説教「愛の人生を歩みつつ」

2020年11月15日、六浦谷間の集会

「降誕前第6主日

 

説教、「愛の人生を歩みつつ」 鈴木伸治牧師

聖書、申命記18章15-22節

   使徒言行録3章11-26節

   マタイによる福音書5章38-48節

賛美、(説教前)讃美歌54年版・217「あまつましみず」

   (説教後)讃美歌54年版・532「ひとたびは死にし身も」   

 

 前週の主日礼拝の主題は「神の民の選び(アブラハム)」であり、人間の救いの始まりを示されたのであります。前々週の主題が「堕落」でありましたから、人間が罪に陥ってしまったことを示されました。しかし、神様は新しい人間を導いて人間の救いを導き、神様の家族へと導くのであります。まずアブラハムを通して、神様の祝福が人間に与えられていることを示しているのです。そして、今朝の主題は「救いの約束(モーセ)」であります。エジプトで聖書の民イスラエル民族は奴隷として生きること400年を経ていました。奴隷となってしまう経緯は、ヤコブの時代から示されなければなりません。全国的に冷害、飢饉がおこり、食料が無くなります。神様の不思議な導きでエジプトの大臣になっていたヨセフは、この飢饉を乗り切っているのです。そこでヤコブの一族がヨセフの招きにより、エジプトに寄留することになります。そのまま寄留しているのですが、時代を経て、聖書の人々がエジプトに寄留している経緯を知らない王様が脅威をもち、奴隷にしてしまうのでした。それからは重い労役で働かされるようになるのです。その苦しみから解放させるために、神様はモーセを選び、奴隷の人々を救い出すのであります。モーセの救いは、人間の救いの原型を示しているのであり、主イエス・キリストの十字架の救いへと導かれていくのです。そして神様の御心に養われる家族へと導くのであります。今朝はそのような救いの歴史の一つに組み込まれている、モーセの意味を示されます。

 旧約聖書は神様のお心を人々に示す存在として預言者といわれる人々がいました。イザヤ、エレミヤ、エゼキエルの預言者が、人々の中で苦闘しながら神様のお言葉を示したのであります。エレミヤは人々に理解されないまま、それでも神様のお言葉を人々に語り伝えたのであります。

今朝の旧約聖書申命記でありますが、モーセに対する神様の示しであります。モーセは神様の導きのもとに、聖書の人々を奴隷から解放した人であります。聖書の人々は、最初の人であるアブラハム、イサク、ヤコブと続きますが、ヤコブの時代にエジプトに寄留することになりました。大変な冷害、飢饉に見舞われ、既に神様のご計画のもとにエジプトで大臣になっていた11番目の子ども・ヨセフの招きにより、ヤコブの一族はエジプトに寄留することになったのであります。そのエジプトでヤコブが死に、ヨセフも死んでしまいます。そして、エジプトに外国の民族、イスラエル人が居ることの経緯を知らない王様の代になります。むしろ、次第に多くなっていく外国人に脅威を感じるようになるのです。それで外国人であるイスラエルの人々を奴隷にしてしまうのでありました。過酷な奴隷の作業で苦しみつつ生きる人々でした。その苦しみの声を神様が受け止め、モーセを立てて人々を奴隷から解放したのであります。申命記は苦しみからの解放を改めて回顧し、救いの意味と今後の生き方を教えているのであります。

モーセは人々を奴隷から解放すること、そして預言者としての使命がありました。モーセはエジプトで奴隷であった人々を連れて荒野の旅を始めるのですが、最初の宿営地はシナイ山の麓でありました。切り立った山々の間にあります。私たちは山のイメージは緑の木々に覆われているということですが、聖書の世界における山というのは、赤茶色の岩が麓から立ち上がっているのです。イスラエル旅行をしたとき、その旅行はまずシナイ山に登ることでしたので、まずエジプトにより、そこからバスでシナイ山の麓を目指すというものでした。ここがシナイ山の麓として示されたとき、ほとんど緑の木がないことが驚きでした。夕食をとり明日の朝は午前2時に起きてシナイ山に登るということでした。暗いうちに起き、ラクダに乗ってシナイ山を登るのです。ラクダに乗って登るのですから、まさに楽でした。しかし、最後は歩いて登らなければなりません。頂上に着きますが、まだ暗いのです。すなわち、そこで日の出を見るための登山計画でもあったのです。東の空が明るくなり、赤い太陽が見え始めますと、瞬く間にあたりが明るくなり、すごいところにいることに気がつくのでした。明るい中をラクダに乗って登ってくることは、怖くてできなかったでしょう。切り立った壁を縫うようにして登ってきたのであります。

