説教「祝福への道を歩む」

2017年3月19日、六浦谷間の集会  
「受難節第3主日

説教・「祝福への道を歩む」、鈴木伸治牧師
聖書・ヨブ記1章1-12節
    ペトロの手紙<一>4章12-19節
     マタイによる福音書16章13-28節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・136「血しおしたたる」
    (説教後)533「くしき主の光」


久しぶりに幼稚園を卒園する子供たちに、卒園証書を渡しながら祝福のお祈りをいたしました。昨年の10月から横浜本牧教会付属の早苗幼稚園の園長に就任しました。それまでの牧師・園長が退任したので暫定的に担うことになったのです。3月は卒園式があり、45名の卒園生に祝福のお祈りをして送り出したのでした。前任のドレーパー記念幼稚園時代は30年間、祝福のお祈りをしては子供達を送り出していたのです。卒園証書を渡しながら、卒園生の頭に手を置き、「神様を愛し、人々を愛する人になりますように」と祝福のお祈りをするのです。今年は45名の卒園生に祝福のお祈りをいたしました。何回か練習をしましたが、子どもたちも上手に祝福のお祈りを受けていました。その卒園生に対するお話しは前週の説教で紹介しています。小学校に入ると勉強するので頭が重くなります。その重くなっていく頭を支えるのは心なのです。イエス様の御心をいただいている皆さんは、いつも重い頭を皆さんの心が支えるでしょう、とお話をしました。実際、勉強で重くなる頭は、右に傾き、左に傾くのです。それが「いじめ」になることもあるのです。重い頭を支えるのは心ですが、その心も小さくなっていきます。そのために教会と幼稚園で聖書・讃美歌を卒園記念品として贈っています。これからは教会学校に出席しましょうと励ましますが、保護者の応援がなければ続かないということです。
私は母の応援があったからこそ、今でもキリスト教の中にいるのです。私が昔の日曜学校に出席し始めたのは小学校3年生の秋頃かと思われます。母が日曜学校に私を連れて行ったのです。母が日曜学校に私と共に行ったのは、お礼の為でした。母はその年の5月6月ころは病院に入院していたのです。ある日、見知らぬ子どもたちが病室を訪ねてくれました。そしてお花をいただいたのでした。「早く良くなってください」と言われたのでしょう。近くの教会の教会学校の子供たちであったのです。だからこの日は、6月の第二日曜日の「こどもの日・花の日」という日であったと思います。キリスト教の教会は6月の第二日曜日をそのような行事を行っています。母が入院していた頃と言えば、日本の敗戦後の3年くらいです。その時にも、既にこの行事が行われていたのです。母は花の日の子供たちのお見舞いは心に深く示されたのでした。そして、その後、退院するや教会にお礼に行ったのです。それと共に、私をその日曜学校に連れて行ったのでした。自分の子供も人様に喜んでもらう人になってもらいたいと思ったのです。「これからは子供を出席させますから、よろしくお願い致します」と言っているのです。私の意思ではなく母の願いであったのです。それからは日曜日になると日曜学校に送り出されたのです。3年生は途中からでありましたが、4年生、5年生、6年生には精勤賞をいただいていました。小学校の行事以外では休むことが無かったのです。母の励ましがなければ続かないことでした。
子ども達が教会学校に出席するのは保護者の励ましが必要なのです。受難節第三週を歩んでおります。今朝のマタイによる福音書16章24節に「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と主イエス・キリストが示しています。「自分の十字架」とは、苦しみを担いつつ歩むことでありますが、その苦しみは主イエス・キリストを信じて生きるが故に苦しみがあり、困難が伴うことでもあります。信仰における困難な歩みでありますが、必ずしも信仰におけるということばかりではなく、自分の身体の状況の苦しみもあります。ヨブ記で示されますように、何だかさっぱりわからない苦しみの現実ということもあります。やはり、自分の十字架ということになるのであります。その十字架の救いを信じて歩むことが、「祝福への道を歩む」ことなのです。 

