説教「とこしえの喜びをいただく」

2017年3月12日、横浜本牧教会
「受難節第2主日

説教・「とこしえの喜びをいただく」、鈴木伸治牧師
聖書・イザヤ書35章5-10節
    マタイによる福音書12章22-32節
賛美・(説教前)讃美歌21・295「見よ、十字架を」
    (説教後)579「主を仰ぎ見れば」


横浜本牧教会の付属であります早苗幼稚園の園長を担うようになって、早くも半年になっています。6年前に代務者と幼稚園の園長を担いましたとき、すごく長い期間であった思いです。僅か半年でありましたが、洗礼者が与えられ、葬儀も行われ、いろいろな取り組みを担ったものですから、とても長く感じられたのでした。そして、今回、幼稚園の園長を担わせていただき、気がついたらもう3月であったということです。10月に園長に就任しましたので、まあ3月までであろうと思っていました。ところが教会の牧師が決まらないので、もう少し園長を担うことになり、半分は喜んでいます。やはり幼き子どもたちと共に過ごすこと、何とも喜びであります。朝、子どもたちの登園を迎えるため、入口に立っています。みんな元気に「おはようございます」と挨拶をしてくれます。中には小さい身体で私にハグをしてくれるのです。また、保育のクラスをベランダから見るのですが、私の姿を見つけるなり、「エンチョーセンセー」と大きな声で呼んでくれるのです。子どもたちは喜びを与えてくれる存在であることを示されます。
 この時、イエス様が言われた言葉が示されてきます。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」との示しです。まさに子どもたちと共に過ごすことは、神の国を示されるのです。幼稚園でも3月16日には卒園式を行い、45名の子供達を送り出します。卒園式の時に、いつもお話していることを、紹介しておきます。「皆さんは、いよいよ小学校1年生になります。学校に行くのは勉強をするためです。国語、算数、その他、いろいろな勉強をします。すると、皆さんの頭の中は、いろんな勉強が入るので、重くなります。2年生になれば、もっと勉強が頭に入りますから、もっと重くなるのです。そして、中学、高校、大学で勉強すると、凄く重い頭になります。頭が重くなると右に傾くことがあります。あるいは左に傾きます。傾くのは、悪い姿になることもあるのです。そこで、頭が傾かないようにするには、心を大きくしなければならないのです。重い頭を支えるのは心なのです。心を大きくするのはどうすれば良いのでしょう。実は、皆さんの心は、もう大きくなっています。イエス様のお心が皆さんの心に詰まっているからです。『お友達を愛しましょう。一緒にすごしましょう』とイエス様が教えてくださいました。皆さんの心は大きくなっているので、勉強で重くなっても、右にも左も傾かないでしょう。しかし、心は今は大きくても、だんだんと小さくなっていきます。風船を膨らませても、だんだんと縮んでしまいます。私たちの心をいつも大きくしなければなりません。イエス様のお心をいつもいただくことが大切なのです。これからは教会学校に出席して、皆さんの心をイエス様の御心によって大きくしてください」とお話ししていました。
 イエス様の御心が私達の希望なのです。希望をもって生きることが私たちの願いです。その希望が現実になることが喜びです。私たちが持つ素朴な思いであります。以前は綾瀬市に住んでいましたので、相鉄線の電車を利用していました。時々、電車の中に掲げられていた広告を見て、ほほえましく思いました。相鉄線には「希望ヶ丘駅」がありますが、二俣川駅から湘南台駅まで延長されることにより、途中の駅に「ゆめが丘」という名の駅ができました。それで「希望ヶ丘」から「ゆめが丘」の切符を記念として売り出すのです。切符というよりは飾り物として販売しているのでした。希望と夢、人々が常に求めているものですが、私たちにとって希望とは主イエス・キリストによって「とこしえの喜びをいただく」ことなのです。

