説教「導きに委ねつつ」

2020年11月8日、六浦谷間の集会

「降誕前第7主日

 

説教、「導きに委ねつつ」 鈴木伸治牧師

聖書、創世記13章10-18節

   ガラテヤの信徒への手紙3章1-6節

   マタイによる福音書3章7-12節

賛美、(説教前)讃美歌54年版・225「すべてのひとに」

   (説教後)讃美歌54年版・525「めぐみふかき」   

 

今朝は11月の第二日曜日でありますが、前週の第一日曜日は、日本基督教団は「聖徒の日」(永眠者記念日)として定めていました。前任の大塚平安教会時代は、この日を召天者記念礼拝としていました。教会の創立以来、50名くらいの召天された皆さんの写真を飾り、皆さんのお証を示されながら礼拝をささげたのであります。この世の人生を偲ぶということ、一時的なこの世の人生は旅路でございまして、私たちはこの旅路をどのように歩み、喜びを持って終わるのか、それが課題であります。その示しとして、今朝はアブラハムの人生を示されるのであります。

人生そのものが旅でありますが、この世に生きる者として、やはり旅をすることは喜びであります。ただいまは新型コロナウィルス感染予防のため、一時は非常事態宣言が出され、遠方への外出が禁止されました。毎年、観光でにぎわっていた場所は、訪れる人もなく、閑古鳥が鳴いていたというわけです。日本では、徐々に解放されつつあり、今はGO-TOとかで、旅行が奨励されるようになりました。どこの国の人々も同じですが、旅行をすることは何よりの楽しみなのです。今まで、家の中に閉じこもっていたのですが、今は解放され、次第に観光地を訪れる人が多くなっています。日本は、感染予防が緩和されつつありますが、外国では大変厳しいようです。非常事態宣言が発令されたままの歩みであるのです。旅を好む私たちであり、また人生を思うとき、人生の旅路を示されるのです。日々、普通の生活をして過ごすことが人生の旅路であります。この普通の生活の旅路が祝福されることが私達の願いなのであります。

今生きている状況を神の国と信じて生きること、それが私たちキリスト者の生き方なのです。私たちは主イエス・キリストの十字架の贖いをいただいています。十字架を仰ぎ見つつ生きるとき、私たちに関わってくる様々なことを受け止め、苦しいには違いない、悲しいには違いない、しかし、主に導かれている者として、現実を受け止めて生きることが神の国を生きる者なのです。この現実を主が共に歩んでくださっているのであります。召天された皆さんはイエス様に導かれて、この世の人生を力強く生きた人々でありました。

 12章1節で神様はアブラハムに言われました。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」と示されました。アブラハムは神様の導きに委ねて歩みだしたのです。「わたしが示す地」と言われましたが、その土地がどんなところなのか、何も知らずに神様のお言葉に従ったのでありました。アブラハムが神様のお言葉に従ったのは、彼が75歳のときであるといわれます。その時、アブラハムは妻サラと共に甥のロトを連れて旅たったのでした。

 旅をするうちにもアブラハムもロトも多くの財産を持つようになります。アブラハムがたくさんの家畜を持つようになると、ロトもまたたくさんの家畜を持つようになっていました。それで家畜の世話をする雇い人たちが、何かといざこざを起こすようになりました。それで二人は分かれて住むことにしたのでした。それが今朝の聖書であります。今朝の聖書の前の部分、13章8節で、「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで分かれようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう」とアブラハムは甥のロトに言いました。そこでロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一体は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡す限りよく潤っていたのでありました。ロトはその地域を選びアブラハムと別れたのであります。アブラハムは甥のロトによい土地を選ばせ、自分は良い土地とも思えないカナン地方に住むことになったのであります。しかし、ロトが選んだ土地は潤っており、繁栄をもたらすような土地でありましたが、それだけにそこには落とし穴があったということです。潤った土地には、既に人々が住んでおり、発展していました。発展するということは悪徳も発展していたのであります。悪徳栄える町として、神様はこのソドムの町を滅ぼし、ロトの家族を救出するのであります。その物語は後に記されることになります。

 アブラハムは神様の導きをいただきました。アブラハムの生きる姿勢は、黙々と神様に従うことでした。何も分からない将来へ、神様が導くままに従ったのです。その姿勢は、せっかく与えられたイサクでありますが、神様はイサクを犠牲のささげものにしなさいと命じるのです。犠牲のささげものは祭壇で焼き殺すことであります。その時のアブラハムの思いは記されませんが、彼はやはり黙々と神様の命令に従うのであります。その姿勢が神様に受け止められ、イサクはささげなくてもよいことになります。神様のお導きに従うアブラハムでありました。

