説教「救い主の到来」

2021年11月28日、六浦谷間の集会

「降誕前第5主日」       

                      

説教・「救い主の到来」、鈴木伸治牧師

聖書・イザヤ書51章4-11節

   テサロニケの信徒への手紙<一>5章1-11節

   マルコによる福音書13章24-37節

賛美・(説教前) 讃美歌21・231「久しく待ちし」

   (説教後) 讃美歌21・540「主イエスにより」

 

 早いもので本日は11月28日、待降節第一週になります。年末という思いが深まってまいります。今週から12月になりますが、「師走」とも称しています。「師走」とは、年末になって仏教のお坊さんが走り回ることから言われるようになったということです。仏教ではお盆やお正月に先祖の霊が帰ってくると言われています。従って、その前にお坊さんが御経をあげておくということなのです。それは年末になりましても、お坊さんがあちらこちらの家を回るということでもあります。学校の先生が走り回るという意味もあるそうです。年末にあたり、先生が家庭訪問をして、生徒の成績や成長ぶりを家庭に報告して回ることから来ているというのです。そのように示されると、キリスト教の牧師も「師走」なのかもしれません。12月になるとクリスマスの月ですから、その準備に追われます。また、年末にあたり教会員を訪問することも多いのです。クリスマスの準備はもちろん教会の皆さんと共に準備をするのですが、やはり牧師はいろいろなことを示されながら準備に当たるのです。

 このような意味合いのある「師走」を迎えていますが、今年は本日から待降節アドベントに入りました。クリスマスを待望する日が始まったということです。前週の11月21日は教会の暦では「終末主日」と申しまして、世の終わりを示されたのであります。キリスト教の暦の終わりであります。従って、本日はキリスト教の暦では始まりの日となるのであります。その意味では新年ということになります。新しい思いを持って主イエス・キリストの出現を待望するのです。 

 今朝の旧約聖書は南ユダの人々がバビロンに捕われの身になり、バビロンで希望もなく生きている状況であります。希望と力をなくしている人々に神様の御心を示し、希望と喜びを与えているのが今朝のイザヤのメッセージであります。今朝の聖書、イザヤ書51章3節、「主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とする。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」と示しています。シオンは故郷の都エルサレムであります。バビロンの侵攻で都は破壊されています。廃墟と化しています。しかし、神様はその廃墟をエデンの園とすると示しているのです。エデンの園は創世記の最初に記される楽園であります。アダムとエバが自由にのびのびと過ごしたところであります。神様は荒れ地をすべて平和な園とすると示しているのです。そのエデンの園のようになった都にあなたがたは帰るのですよと励ましているのであります。「わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を傾けよ。教えはわたしのもとから出る」と示しています。もう一度、神様の教え、戒めをいただき、真に従うことを諭しています。

エデンの園に帰るには、今の歩みが神様により、祝福の歩みとならなければならないのであります。そのままの姿で、ただエデンへの希望を持つのではなく、何よりも今の自分が神様のお心にあって正されなければならないのであります。エデンの園に導かれると言った時、今の姿で導かれることはないということです。一般的にも天国、極楽は善人であり、良い人生を生きた人が迎えられると思われているのではないでしょうか。仏教の葬儀はお経をあげ、極楽の世界に送り出すという、生きている者の努力が必要です。聖書の世界でも、楽園に導かれるためには、御心に生きることが大切なことであると示しています。7節、「わたしに聞け。正しさを知り、わたしの教えを心に置く民よ。人に嘲られることを恐れるな。ののしられてもおののくな」と励ましています。人間を恐れることなく、悪に対する審判を与える神様を恐れなさいと教えているのです。「彼らはしみに食われる衣。虫に食い尽くされる羊毛にすぎない。わたしの恵みの業はとこしえに続き、わたしの救いは代々に永らえる」と言われるのであります。