聖書によれば、このシナイ山モーセが登ったのであります。そして、神様から十戒を授けられます。今後、神様のお心を持って生きる人々の基本的な戒めであります。シナイ山から降りたモーセ十戒を基本にして、人々の生きる指針を与えました。そして、この申命記モーセが人々に語ったことが記されているとされています。申命記18章15節以下は、神様がモーセに与えた言葉が示されているのです。ここには、預言者が神様によって立てられるという約束が与えられています。モーセのように神様のお心を人々に示す存在を立てるということです。この預言者は、この後、いつの時代にも存在し、人々の生き方を導くのであります。神様は言われます。「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する」と神様はモーセに言われています。まさに神様によって立てられた預言者が、神様のお心を人々に示したのであります。人々は預言者の言葉により強められ、しかしまた、預言者の言葉をおろそかにして困難な状況に立たなければならなかったのでありました。

 今朝の新約聖書マタイによる福音書5章38節以下は、イエス様の預言者としての示しでありました。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と示されています。これは旧約聖書において、モーセが人々に示したことでした。あたかも報復の教えをしているようであります。しかし、これは報復ではなく、こうなることへの戒めなのであります。これは出エジプト記21章22節以下の示しであります。そこにはこのように記されています。「人々がけんかをして、妊娠している女を打ち、流産させた場合、もしその他の損傷がなくても、その女の主人が要求する賠償を支払わねばならない。もし、その他の損傷があるならば、命には命、目には目を、歯には歯をもって償わなければならない」との教えであります。従って、最初から報復を教えているのではなく、むしろ報復されるから気をつけなさいとの教えなのであります。それがいつの間にか報復の教えになっているのです。イエス様はこの戒めの精神を示し、むしろ積極的に他者の行為を受け止めることを示したのであります。そして報復の精神を止めたのであります。右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさいと示しています。打たれても毅然と立つこと、打たれても屈しない姿勢、裁きは神様にあることを示しているのであります。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えておられます。そんなことはできないと、この教えを遠ざけてしまうのではなく、イエス様の基本的な示しを受け止めなければならないのであります。「敵を愛しなさい」との教えは、アメリカのマーチン・ルーサー・キング牧師に受け継がれました。「汝の敵を愛せよ」とのスローガンを持ちつつ、差別に立ち向かったのでありました。

 主イエス・キリストは時の社会の人々から預言者的に受け止められましたが、しかし、単に預言者として受け止めるのでは、神様のご計画である十字架の救いがもたらされないのであります。主イエス・キリストは当時の世界に一石を投じました。十戒、戒律によって生きていた人々に、表面的にしか戒律を守っていなかった人々に、真に内面的に戒律を守るように教えたのであります。そして、十の戒めを二つにまとめました。「あなたがたは神様を愛し、隣人を自分のように愛しなさい」と教えたのであります。人々にとってはイエス様の教えは本当に新鮮なものでした。主イエス・キリスト預言者として神様のお心を示したのではありません。御自分が神様のご計画である十字架の道を歩むこと、そこにこそ真の救いがあることを証されたのであります。従って、福音書で示される主イエス・キリストの教えは、その基が十字架である時、真にわたしに迫る預言者的言葉になるのであります。イエス様の十字架があるから、「敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい」との言葉が迫ってくるのであります。主イエス・キリストは人々が「十字架につけろ」と叫び、そのために十字架の道を歩まれることになりました。ルカによる福音書には、十字架上でのイエス様の祈りが記されています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られているのであります。イエス様の教えを実践できるのは、イエス・キリストご自身が十字架で導いておられるということであります。

 今朝のマタイによる福音書は、山上の説教として人々に教えられました。人々は新鮮な教えとして受け止めたのであります。しかし、人々は新鮮な教えを実践できたでしょうか。新鮮な教えとして示されましたが、実践はできないのであります。真に実践へと導かれるのは、主イエス・キリストが十字架にお架かりになり、私たちを贖ってくださったことを信じることにより、実践する者へと導かれるのであります。主イエス・キリストの十字架の救いをいただいているからこそ、語られたイエス様の言葉が、いつも生き生きと迫ってくるのであります。そこに「愛の人生を歩みつつ」が導かれてくるのであります。

<祈祷>

聖なる神様。イエス様の十字架の救いへとお導き下さり感謝いたします。教えを実践しつつ歩ませてください。イエス・キリストの御名によりお祈りします。アーメン。

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