説教「人生の指針を与えられる」

2017年3月26日、三崎教会
「受難節第4主日

説教・「人生の指針を与えられる」、鈴木伸治牧師
聖書・出エジプト記24章3-8節
    マタイによる福音書17章1-8節
賛美・(説教前)讃美歌21・300「十字架のもとに」
    (説教後)504「主よ、み手もて」


 今朝は2016年度の最後の日曜日であり、この一年の締めくくりであることを示されています。今までは隠退牧師として歩んでいたのですが、昨年10月から横浜本牧教会の付属幼稚園の園長に就任しましたので、あっと言う間に、3月を迎えることになったという思いでいます。横浜本牧教会は9月に牧師が退任しました。その後、代務者を立てて歩むことになったのですが、代務者になった人は幼稚園まで担えないというので、私が園長に就任しました。実は、この横浜本牧教会は2010年4月から9月まで、私が代務者、幼稚園の園長を担いましたので、今回の牧師の異動につきましてもお手伝いすることになりました。昨年の6月まで、横須賀上町教会の礼拝説教、聖餐式を担当していました。同教会の先生がまだ補教師なので、聖礼典を執行できないからでありました。その先生が正教師になりまして、もはや私の務めは終わりになりました。ところが横浜本牧教会の牧師が9月で退任することになり、10月から同教会付属の幼稚園園長を担うことになったのです。
 私は2010年3月に大塚平安教会を退任しました。そして、2011年6月には隠退牧師になりました。しかし、隠退したものの、長年、日曜日になると説教を担当する習慣が抜けきらず、どこの教会でお話をするのではありませんが、土曜日には説教が作られていました。それで、説教が作られているし、牧師と信徒がいるのだから、と言う訳で、夫婦で礼拝をささげるようになったのです。ですから、今は第二日曜日に横浜本牧教会で説教をさせていただき、隔月ではありますが、こちらの三崎教会でも説教を担当させていただいています。その他は六浦谷間の集会として、夫婦で礼拝をささげているのです。この様な自分の人生を振り返ったとき、私の人生に指針が与えられており、その道が常に導かれていることを示されているのです。
「人生の指針」は、はっきりとわかる状態で、その道を歩む場合もありますが、暗中模索しているような状況で、気がついたら、「人生の指針」を歩んでいたということもあるでしょう。自分の名前を示されながら歩む場合もあります。私も時々、自分の名前の意義を示されることがあります。自分の名前の意味を親から聞いたことはありませんが、自分なのに励まされているのです。私の名前は「伸治」ですから、「伸びることを治める」という意味合いであり、一つのことを伸ばして生きることであると示されているのです。その意味では、隠退してもなお御言葉に向かう姿勢が与えられていると思います。幼稚園の子供たちの名前をいつも示されていますが、今は「太郎」さんとか「花子」さんという名はありません。耳で聞いても可愛い名前が多くなっています。
実は、こちらでもピアノの演奏をさせていただいた娘に、先月の2月12日に男の子が与えられました。生まれる前から、男の子であるから名前を考えてほしいと言われていました。私は、クリスマス物語に登場するヨセフさんを好ましく思っていましたので、「ヨセフ」さん的な名前を歩考えました。そうしましたら、バルセロナには「ヨセフ」の名前が大変多いということでした。サグラダ・ファミリア教会はヨセフ財団が建設を始めましたので、ヨセフさんが多いと云ことでした。カトリック教会はマリアさんを基とする教会が多いのですが、サグラダ・ファミリア教会はヨセフさんを基とする教会でありました。それで「ヨセフ」ではなく「ヨシヤ」にしたのでした。旧約聖書に登場する、正しい王様でありました。ヨシヤを日本語で現す場合、「義」と「也」で「義也」としたのでした。「義」という字は「羊」の下に「我」を書いています。「羊のように美しく、正しい人になる」と言う意味になるのです。そのような子供に成長して欲しいと願っています。
人生の指針は神様の御心に生きるということであります。今朝は御言葉に向かう人々が、人生の指針を与えられて、祝福の道を歩んだことを示されているのであります。

