説教「しあわせに生きるために」

2016年2月14日、横須賀上町教会 
「受難節第1主日

説教、「しあわせに生きるために」 鈴木伸治牧師
聖書、出エジプト記17章3-7節
    マタイによる福音書4章1-11節
賛美、(説教前)讃美歌21・297「栄えの主イエスの」
    (説教後)讃美歌21・461「みめぐみゆたけき」


 本日は受難節第一主日であります。前週の2月10日が「灰の水曜日」であり、この日から受難節に入りました。受難節と言うのは、この後にイースター、復活祭を迎えますが、今年は3月27日がイースターでありますが、その前の40日間は主イエス・キリストのご受難を偲びつつ歩むのです。イエス様が十字架に架けられる歩みを示されながら、その十字架こそ私をお救いになる根源であることを示されるのです。ですから受難節の40日間はイエス様のご受難を仰ぎ見つつ歩みますので、生活も質素にしつつ歩むのです。そうなると、人間の本質でありますが、質素な生活になる前に、今のうちに楽しみましょうということになるのです。美味しい肉を食べ、ご馳走を食べ、楽しく過ごすのです。それがカーニバルと言うお祭りになります。キリスト教の国ではカーニバルで賑わいます。今まで三度、バルセロナに滞在しまして棕櫚の主日イースター、クリスマスを経験しましたが、カーニバルの季節にはバルセロナに滞在していませんので、どんな様子なのか、バルセロナに滞在している娘の羊子に聞きました。やはりバルセロナでもお祭り騒ぎであったということです。子どもたちが変装して町を練り歩くということでした。近くにスーパーマーケットがありますが、その店員さんたちも変装して商売をしているということでした。今のうちに楽しみましょう、美味しいものを食べましょうと商売に熱を入れているようです。そして、2月10日の「灰の水曜日」を迎えると、もうお祭り騒ぎがなくなります。質素な生活と言っても、普通の生活をするということです。
 前任の大塚平安教会時代、教会と関係する知的障碍者の施設の嘱託牧師をしていました。週に一度、礼拝をささげていました。利用者の礼拝、職員の礼拝をささげていたのです。利用者の葬儀の司式も結構司っていました。その施設が秋になると模擬店、バザーのようなイベントを開催していました。「秋の収穫祭」と言うような名称でありましたが、ある年は「カーニバル」との名称でした。カーニバルと言えば欧米のお祭りと理解していたようです。それで、職員の皆さんにカーニバルの意味をお話ししたのでした。カーニバルを秋に行うこと、その意味を知っている人は奇怪に思いますよ、とお話ししたのでした。それからはカーニバルとの名称は使わなくなりました。日本でも多くの人は、カーニバルと言えば謝肉祭と言う、お祭りであると理解されていますが、主イエス・キリストの十字架の救いが根源であることは理解されていないようです。受難節を歩む私達は、いよいよイエス様の十字架の救いを仰ぎ見つつ歩みたいのであります。イエス様の十字架の救いは、私達を「しあわせ生きる」者へと導いてくださるのです。