 旧約聖書ヨブ記に登場しますヨブは、考えられない苦難に出会います。彼は正しい人で、神様を畏れ、悪を遠ざけて生きていました。7人の息子と3人の娘が与えられ、羊7千匹、らくだ3千頭、牛5百くびき、雌ロバ5百頭の財産があり、使用人も大勢いたのであります。彼は東の国一番の富豪であったと聖書は紹介しています。その彼が苦難に生きることになるのであります。ヨブ記の最初の部分は苦難の意義が記されています。ある日、神様の前に天使たちが集まります。神様はサタンに言うのです。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を恐れ、悪を避けて生きている」と言うのでした。するとサタンは神様に反論します。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」と言うのです。神様はサタンに「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな」と言われるのです。それでサタンはヨブに苦難を与えるのであります。旧約聖書におきましては、サタンは天使の存在であり、神様のお許しのもとに人間に苦難を与えるのです。
 ヨブは愛する10人の子どもを失います。さらに、豊かな財産もすべてなくなってしまうのであります。どん底に突き落とされたヨブであります。しかし、ヨブはサタンが思っていたように神様を呪いませんでした。「わたしは裸で母の体を出た。裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と告白するのです。サタンはヨブの全身に皮膚病を与えます。陶器のかけらで体中をかきむしりながら、「わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸をもいただこうではないか」と告白したのでありました。どんなに苦難のどん底に生きようとも、神様を信じて生きるヨブの姿を示しているのであります。
 ヨブ記は最初に苦難に生きるようになったヨブを示し、その中でも信仰に生きるヨブを示しています。そのヨブを三人の友人が見舞いに来ます。見まいに来たものの、三人の友人は、ヨブがこのように苦難に生きるのは、ヨブが悪いことをしたからだと言い、悔い改めを迫るのです。しかし、ヨブにとっては身に覚えのないことです。昔の因果応報的には考えられないのです。ヨブと三人の友人との論争が中心となります。しかし、最後には神様が登場します。そして、ヨブ自身、罪はないと主張していますが、人間として罪の中にいることを悟るのでした。
 苦難と信仰、苦難と人生を考えるとき、苦難を取り去るために信仰があるのではありません。苦難に生きながらも、信仰を持って生きることなのです。信仰があるから恵みに満たされ、幸福になれるというのではありません。信仰が幸福の目的ではありません。信仰が苦難からの脱却ではありません。信仰に生きるとは、喜びのときはもちろんですが、苦難にあっても神様を仰ぎ見つつ生きることなのです。その信仰の人生が永遠の生命への祝福に導かれるということなのであります。そのために、私たちは自分の信仰を問わなければならないのであります。

 主イエス・キリストはお弟子さん達に信仰を問うています。マタイによる福音書16章13節以下であります。イエス様はお弟子さん達に「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と尋ねました。弟子達は、「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。他に、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」と答えました。洗礼者ヨハネはイエス様のすぐ前に現れた人です。後は昔現れた偉大な預言者と重ねているのです。すると、イエス様は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねました。「あなたはメシア、生ける神の子です」とペトロが答えました。「あなたは救い主です」とペトロは告白したのであります。もともと漁師であったペトロでありますが、イエス様に招きの言葉をいただき、イエス様に従うことになりました。まさに、この方はメシアであると信じたのであります。他の11人の弟子達も同じでありましょう。しかし、彼らの信じているメシアは主イエス・キリストが救い主として現れたこととは違うことでありました。メシアは救い主であります。その救い主は権威ある方であり、力があり、まさに世を救い、社会を救う方であるのです。要するに王様のような権威と権力の存在でもありました。
 お弟子さん達の信仰を問い、告白を受け止めたイエス様であります。だから、御自分の救い主としての道順をお話になりました。「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」のであります。この道順を救い主が歩むことを示したのであります。すると、ペトロはイエス様をわきへお連れして、いさめ始めたのであります。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」とペトロは力を込めて言いました。イエス様は振り向いて、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」とペテロに言われたのであります。ここにペトロ達、お弟子さん達の救い主観と主イエス・キリストの救い主の道がはっきり違うことが示されるのであります。弟子達は極めて人間的な救い主の希望であります。この世を平和に導く王としての救い主でありました。イエス様の救いとは、十字架への道なのであります。時の指導者達の妬みにより十字架に掛けられることになりますが、神様は人間がどうしても克服できない原罪を、イエス様の十字架によって取り去る方向をお作りになったのであります。
 そのように極めて人間的な思いの救い主告白をお弟子さん達から聞きました。しかし、それでもイエス様はその信仰告白を受け止め、告白を祝福されたのでありました。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」とイエス様はペトロを祝福するのであります。極めて人間的なペトロでありますが、次第にイエス様の真の救い、十字架と復活の信仰へと導かれていくのであります。イエス様の救いは苦難を通して実現されるのです。その苦難に与ることが救いの道なのであります。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と主イエス・キリストは言われました。自分を捨てるということ、それは自己満足を捨てるということであります。自分の思いを超えて、主イエス・キリストの示された、「自分を愛するように、隣人を愛する」ことであります。自分を超えなければ、他者の存在を受け止めることはできません。自分を超えることにより、不都合なことを担わなければなりません。それが自分の十字架なのです。自分の十字架を担いつつ主イエス・キリストに従うことが、私たちの信仰の人生なのです。