 神様を仰ぎ見、神様のお心に養われる人生が祝福の人生なのであります。今朝の旧約聖書は人々が神様の言葉を守り、行うことを告白しているのであります。旧約聖書には、モーセという指導者が現れています。聖書の人々がエジプトで奴隷に生きており、それも400年も苦しみの歩みでした。それで神様はモーセを選び、奴隷の人々を脱出させたのでした。そのことは旧約聖書出エジプト記に記されています。奴隷の国から脱出した後、モーセは神様の御心を人々に読み聞かせるのであります。モーセが神様の言葉とすべての法を人々に読み聞かせたとき、人々は皆、声を一つにして「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います。守ります」と答えたことが今朝の聖書の示すところです。この告白が、聖書の人々の「人生の指針」として、たえず目標として存在するのです。「神様のみ言葉に従う」こと、それが祝福の人生であること、人生の指針であると示しているのです。
 聖書の人々はエジプトの国で奴隷として生きること400年であります。もともと聖書の人々はカナンに住んでいましたが、全国的な飢饉が訪れ、食べることに窮することになりました。その飢饉を生き抜くために、神様はヤコブの子供、ヨセフをエジプトに導いていたのです。ヨセフは夢を解く不思議な力を持っていました。最初は兄達の妬みで、奴隷として売られていくのですが、夢を解く力が王様にも及ぶのです。エジプトの王様の見た不思議な夢を解くことにより、ヨセフは王様に次ぐ大臣になりました。ヨセフの指導でエジプトにはたくさんの食料が蓄えられるようになりました。そして、飢饉が訪れ、ヤコブの一族が買出しにやってきました。そこで兄弟たちとの劇的な再会がありました。そして、ヤコブの一族はエジプトに寄留することになるのです。しかし、その後、ヨセフのことを知らない王様が、自分の国に他所の国の者が住んでいることに懸念を持ち、奴隷にしてしまうのであります。苦しみの生活が始まったのです。その苦しみに対し、神様はモーセを指導者として、聖書の人々をエジプトから脱出させたのでありました。モーセの使命は二つの内容があります。一つはエジプトからの脱出であり、もう一つは神様の御言葉により養われる人々へと導くことでありました。それが今朝の示しであります。
 エジプトを脱出した人々はシナイ山の麓に宿営します。そしてモーセは神様の招きによりシナイ山に登っていくのでした。そのシナイ山で神様は十戒を授けたのであります。これは人間が生きるに必要な基本的な戒め、守ることでありました。十戒出エジプト記20章に記されています。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と示されています。そして、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と戒めています。第一戒から第四戒までは神様を敬うことが教えられています。そして、第五戒から第十戒までは人間関係における教えであります。「あなたの父母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」「欲しがってはならない」というものです。これらは当たり前のことなのですが、神様は当たり前のことが守られない人間を知っていたのであります。私たちもこれらの戒めは普通の生活をしていれば当たり前のことでありますが、やはりどこかでこれらの戒めを犯すことがあるのであります。改めて十戒をしっかりと受け止めたいのであります。
 十戒を示したモーセは、その後神様から示されたこととして、いろいろな戒めを与えています。それは出エジプト記20章22節以下から始まる「契約の書」というものであります。神様のお心をいただいて生きる者は、神様と契約の関係にあり、その契約を守りつつ生きるのであります。まず、聖書の人々が奴隷であったことから、奴隷についての戒めが与えられています。それが23章まで示されているのです。そして今朝の聖書になります。「契約の締結」とされています。つまり、これまで示されてきた戒めに対して、人々が応答すること、戒めに従う姿勢を示すことでありました。「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と告白したのでありました。このことにより、神様は聖書の人々を養い、導くのです。人々は示された戒めを行い、守ることによって祝福の人生へと導かれるのであります。そして、この後、聖書の人々に求められることは、神様のお言葉を行うのか、行わないのか、守るのか、守らないのかということでありました。