 今朝の旧約聖書出エジプト記17章3-7節であります。出エジプト記は聖書の人々が400年間、エジプトで苦しい奴隷の生活をしており、神様はモーセを立てて奴隷の人々を解放したことが記されています。モーセは神様からご使命をいただいたとき、二つの大きな使命をいただきました。一つは奴隷からの解放であります。神様の大いなる力がモーセに与えられ、ついに解放が実現されました。人々は神様の約束の土地、乳と蜜の流れる土地・カナンへと向かったのであります。それは40年間の荒れ野の旅でした。この40年を通して、モーセは人々に神様の戒めを示し、神様の御旨に従って生きることを示したのであります。真の神様を信じて生きるよう導くことが第二の使命でありました。
 奴隷の国から解放され、喜び勇んでエジプトを出た人々ですが、40年間は常に不平・不満の日々でありました。まず不平・不満が出るのは、食べるものに事欠いてきたときです。それは出エジプト記の16章に記されています。そこで人々はモーセに詰め寄り、「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と言うのでした。その時、神様はマナという食べ物を与え、人々を養うのであります。このような恵みを与えられながらも、さらにまた不平・不満を述べているのが今朝の聖書であります。今度は飲み水がないと言って騒ぎます。人々がモーセに「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは「なぜ、わたしと争うのか。なぜ主を試すのか」と言いました。マナという驚くべき恵みを与えられながら、困難がくるとすぐに不平・不満を言う人々に、モーセは深い悲しみを持ちます。「わたしはこの民をどうすればよいのですか」というモーセに神様は言います。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」
 モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにしました。神様の恵みがここでも与えられたのであります。しかし、この不信仰の人々を記念するためにも、その場所をマサとメリバと名付けたのでありました。マサは「試す」ことであり、メリバは「争い」との意味であります。人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、神様を試したからであると示されています。恵みをいただきつつ歩んでいるのに、困難があれば不平となり、不満を述べること、これは「主は我々の間におられるのかどうか」と言うのと同じであります。まさにマサ・メリバの姿勢であるのです。イスラエルの人々は、エジプトの奴隷から解放された大いなる出来事を思い出さなければなりません。数々の不思議な奇跡があり、その中を掻い潜って導かれてきたのです。さらにマナを与えられ、生活の糧が与えられていたのであります。そこで不平・不満を述べることは、神様の存在を疑っていることでもあるのです。マサ・メリバの人生は神様の恵みと導きを無にしているということです。
 モーセは不平・不満を述べる人々を導き、神様の約束の土地・カナンを前にしたとき、人々を集め、歴史を回顧しつつ総括をいたしました。「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」(申命記8章1節以下)。マサ(試し)は神様がすることであり、人が神様にすることではありません。神様は私たちを力強く生きさせるために、あるときには苦しみを、あるときには悲しみを与えられたとモーセは述べたのでありました。「この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」と神様の導きを示したのでありました。
 神様の恵みを受け止めなさいということが今朝の旧約聖書の主題です。

 旧約聖書の主題を受け止めつつ、新約聖書の示しを与えられています。今朝の新約聖書マタイによる福音書4章1節以下は主イエス・キリストがマサ・メリバではなく、誘惑するもの、悪魔、サタンと戦い、退けた示しであります。イエス様が悪なるものを退けた示しから、私たちも誘惑を退けつつ歩みたいと願うのであります。
 1節「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、『霊』に導かれて荒れ野に行かれた」と示されています。40日間、断食し、祈りのうちに過ごしますが、その後に誘惑する者が現れることは分かっていたのであります。この40日間は修行でもありますが、聖書は誘惑を受けるためと記しているのであります。聖書は前の部分で主イエス・キリストの洗礼を報告しています。ナザレ村で成長し、青年となったとき、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたのでありました。イエス様は神の子であるのに、罪の悔い改めの洗礼を受けるのは何故かと問われます。「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」とイエス様は言われています。イエス様は一人の人間として現れたのであります。人間であれば、罪の方向を持つ存在であるのです。一人の人間であれば、当然誘惑もあるのであります。そして、早速誘惑を受けるために荒れ野に行かれたことになるのです。荒れ野でなくても誘惑はありますが、荒れ野は誘惑をより多く与える場でもあるのです。それは出エジプトの人々から示されるとおりであります。
 主イエス・キリストは、荒れ野の40年間、イスラエルの人々が訓練された誘惑をそのまま差し出されるのでありました。誘惑する者が現れ、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言います。イエス様はこれから人々の中に出て行き、神様の御用をするのです。当然、体力をつけなければなりません。食べることは重要な課題でありました。しかし、イエス様は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(申命記8章3節)と誘惑を退けました。
 次に悪魔が登場します。二番目の誘惑は、イエス様が高い屋根の上から飛び降りるということでありました。下は石畳であります。飛び降りたら大怪我をするか死んでしまいます。しかし、悪魔は「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」というのでありました。これはまさしく神様を試みることであります。出エジプト記のマサ・メリバであるのです。悪魔はマサ・メリバをイエス様にさせようとしているのです。しかし、イエス様は言われました。「あなたの神である主を試してはならない」と言われ、誘惑を退けたのであります。
 そして、今度はサタンとの名前で登場します。第三の誘惑は、世の中の繁栄が与えられるということでありました。「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」とサタンは言うのでした。世の中の繁栄が悪魔の仕業とは言えませんが、悪なるものが見え隠れしていることは事実であります。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言われ、サタンの誘いを退けたイエス様であります。
 こうして、イエス様は誘惑する者を退けました。その誘惑する者と闘うために荒れ野に導かれたのであります、この誘惑する者は、イエス様の内面的な姿でもあります。これから人々の前に現れ、神様の御用をするにあたり、食べること、身の保障、生活の安全の確かな方向性が必要であります。そのために荒れ野に導かれたのであります。
 主イエス・キリストが霊によって荒れ野に導かれたとき、私たちが霊によって導かれている荒れ野は、私の現実であります。今、私が生活している場は霊によって導かれた場所であります。霊によって導かれた場所は必ず誘惑するものが現れます。誘惑に負けて不平を述べ、不満を述べ、現実がままならぬと言い、現実から遠ざかるのです。イエス様は現実に現れた誘惑を退けられました。私たちが誘惑を退け、勝利者となるために十字架にお架かりになり、この私が誘惑するものに打ち勝つ信仰を導いておられるのであります。