 奴隷の人々をエジプトから導き出した神様は、再び奴隷となっているバビロンの国から、人々を導き出すのであります。出エジプト、出バビロンは神様の変らない導きなのであります。出エジプト十戒を与えられました。今、出バビロンでは預言者イザヤを通して神様のお心を示しているのです。この状況の中で、まず神様の御心を聴くということです。私たちは神様を仰ぎ、救いの御業、主イエス・キリストの十字架を仰ぎ見ることが、私たちの歩む道なのであります。私の歩みは終末をしっかりと受け止め、主イエス・キリストの到来を待望することなのであります。

 今朝の聖書、マルコによる福音書13章24節以下が今朝のテキストになっています。「人の子が来る」との表題になっています。「人の子」とは主イエス・キリストであります。イエス様が再び来られる日について教えています。しかし、その日はいつであるかは示されていません。終末のときには再びイエス様が来られて、祝福される人々を集めると言われています。26節、「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使達を遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」と示されているのです。32節、「その日、その時は、だれも知らない」のであります。神様だけが御存知であることを示しています。だから、目を覚ましていなさいと教えているのです。人間は自然の変化を読み取ることができます。聖書に記されるように、「いちじくの枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近いことがわかる」と言われています。

「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰ってくるのか、夕方か夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたにはわからないからである」と示しています。

クリスマスに主イエス・キリストがお生れになり、成長して十字架の贖いにより人々をお救いになりました。それは今から2千年前の出来事です。聖書はこのクリスマスを示しながら、再びイエス様がこの世に現れることを示しているのです。それは12月25日ではありません。いつであるのか、何億年後なのか、明日なのか分からないのです。だから、いつイエス様が再び現れても良いような歩みをしなさいと教えているのが今朝の聖書です。神様の御心をいただいて生きると言うことです。イエス様の十字架の贖いを信じて、救いの喜びを持ちつつ生きることが、今の私達でなければならないのであります。

今朝は待降節第一週であり、一本のローソクに火を灯します。救い主の到来が近づいたので明るくなったことを示しているのです。次週は二本のローソクに火を灯します。毎週、ローソクの火が増えてゆき、四本のローソクになるとクリスマスになるのです。日々、備えをもってクリスマスを待望することが大切であります。大塚平安教会に在任の頃、待降節が始まりますと教会の大掃除をしていました。クリスマスを迎える準備であります。大掃除と共にクリスマスの飾りつけをするのですが、窓には青年の皆さんが作ったステンドグラスを窓に付けるのでした。青年たちがセロファンで、きれいに、上手にクリスマスに因んだ図柄を施してステンドグラスを作るのでした。クリスマスが終わるまでの、約一ヶ月の間、ステンドグラスに励まされながらクリスマスを待望するのでした。そして迎えたクリスマスであり、祝会では皆さんが持ち寄ったごちそうをいただきながらお祝いしていました。新しい教会になって、みんなで作ったステンドグラスが使えなくなってしまい、残念であると思います。教会では別な形で待降節を歩んでいるのです。

示されたいのは、今は救い主の到来を待望しているということです。しかし、特に日本の国はクリスマスの真の意味を知らないままに、もう今からクリスマスの気分になっています。豪華なイルミネーションのクリスマスツリーを喜び、街を歩けばクリスマスソングが流れ、もうクリスマスの思いにもなってしまうのでした。しかし、クリスマスの本当の喜びは救い主、イエス・キリストの到来なのです。その救い主の到来はまだであるということです。ですから、今は救い主の到来を心から待ちわびる時なのです。キリスト教の国では、やはりクリスマスの飾りつけをしています。イエス様がお生まれになった場所、馬小屋や生まれたイエス様が寝かされたという飼葉桶等が飾られています。しかし、その飼葉桶にはイエス様がいないのです。まだクリスマスになっていないからなのです。そしてクリスマスになりますと、その飼葉桶にはイエス様が存在するようになるのです。クリスマスは喜びでありますが、今は喜びを待望するということです。

<祈祷>

聖なる御神様。イエス様の光の到来を心から感謝いたします。救い主の到来を心から待望させてください。主イエス様のみ名により、アーメン。

noburahamu2.hatenablog.com