説教「執り成しの祈りをささげつつ」

2018年9月30日、六浦谷間の集会 
聖霊降臨節第20主日

説教・「執り成しの祈りをささげつつ」、鈴木伸治牧師
聖書・出エジプト記32章7-14節
    ヘブライ人への手紙6章4-12節
     マルコによる福音書14章43-52節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・214「北のはてなる」、
    (説教後)讃美歌54年版・316「主よ、こころみ」


 早いもので、今朝は9月の最終主日であります。10月は記念する日が続きます。第一主日は世界聖餐日・世界宣教の日であります。第二主日は神学校日・伝道献身者奨励日であります。第三主日は信徒伝道週間、教育週間であります。そして、10月31日は宗教改革記念日であります。これらは記念暦と言い、一つのことを記念しつつ礼拝をささげるのであります。一つのこと、例えば神学校日であれば、神学校の存立、そこで学ぶ学生、さらに献身者が与これらえられるように祈りつつ礼拝をささげるのであります。
 記念暦はそれぞれの教会にも独自にあります。例えば、教会創立記念日であります。教団の記念暦には入っていませんが、それぞれの教会が独自にプログラムをもっています。の記念暦に対して、教会暦があります。教会暦は主イエス・キリストの歩みに従って定められているのであります。すなわち、クリスマスはイエス様の降誕日であります。12月25日と定められています。そして、最初にやってくる教会暦は公現日・栄光祭であります。これは1月6日と定められています。いくつかの言い伝えがあります。栄光祭は東の国の博士達が、お産まれになったイエス様にお会いした日であるということ。従って、この日からキリスト教が世界の人々に示されたということであります。公現日後は四旬節(レント・受難節)となり、40日間、主イエス・キリストのご受難を仰ぎ見つつ歩むのであります。特に受難週には主イエス・キリストの十字架の救いをはっきりと示されます。そして、イースターとなります。主イエス・キリストの復活をお祝いします。復活したイエス様は40日間、お弟子さんや人々にご復活の体をお示しになるのであります。そして、昇天日になります。イエス様の復活日から40日後になります。昇天日は主イエス・キリストが天にお昇りになりますので、10日後のペンテコステまで、この地上は神様がお留守となるわけです。そのためにもイエス様は、お弟子さん達に、心を合わせてお祈りするように導かれたのであります。イエス様のご復活から50日後、ペンテコステ聖霊降臨日となります。聖霊降臨により、弟子達並びに人々は聖霊の導きにより歩むことになりました。三位一体の神様のお導きをいただきながら終末主日へと歩み、そこで教会の暦が終わることになり、今度は待降節として新しい暦の歩みが始まるのであります。
 今日は教会暦や記念暦の歩みについて示されましたが、このような暦を覚えつつ歩むということは、私たちがいつも「主にあって生きる」ためなのであります。教会暦や記念暦に励まされながら、特に記念歴は「執り成しの祈り」でありますので、いろいろな取り組みを覚え、祈りつつ歩むことを示されるのであります。