 子ども達にお話しをするキリスト教例話集に「キリストを負う者」というお話があります。オフェロという大変力の強い人がいました。彼は世界で一番強い人に仕えたいと思っていました。それで都に出て、王様の家来になりました。力の強い彼は戦いに出ては手柄を立てるのでした。その戦勝祝いの席で、みんなが歌を歌いました。その歌の中に、何回か「悪魔」という言葉が出てくるのですが、その度に王様は暗い顔をするのです。おびえているように見られました。それでオフェロは王様の家来をやめて、今度は悪魔の家来になりました。悪魔の家来ですから悪いことをいっぱいします。人々はオフェロを嫌い、誰も相手にしなくなったのです。悪魔と一緒に歩いていると、悪魔が怖がるものがあることを知りました。それは悪魔が教会の屋根の上にある十字架を見るときです。そうか、悪魔も適わない人がいるのかと思いました。そして、キリストの家来になろうと、キリストを捜すのです。人の行き来が多い、川の渡し場で仕事をしながらキリストが来るのを待つことにしたのです。渡し場では人を肩に乗せて向こう岸まで行く仕事です。ある夜、雨が降り、渡しの仕事もお休みになっていました。ところが、その雨の中を一人の少年が、どうしても向こう岸に行かなければならない大事な用があるので、渡してもらいたいというのです。こんな少年なんだから、軽く行かれると思い、少年を肩に乗せ、水嵩が多くなっている川を渡り始めました。しかし、少年は次第に重くなってきて、また激しい川の流れに足をすくわれそうにもなりました。ようやく向こう岸に着いたとき、へとへとになって岸辺に倒れてしまいました。「こんなに重い人は初めてだ」と言うオフェロに、「そうでしょう。わたしは世界のすべての罪と苦しみを背負っているのですから」と言われたその人がイエス様であったのです。その時からオフェロはすべての罪と苦しみを担うイエス様の僕となり、信仰と奉仕に生きたということです。
 主イエス・キリストは重い存在なのです。すべての人の罪と苦しみを担っているからです。私がイエス様に従うということは、すべての人の罪と苦しみを共に担うということであります。私に与えられた十字架であります。私の前にいる存在を受け止めることが、現実の十字架であります。私の十字架はイエス様の救いに関わり、祝福の道であるのです。
最初に早苗幼稚園の卒園式のことをお話ししました。キリスト教主義の幼稚園を卒業する子どもたちは、イエス様の御心をいただいますので、重くなっていく頭をしっかりと心で支えているのです。「祝福への道を歩む」ことは、ひと時の喜びを得ることではありません。永遠の命に至るまで、祝福の道を歩む事なのです。その祝福の道は主イエス・キリストの十字架の救いを信じて歩むということなのです。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架による救いを与えてくださり感謝いたします。さらに祝福への道を歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。