 さらにアブラハムは、神様がロトの住むソドムを滅ぼすと示されたとき、一生懸命に執り成しをいたします。もし、そこに50人の正しい者がいればどうしますかと聞きます。50人いれば滅ぼさないといわれます。アブラハムはだんだんと数を減らし、10人の正しい人がいたらどうしますか、と問います。10人いれば滅ぼさないといわれますが、結局は10人もいなかったのであります。ロトと妻、そして二人の娘以外は皆、悪人であったということです。そして、アブラハムの切なる執り成しの祈りがありましたが、ソドムは滅ぼされたのでありました。このような執り成しの祈りも神様のお導きに従うことでした。創世記はアブラハムが導かれている人生をしっかりと受け止め、よい人生を歩んだことを記しているのであります。

 今朝の新約聖書もこのアブラハムを証しています。マタイによる福音書3章はヨハネについて示しています。このヨハネは、主イエス・キリストが現れる前に登場し、イエス様を証しながら、人々を教え導いているのであります。3章4節によると、ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物にしていたということです。当時の世界でも、異様な風俗であったようです。そのバプテスマのヨハネのもとに都エルサレムばかりではなく、国中の人々が集まって来たと記されています。集まってきた人々にヨハネは言うのです。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造りだすことがおできになる」と厳しく言っております。聖書の人々は歴史を通してアブラハムが語りつがれていました。先祖のアブラハムは神様から祝福され、我々をよい民族にしてくれたというわけです。アブラハムが神様に祝福されたのであるから、今の我々も神様から祝福をいただいている、と信じていたのであります。「我々の父はアブラハムだなどと思ってもみるな」とヨハネは厳しく言います。アブラハムは大体紀元前2000年代の人です。新約聖書の時代において西暦が始まっていくのですが、その当時の人たちにしても2000年も前のアブラハムが語りつがれていたということです。このような考え方、あるいは思い込みに対してバプテスマのヨハネは言ったのであります。「我々の父はアブラハムだなどと思ってもみるな」、つまりアブラハムアブラハムであり、あなたがたはあなたがたであると言うことです。アブラハムが祝福された、だから我々も祝福されているとの考えは、極めて短絡的であるということです。あなたがたはアブラハムではない、だから自分の生き方に責任をもつべきであり、あなた自身が神様に祝福される生き方であるかということです。

 バプテスマのヨハネは一人ひとりが真に神様に悔い改めることを導きました。あなたがたもアブラハムの一人であると示しています。あなたもアブラハムが神様のお導きに委ねたように、お導きを喜びつつ歩むということなのです。

 前週には久しぶりに陸前古川教会から週報が送られてきました。いつも送ってくださるのは長谷川さんという方ですが、しばらく週報が送られてきてなかったのです。体調がよろしくなくて送る作業ができなかったということでした。週報を拝見しながら、改めて昨年の春に陸前古川教会を訪問したことを思い出していました。昨年の3月17日の日曜日に陸前古川教会の礼拝にて説教をさせていただきました。そして、その日の午後からは娘の羊子のピアノリサイタルを開かせていただいたのです。そのため家族全員、そして羊子の家族も一緒に古川を訪問したのでした。我が家の子供たちも古川で過ごしましたので、懐かしい訪問でした。礼拝には多くの皆さんが出席してくださいました。40年前に陸前古川教会の牧師として務めたのですが、その頃、中学生、高校生であった皆さんが、今は結婚され、お連れ合いと共に出席されたのでした。羊子のピアノリサイタルにも多くの皆さんがお出でくださいました。新聞にも取り上げられました。その古川訪問は昨年の春のことであり、いつも話しているのですが、もし今年であったら実現できなかったということです。本当に、良い時に訪問することができ、昔の皆さんと共にお交わりができたことを思うと、神様のお導きであったと示されています。そして、古川時代のを思い起こすことでも、神様のお導きを示されるのでした。私の80年間の人生を振り返るとき、神様の大いなるお導きを示されるのであります。お導きの神様に委ねて歩みたいのです。

<祈祷>

聖なる御神様。イエス様の十字架のお導きを感謝いたします。お導きをいただく人生を喜びつつ歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン。

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