説教「受難をのりこえつつ」

2017年3月5日、六浦谷間の集会
「受難節第1主日

説教・「受難をのりこえつつ」、鈴木伸治牧師
聖書・申命記30章15-20節
    ヤコブの手紙1章12-18節
     マタイによる福音書4章1-11節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・138「ああ主は誰がため」
    (説教後)525「めぐみふかき」


 前週から受難節に入っております。前週の3月1日が「灰の水曜日」です。この日から40日間の受難節が始まりました。「灰の水曜日」というのは、苦しみや悲しみを持つとき、頭から灰をかぶるのです。旧約聖書の時代でありますが、灰を頭にかぶったり、灰の中に座るのは悲しみや苦しみを表すためです。ヨブ記の中にも記されています。義人ヨブが苦しみのどん底に落とされてしまいます。その時、灰の中に座りつつ、神様の御心を示されたのでした。主イエス・キリストの十字架に至る40日前から、イエス様の苦しみ、悲しみを受け止めつつ歩むことがキリスト教の歩みであります。40という数字は、聖書の人々がエジプトで奴隷として生きること400年であり、その後、エジプトを出て荒れ野の40年間を彷徨します。さらに主イエス・キリストは40日間、荒れ野の試練を受けるのであります。40という数字は聖書的には深い意味があるのです。
 灰の水曜日から40日間、主イエス・キリストの十字架の救いを仰ぎ見つつ歩むことです。この40日間なので「四旬節」と言われ、ドイツ語では「レント」と言っています。私たちは「受難節」としての歩みをしていることになるのです。この受難節は主イエス・キリストの十字架のご受難を受け止めつつ歩みますので、なるべく質素な生活を過ごすのです。40日間、おいしいものを食べたり、楽しく騒いではいけないとなると、それでは今のうちに楽しもうということになるのです。従って、灰の水曜日の前、一週間くらいを謝肉祭、カーニバルとして過ごすのです。四旬節の間は肉を食べてはいけないとの慣わしに従うので、今のうちに肉をいっぱい食べ、楽しく過ごしましょうということでカーニバルのお祭りがあるのです。ローマカトリック教会の中で行われた習慣が今に至っても行われているのです。バルセロナカトリック教会では、灰の水曜日礼拝を行い、礼拝出席者には頭に灰をかけられるということでした。
 日本では、謝肉祭はしませんが、主イエス・キリストの十字架を仰ぎ見つつ歩みたいのです。主の十字架には決して及びませんが、生活の中で痛みのある生活をすることが必要であるということです。ある方はこの40日間はコーヒーを飲まないとか、いつもバスに乗っていたのに、歩いて電車の駅まで行くとかにより、イエス様の苦しみに与るのです。その生活を克己の生活と言います。克己の生活でできたお金を克己献金としてささげる方もおられるのです。昔は教団から克己献金袋を送られてきましたが、何時のときからか、なくなってしまいました。人に強いられてするのではなく、自分の生活の中で、自分ができる克己の生活をしつつ、主イエス・キリストの十字架を仰ぎ見つつ歩みたいのであります。主イエス・キリストが誘惑する存在を退け、ひたすら神様のみ心の道を歩みましたように、私達も受難をのりこえて、祝福の歩みを導かれたいのであります。

 今朝の旧約聖書申命記であります。申命記は、原典は「言葉」との題がつけられました。それはモーセが聖書の人々に言葉を語り聞かせたからであります。すなわち、申命記モーセの聖書の人々への説教が語られているのであります。苦しいエジプトの奴隷時代から始まって、神様の導きの故に荒れ野の40年間、海の中を渡り、マナという食べ物を与えられながら歩んできたことは、神様の恵みであると語るのです。そういう意味で題を「言葉」にしてありました。しかし、日本語では「申命記」としています。命を申し渡すという意味合いになります。モーセの説教集でありますから、神様の御心を示されることであります。まさに命を申し渡される書でもあります。
 今朝は申命記30章15節以下の示しであります。「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」と示されています。命なのか死なのか、幸いなのか災いなのか、それはあなたがたの生き方によりますよというのです。「わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える」と示しています。命を得るのでありますが、増えるとも言われています。子孫が増えるということであります。それは最初の人であるアブラハムに約束したことでした。「あなたを祝福し、天の星のように、浜の砂のようにあなたの子孫を増やす」と神様はアブラハムに言われたのでありました。今、モーセも御心に従うならば、命をいただくばかりではなく、子孫も増えると示しているのであります。子孫の繁栄こそ願いなのであります。「もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く」と示すのであります。私たちは命の道を選ばなければならないのです。祝福の道を選ばなければならないのであります。
 主を愛し、御声を聞くとき、私たちは自分の思いを超えなければならないのであります。自分の思いは自分を喜ばすことであり、他の存在を自分の中から消し去ることなのであります。それでは命をいただくことができません。命をいただくとは自分の思いを超えて、ただ御声の導きに委ねることなのであります。今、委ねるということであります。申命記の一つの特色は、「今日」という時間的な示しであります。申命記30章で示されるとすれば、2節「あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば」と言い、祝福されますよというのです。11節「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものではなく、遠く及ばぬものでもない」と示しています。主の御心をいただき、その御心に生きるのは今日であるということです。明日ではないということなのです。今日であり、今という時なのであります。御声、御心は分かっている。それは、いつか、そのうち、いずれまた守りますではなく、今なのです。主のお心をいただいて生きるのは今である、とモーセは聖書の人々に申命記において繰り返し教えているのであります。