 旧約聖書出エジプト記モーセが聖書の人々の罪に対し、審判を与えようとしている神様に執り成しのお祈りをささげています。聖書の人々はエジプトという国で奴隷でありました。苦しむこと400年と言われています。その奴隷の苦しみから救うために、神様はモーセという人を選び、その任にあたらせました。今朝の出エジプト記の前半は救いの出来事を記しています。モーセがエジプトの王様ファラオに対して、奴隷の人々を解放するように交渉しますが、王様は承諾しません。モーセは神様の力をいただき、エジプトに災害の審判を与えます。水が血に変わったり、いなごの大群、疫病、雹を降らせたりします。災害で苦しい時は、解放を承諾しますが、災害が無くなると心を翻し、再び過酷な労働を強いるのでありました。ついに最後の審判が降ります。エジプトにいる人々で最初に生まれた人は死ぬということであります。その審判により王様のファラオは解放を承諾します。聖書の人々はようやく奴隷から解放され、エジプトを脱出するのであります。
 エジプトを脱出した聖書の人々は三月目にシナイ山の麓に到着し、そこで宿営することになりました。シナイ山モーセがエジプトで苦しむ人々を救う使命を与えられた山でありました。そこでモーセは聖書の人々が奴隷から解放されたことを報告するためにシナイ山に登りました。シナイ山は2,285mの高さです。
 聖地旅行は致しましたが、エジプトに入り、シナイ半島をバスで行きます。そしてシナイ山に登るのですが、夜中の2時頃に出かけました。暗くてよく分からないのですが、麓からラクダに乗り、山道を登って行くのです。ラクダはすいすいと山道を登って行きました。最後は険しい道で歩かなければなりません。ついに山頂につきますが、まだ暗く、何も分かりません。しかし、周囲で話し声が聞こえます。かなりの人たちが既に山頂にいたのです。やがて東の空から太陽が出てきますと、またたく間に明るくなりました。赤い山々が見渡すことができました。そして下山は歩いておりました。こんな険しいところをラクダがすいすいと歩いてきたかと思うと、何かぞっとする思いでした。昼間でしたらラクダに乗っていても怖くて登れないと思いました。モーセが一歩一歩険しい道を登って行ったことが示されるのでした。
 モーセシナイ山に登ると神様は十戒を示されました。そして、戒めに関していろいろな示しを与えられたのであります。モーセシナイ山に登ったまま、なかなか降りてこないので、聖書の人々は不安になりました。今まではモーセという力強い指導者に従ってきたのです。今朝の聖書は出エジプト記32章7節からですが、1節以下にモーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、人々がアロンのもとに集まってきて、「さあ、我々に先だって進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」というのであります。アロンはモーセの兄ですが、モーセと共に出エジプトの働きをした人です。アロンは人々の要求を受けとめざるを得ませんでした。実際にモーセという指導者がいなくなってしまったからです。それにより金の子牛が造られました。つまり金の子牛がモーセに変わり、人々の先に立って進むことになったのであります。人々は金の子牛の前で踊り戯れたと記されています。
 そこで今朝の聖書になりますが、偶像礼拝を始めた聖書の人々に神様は怒りをあらわします。すぐに下山するようにモーセに言いました。偶像崇拝を行う人々に対し神様は審判の言葉を告げるのです。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼしつくし、あなたを大いなる民とする」と宣言されるのであります。それに対して、モーセは執り成しのお願いを致します。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼしつくすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思いなおしてください」と切なるお願いをするのであります。このモーセの切なる執り成しの祈りにより、「主は御自分の民にくだす、と告げられた災いを思いなおされた」と記されています。
 神様の御心を変えることはできないでありましょう。しかし、聖書はモーセの切なる執り成しの祈りこそ、神様の御心を変えることを示しているのであります。執り成しの祈りということではアブラハムの執り成しが示されます。アブラハムの甥のロトが住むソドムの町が悪に染まり、神様はこのソドムの町を滅ぼすことにしました。神様の御使いがソドムに赴く途上、アブラハムは神様の御使いを引き止めてもてなします。その時、神様の御使いはソドムの町は滅ぼされることを告げます。ソドムには甥のロトと家族がいますので、アブラハムは執り成しの願いを致します。「もし、そこに50人の正しい人がいたらどうしますか」と聞きます。50人の正しい人がいれば赦すと言われます。アブラハムは次第に少なくし、最後は「10人の正しい人がいたら」と問います。10人正しい人がいれば赦すと言われるのです。しかし、アブラハムの執り成しにも関わらず、ソドムには10人の正しい人がいなかったのです。結局、ソドムの町は滅ぼされてしまうのでした。
 聖書には執り成しの祈りがいろいろな状況の中で示されています。神様の審判を当然受けなければならないのですが、切なる執り成しの祈りをささげることにより、救いの道が開かれてくることを示しているのであります。