 希望を持って日々の生活をしています。しかし、現実の生活は希望とはかけ離れた生活となっていると思っている方もあるでしょう。希望はあるが、現実は苦しみであり、悲しみであるという方もおられるでしょう。しかし、その苦しみと悲しみの現実に、主が希望を与えてくれることを示しているのが今朝の旧約聖書イザヤ書35章であります。この35章は32章から聖書の国ユダの回復が記されていますが、締めくくりとして35章が記されているのです。背景的には聖書の人々がバビロンに捕われて暮らすこと約50年でありますが、その終わり頃ということであります。50年も捕われの身分で生きているのですから、希望もなく夢も無い状況であります。しかし、苦しみが増し加われば加わるほど、悲しみが募れば募るほど、主なる神様に希望を持ったのが聖書の人々でありました。33章2節以下は記しています。「主よ、我らを哀れんでください。我々はあなたを待ち望みます。朝ごとに、我らの腕となり、苦難のとき、我らの救いとなってください」と祈っています。聖書の人々がバビロンに滅ぼされ、捕われの身になるのは、神様の御心に従わなかったからであります。神様ではなく、人の力により頼んだのであります。バビロンが脅威であれば、エジプトに助けを求めました。人間の力により頼み、活路を見出そうとしたのでした。あるいは神ではない偶像に心を傾け、自分達の思いを偶像に投げかけたのであります。神様のお心を求めない聖書の人々に対する審判がバビロンによる滅亡でありました。従って、希望を持つということは、主の御心に自分を変えるということなのであります。御心により頼んで生きるということが希望の基となるのであります。今、神様に希望を持つように示すのがイザヤであり、エレミヤであり、他の預言者たちでありました。
 「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る」と示しています。レバノンは緑の山脈であり、カルメル山も恵みの山であります。そしてシャロンレバノンとカルメルの間にシャロンの豊かな平野が存在します。旧約聖書の雅歌2章1節に「わたしはシャロンのばら、野のゆり」と記されています。シャロンのばら、美しいばらの花が咲くシャロンの平野を示すのであります。シャロンとは憩いの場であり、平和の象徴でもあるのです。
 私の姉はシャロンという逗子にある洋服家さんで働いていました。もともと十字屋ストアーでしたが、名前を変えることになり、店員に名前を募集しました。姉が「シャロン」の名称を提示して採用されたのでした。シャロンとは憩いの場であり、心が休まる緑と花の平野であるのです。もはやその店はありませんが、一時期、逗子の町にシャロンがあったことを意味深く思い出しています。
 バビロンで苦しみつつ生きている人々にレバノンの栄光、カルメルとシャロンの輝きを示すことは大きな希望に導かれるのであります。「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、畏れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる』」と示しています。聖書の人々にとって、神様が敵をやっつけてくれることが何よりの願いです。詩編を読むと、神様が敵なる者を裁いてくれることを心から願っています。詩編35編4節以下「わたしの命を奪おうとする者は、恥に落とされ、嘲りを受けますように。わたしに災いを謀る者は辱めを受けて退きますように」と祈っています。自分の敵をやっつけてくださいと詩編の詩人達は祈っているのです。現実を苦しめる人間に神様の審判を与えてくださいと祈ります。それにより弱った手に力が入り、よろめく膝が強くなっていくのであります。イザヤは神様の導きを示し、希望に生きるよう励ましているのであります。「とこしえの喜びをいただく」道を示しているのです。

