なる御神様。お恵みを感謝いたします。主に従い、救い主と共に祝福の歩みを導いてください。キリストのみ名によって。アーメン。

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