 今、命の道を選び、その道を歩むこと、今朝の新約聖書において、主イエス・キリストが実践的に示しております。マタイによる福音書4章1節以下は、イエス様が悪魔、サタンに試みられることが示されます。イエス様はまだ世の人々の前には現れてない状況であります。世に現れる前に40日間の修行をしたのであります。「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」のであります。最初から悪魔との戦いが予定されていました。40日間、昼も夜も断食し、祈りのうちにすごすということ事態が既に悪魔との戦いであったでしょう。孤独、苦しさ、いろいろな戦いがあったのです。そして、その40日間の修行が終わったときに、本格的に悪魔が出てきたのであります。
 最初は「誘惑する者」が出てきます。どのような存在であるかは定かではありません。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」との誘惑です。40日間の断食において、もはや空腹感はないでありましょう。しかし、これから人々の前に赴き、神様の御声を示し、御心を行うとき、やはり力が必要なのです。体力が必要なのであります。その意味でも食べることの誘惑は100%持っていました。パンの誘惑は当然の誘惑でもありました。イエス様はお答えになります。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と答えたのであります。イエス様が引用した旧約聖書の言葉は申命記8章の3節の言葉です。「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」と示されています。人は神様のお心をいただいて生きることが命に至る道なのであります。人は何のために生きるのか、と問われることがあります。ただ、食生活が導かれての人生ではなく、神様のお心により力強く生きることが求められているのです。
 次に、今度は「悪魔」と記されていますが、悪魔はイエス様を聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言うのです。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ちあたることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」というのです。神様が守ってくださるから、この高い屋根の上から飛び降りなさいというのです。その時、イエス様は「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と、やはり旧約聖書申命記6章16節の言葉を引用するのです。この引用は、モーセに導かれてエジプトを出た聖書の人々は、マナの恵みを与えられたばかりでありますが、今度は水がないと不平を言うのです。「我々に飲み水を与えよ」と人々はモーセにせまります。モーセは、「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか」というのです。導きと恵みをいただいてきているのです。そこで、不平を言うということは、神様を試しているのであります。神様が助けてくれるのか、くれないのか、試す必要はないのであります。今の私が恵みに満たされているからであります。神様の導きがあるからこそ、今の私が存在しているのです。この上、不平を言うことは神様を試していることになるのです。その時、飲み水がないと不平を言う人々に、神様は水をお与えになりました。マサ・メリバの水と記されています。「マサ」とは「試す」ことであり、「メリバ」とは「争い」を意味します。マサ・メリバといえば、神様を試すということなのです。イエス様はマサ・メリバを示しながら、神様の導きと恵みをまず感謝することを示したのでありました。
 今度は、悪魔はイエス様を非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言うのでした。国々の繁栄、そこに何があるのか。悪魔にひれ伏しているとはいえませんが、繁栄の陰には人間を犠牲にする要因があります。それは悪魔にひれ伏すことでもあるのです。この誘惑に対してもイエス様は申命記6章13節の言葉をもって答えています。「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」との言葉であります。ここではイエス様が「退け、サタン」と言っています。旧約聖書では、サタンは天使の存在であり、神様のお許しのままに人を試みるのであります。しかし、新約聖書では、サタンは神様に敵対する存在です。誘惑する者、悪魔、サタンを退けた主イエス・キリストであります。
 ところで、ここに登場する悪魔は第三者的に記されていますが、むしろこの誘惑する存在はイエス様の内面的な姿でもありました。これから人々の前に出て行きます。体力が必要であります。神様の絶大なお加護、神様の権威のもとにある保障です。そして、いろいろと必要なものは備えられての姿です。ある意味では人間として、これらの保障のもとに働くならば、さぞ良き働きができると思うのであります。それは極めて人間的な希望なのであります。イエス様はそれらの人間的な保障は一切捨て去って、ただ神様の御心に従ったのであります。主イエス・キリストは命に至る道を、身を持って示されたのです。受難をのりこえられたイエス様を示されています。
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 今朝はイエス様がご受難を乗り越えて、いよいよ人々に現れることを示されました。今朝は受難週の第一主日であり、すでに始まりましたレント、受難節を歩みだしています。イエス様はご受難を乗り超えて歩みだしましたが、むしろ、十字架のご受難に向けての歩みが始まったのであります。今後のイエス様のご受難については、この後のメッセージで示されることになっています。
受難を乗り越えること、それですべてが解決したのではありません。私たちの歩みについては、いつも受難があり、祈りつつ歩んでいるのであります。苦しいこと、つらいこと、悲しいことは、私たちの人生に付きまとっているのです。しかし、私たちはイエス様を信じる信仰により、苦難の渦中にありましても、導かれている喜びを持っているのです。パウロの励ましがあります。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(コリントの信徒への手紙<一>10章13節)と示されています。
 私たち夫婦が結婚式を挙げたとき、知り合いの牧師から祝電をいただきました。「レントのさなか船出する、主の働き人に幸あれと祈る」というものでした。まさに、受難週に歩みだした私たちであり、今までの牧師の歩みが苦しみであったというのではありませんが、やはり、いろいろなことがある中で、受難を乗り越える力を与えられながら過ごしてきたのです。まさに主の十字架のお導きでありました。イエス様の十字架のお導きが、受難を乗り越えつつ歩むことができるのです。
<祈祷>
聖なる御神様。主のご受難により、私たちを命に至る道へと導いてくださり感謝します。いよいよ十字架を仰ぎ見つつ歩ませてください。主の御名によって祈ります。アーメン。