 神様が示された人間の基本的な生き方、十戒の戒めをしっかりと持ち続けること、それが祝福の人生であることは、新約聖書におきましても普遍的に示されているのであります。今朝の新約聖書は「イエス様の姿が変わる」と題されていますが、「山上の変貌」として重要な示しなのであります。
 「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」と最初に記されています。「六日の後」とは、前の部分に示されている弟子達の信仰告白であり、イエス様が十字架への道を歩むことをお示しになってからのことであります。十字架への道が主イエス・キリストのご栄光であることを示しているのであります。高い山に登ると、イエス様の姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなったということです。弟子達が驚きつつ見ると、そこにはモーセとエリヤが現れ、イエス様と語り合っていたというのです。するとペトロは、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのためです」と言うのでした。すると光り輝く雲が彼らを覆ったのであります。そして雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と神様の声が聞こえたのであります。弟子達はこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れたのでありました。それは一瞬のことであり、恐れている弟子たちにイエス様が声をかけたのでありました。
 この山上の変貌は十字架の道を歩むイエス様の勝利の姿であると示されます。まさにその通りでありますが、モーセとエリヤの出現が山上の変貌を意味深く示しているのであります。モーセもエリヤも昔の存在でありますが、モーセ十戒を与えられ、人々に神の言葉として教え導いた人であります。神の戒めを示す存在でありました。そしてエリヤは神様の御言葉を人々に示す預言者であります。預言の言葉は力となり、人々に神様の御心を示したのでありました。モーセは現実の生きる道を示し、エリヤは預言、希望を与えているのです。イエス様がモーセとエリヤと話していたということは、主イエス・キリストが現実を導き、祝福への道を示しているということであります。そして、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と言われたことは、主イエス・キリストが私達の現実を導き、「人生の指針」を与えてくださっていることを示しているのであります。
 このことは主イエス・キリストがはっきりと言われています。マタイによる福音書5章17節、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と述べています。戒律の社会であります。モーセの時代から十戒と掟、すなわち戒律を守りながら生きてきたのであります。その戒律を完成するためであるというのです。人々は確かに戒律を守りながら生きています。しかし、イエス様はここで問題提起をしています。本当に戒律を守りながら生きていますか、との問いであります。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな、人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」(マタイによる福音書5章21節〜)。人々は「殺すな」の戒め、これは十戒でもありますが、守っていると思っています。普通の生活をしていれば、誰も殺すことはありません。だから自分は戒律を守っているということになります。それは表面的な戒律の守り方なのです。イエス様は目に見える姿で守るのではなく、心で受け取る、全身で守ることを教えているのであります。「人生の指針」を示しているのであります。

 聖書に親しみつつ歩む事を願っています。幼稚園を卒園する子供達には聖書を贈呈しています。そのまましまっておく子供、しかし、聖書をもって教会にくる子供がいます。「人生の指針」常に携えて歩んでほしいと願っています。聖書を配布する運動をしている人々がおります。中学生、高校生、大学生に聖書を贈呈しています。それは学校に贈呈を申し込み、公立学校でも申し入れを受け止めてくれる学校があります。看護師の皆さんにも贈呈しています。またホテルの各部屋においてもらっていることもしています。贈呈された聖書が、どれだけの人々に読まれているか、疑問視する人がいますが、いるのです。贈呈された聖書を読み、自殺を思いとどまったと聞いています。希望が与えられた人もいるのです。人生の指針が与えられたと言われる方もいるのです。
 聖書が自分にあるということ、「人生の指針」があるのです。前任の大塚平安教会時代、関係施設の綾瀬ホームで聖書の学びをしていました。その綾瀬ホームで働いていた人が退職したのですが、その人と電車の中でばったり出会いました。その人が言いました。「綾瀬ホームで礼拝があり、先生のありがたいお話がありましたが、すいません、何も覚えてはいません。しかし、礼拝で聖書をみんなで順番に読んだことだけは忘れられません。なんかそれだけで力になっているのです」言われたのです。「人生の指針」がその人と共にあることを示されたのでした。私達には「人生の指針」、神様のお導きがあることを心に示されつつ歩みたいのです。時には、埃だらけの聖書に触ってみる、それだけで力が与えられるのです。「ぱたぱた信者」と言われます。聖書は日曜日に、教会に行くときだけ、埃をはたいて持参する、それだけでも「人生の指針」になっているのです。
<祈祷>
聖なる神様。主イエス様の十字架の救いは、私達の「人生の指針」です。この指針をいただきながら、力強く歩ませてください。主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。