 執り成しの祈りをささげておられるのは主イエス・キリストであります。今朝の新約聖書はイエス様が裏切られ、逮捕されることが記されています。今朝はマルコによる福音書14章43節以下でありますが、前の部分32節以下に「ゲッセマネで祈る」イエス様が示されています。そこで、イエス様は、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように祈られています。そして、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られたのであります。神様にすべてをゆだねておられるのです。この主イエス・キリストの姿が「執り成しの祈り」なのであります。主イエス・キリストの十字架は、人間の罪を贖うためであります。人間はどうしても自分で自分を救うことはできません。自分の中にある自己満足、他者排除を克服することができないのであります。そこで神様は主イエス・キリストを十字架で死ぬことを御心とされました。イエス様が十字架で血を流しつつ死ぬことにより、人間の奥深くにある罪なる姿をも滅ぼされたのであります。「御心に適うことが行われますように」との祈りこそ執り成しのお祈りでありました。
 今朝のマルコによる福音書には記されないのですが、ルカによる福音書にはイエス様がご自分を苦しめる人々の赦しを祈り求めています。23章34節、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないからです」と祈られました。十字架上のイエス様のお祈りなのです。この言葉は、のちに書き加えられたということですが、イエス様の祈りとして加えられているのであります。主イエス・キリストは十字架につけられて殺されました。それは、私たちの奥深くにある罪なる姿を贖うためであります。神様に執り成しの祈りとして十字架の道を歩まれたのであります。

 イエス様は十字架に架けられつつも、人々の赦しを祈っています。この執り成しの祈りを私たちもささげなければならないのです。新年になると神社仏閣に初詣に出かすける人が多くいます。以前、鎌倉に行きました。丁度、スペインに在住している羊子と彼のイグナシオさんが一時帰国しているときでした。鎌倉を見物したいというので、お正月中でしたが出かけました。八幡宮は初もうでの人が長蛇の列で並んでいました。一度に階段を上がってお参りするのは危険ですので、階段の手前で整理していました。階段の人々がお参りすると、次の人たちが階段を上がってはお参りしていました。こんなに多くの人たちは何をお祈りしているのでしょう。やはりこの一年、事故もなく、病気もなく、一家安泰、商売繁盛という幸せをお祈りしているのでしょう。この中で、執り成しのお祈りをする人たちはどのくらいいるのでしょう。自分のためではなく、他者のため、日本の国のため、災害にあった人々のためにお祈りしている人々もおられるでしょう。
 キリスト教ではいつも「執り成しのお祈り」がささげられています。礼拝でも司会者が執り成しのお祈りをささげていますが、週報には「祈りましょう」ということで、病にあり、困難な状況の教会員のために、災害にあった人々のために、日本の平和、世界の平和を祈ることを掲げています。教会の皆さんもそれらの祈りの課題をも日々の生活の中でお祈りしているのです。
 娘の羊子が住んでいるバルセロナにもキリスト教の集会が持たれています。バルセロナ日本語で聖書を読む会と言う集いです。毎月、一度ですが集会を開いています。バルセロナに滞在していたとき、私も求められて集会で説教をさせていただきました。その集会は月報を発行しています。毎月、メールで月報を送ってくださっています。その月報には必ず「お祈り」の欄があり、いくつかの祈りの課題が示されているのです。いつも皆さんが「執り成しの祈り」をささげていることを示されるのでした。2013年3月から三ヶ月間、マレーシアのクアラルンプール日本語集会のボランティア牧師として赴きました。専任の牧師がいなくなりましたので、日本基督教団の牧師が順次赴いていたのです。パスポートの有効期間、三ヶ月毎にいろいろな牧師が赴いていたのです。その集会には、もともと集会が始まる頃からかかわっていた中国系の牧師がいました。他の職務を担っていたので、その集会の牧師にはなりませんでしたが、何かと関わっていたのです。その牧師夫妻と「牧師会」を開いていました。昼食を共にいただき、その後は祈祷会をしていました。初めにいろいろな祈りの課題を提供し、順次お祈りしていたのです。そのように「執り成しの祈り」はいつもささげられているのです。キリスト教は常に「執り成しの祈り」が導かれていますが、なによりも主イエス・キリストが私たちのために執り成してくださっているからなのです。
 私たちも「執り成しの祈り」をささげつつ歩ことが導かれていますが、自分が一人の人のことをお祈りしていると同じように、自分もまた人々から祈られているのです。私の存在の原点は、人々の執り成しによって支えられているのです。執り成しの祈りをささげるために、周囲の人々を見つめつつ歩むことでありましょう。祈りが導かれるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。イエス様のお執り成しで救いに与りました。私達も人々のために執り成しの祈りをささげることができますようお導きください。主の名により、アーメン。