敵をやっつけてください、となると、聖書は仕返しの教えなのかと思います。苦しみの中に生きた聖書の人々の素朴な願いでもあります。しかし、私たちが聖書から示されることは、確かに自分にとって良くない存在がいますが、それ以上に私自身の中にある悪の存在なのです。今朝の新約聖書は真実を曲げようとする自分自身の姿を指摘しています。
 主イエス・キリストのもとに目が見えず、口が利けない人が連れてこられました。イエス様はその人を癒します。目が見えるようになり、口が利けるようになるのです。驚くべき御業を見た人々は「この人はダビデの子ではないだろうか」と言いました。ダビデの子といえば、人々が待ち望んでいる救い主であります。ところがファリサイ派の人々は人々が言っていることを否定しました。ファリサイ派というのは当時の社会で律法を厳格に守って歩んでいる人々であり、社会的にもエリート的な存在でした。「悪霊の頭ベルゼベルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」というのです。目が見えない、口が利けない、それは悪霊に取り付かれていると考える社会です。昔はそのように考えていました。日本でも、病気になると悪霊を追い出す祈祷師に頼んだりしたのです。イエス様はファリサイ派の人々に対し言われました。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも、内輪で争えば成り立たない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ」と言われました。これは説明しなくてもファリサイ派の人々は分かるのです。イエス様の反論にはもう一つのことが言われています。27節で「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」と言われています。ユダヤ教ではラビ的な存在が悪霊を追い出しているのです。それは神様の力を信じての悪霊退治です。従って、イエス様の悪霊退治は問題ないわけですが、ファリサイの人たちは、人々がイエス様を「ダビデの子」と言っていることで批判しているのであります。まさに力ある業を行うイエス様をそのまま受け入れられないのであります。真実を真正面に見ながらも、それを否定すること、そこに問題があるのです。ベルゼブル論争はそこに焦点があるのです。イエス様はこの論争の結論として言われました。「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子にいい逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない。」
 若い時、この聖書の言葉が胸に刺さりました。「聖霊に言い逆らう者は赦されない」と示されていますので、自分は赦されないのではないかと真剣に考え、恐ろしくなったことが思い出されます。「人の子に言い逆らう」とはイエス様に言い逆らい、イエス様がメシアであることを認めなくても赦されると言われているのです。しかし、主イエス・キリストが十字架により救いを完成し、神様のみもとに昇られた後、聖霊が下って教会の時代となりました。その聖霊の導きを否定する者が赦されないとしているのであります。ユダヤ教におきましても、「アブラハムの契約を無視し、聖日を守らず律法を歪曲する者は、来るべき世において赦されることはない」と示されているのです。赦されることを前提に考えるのではなく、赦されない生き方がありますよと示しているのであります。
 目の見えない人が見えるようになり、口の聞けない人が聞けるようになったこと。その御業を示された人々は「この人はダビデの子ではないだろうか」と思ったこと、それは聖霊の導きでありました。ファリサイ派の人々も悪霊退治は見たことがありますが、イエス様の御業は本当に驚いたのであります。だから、人々と共に「ダビデの子、メシアだ」と告白すべきでありました。聖霊の導きがあったのであります。しかし、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と否定したのであります。自分の声に言い逆らったのであります。真実を見ながら真実と言わない姿勢であります。希望が生れないのであります。真実をしっかりと受け止めること、そこに希望が生まれ、喜びが生れてくるのであります。「とこしえの喜びをいただく」ことができるのです。

 先ほど、「教会の牧師が決まらないので、もう少し園長を担うことになり、半分は喜んでいます」と申しました。半分は喜んでいるのですが、ではあと半分は喜んでないのか。「喜んでない」のではないのですが、ちょっと残念な思いがあるのです。丁度、一か月前の2月12日の礼拝説教を務めさせていただきました。そして、その日の夜に、スペイン・バルセロナにおります娘の羊子が出産したというのです。今は便利な世の中で、すぐにメールで写真を送ってくれましたし、退院してからはFaceTimeというインターネットで、画面で動画を見ることができ、喜んでいるのです。送られる写真は、いろいろな皆さんが赤ちゃんを抱っこしてお祝いしてくれています。私達が抱っこしてないのに、ほかの大勢の皆さんが抱っこしているのですから、はっきり言えば面白くないのです。こちらの皆さんからは、「いつ行かれるのですか」と聞かれます。少なくとも、今は行かれないので、それが「半分は喜んでいない」理由なのです。
 生まれる前から、男の子の出産であり、名前を付けてほしいと言われていました。それで「義也、ヨシヤ」にしました。旧約聖書列王記下22章以下に記されるヨシヤ王に因んで命名しました。神様のお心をいつも示されて務めを果たした王様です。そして、日本語で表記する場合、「義」を用いたのでした。「義」は正しいと言う意味ですが、「羊」を書き、その下に「我」を書くことで、「羊のように美しく、正しく生きる」という語源になるのです。母親が「羊子」でありますので、「羊」で結びついているということです。まさに希望の子供であるのです。常に御心をいただく人生であることを祈っています。
 主イエス・キリストは私たちの希望であります。十字架の贖いよって私達を「とこしえの喜びをいただく」人生へと導かれているのです。受難節を歩んでいますが、いよいよ十字架を仰ぎ見つつ、「とこしえの喜びをいただく」人生へと導かれたいのであります。
<祈祷>
聖なる神様。主の十字架の御救いへと導き、とこしえの喜びをいただいています。この喜びを人々に宣べ伝えさせてください。キリストのみ名によってお祈りします。アーメン。