昨年、中学一年生の上村遼太君が、河川敷で殺された事件で、中心になって上村君を殺害したと言われる少年の裁判の判決がありました。事件の内容は凄惨なものであったと裁判長は被告に言い渡しています。そして、判決は懲役9年から13年ということでした。その報道でいろいろな人が意見を述べていました。「上村君の命からすれば、たったそれだけの懲役なのか」という意見が多かったと思います。凄惨な状況で死んで行った上村君を思えば、まさにその通りであると思います。しかし、加害者の少年が本当に更生して、今後は正しく真面目に生きることを願うのであります。私は神奈川医療少年院篤志面接委員を担っていました。月に一度でありますが、少年達と面接します。少年院を出たら、今度は正しい歩みをするための面接でもあります。少年達に、少年院生活の感想を聞きます。訓練の場であると思います、と言います。少年院に入る前は、自分の思い通りのことをしていたのです。少年院は自分の思い通りにすることはできません。定められた生活を毎日するとき、始めはつらいと思います。しかし、一年間生活するうちに、この生活が当たり前であり、今までの自分が、いかに自分勝手であったかと知るのです。つらいこと、悲しく思ったこと、苦しい生活であることは訓練になったと思うようになるのです。
私の現実に苦しみであると思われていますか。つらいことばかりが毎日起きていると思われていますか。こんな生活しかできないなんて悲しくなってしまうと思われていますか。もう一度、申命記におけるモーセの示しを与えられましょう。「あなたの神、主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」のであります。現実から逃げないことであります。私がこの現実に生きるために、主イエス・キリストは十字架にお架かりになられたのであります。私にある自己満足、他者排除を滅ぼされるためであります。苦しい時が一番、悲しい時が一番、自己満足が働くときなのです。
 マサ・メリバに陥りそうになったとき、私たちは今までの自分を振り返ってみることです。神様の恵みに満ちたお導きを知ることになるのです。私のこれまでの人生において無駄は何一つありません。今、苦しいのであれば、神様はさらに私を祝福の人生に導いていることを知りましょう。イエス様がマサ・メリバを退けたように、ただ神様の御旨を求めたいのであります。祝福の人生、しあわせの人生へと導かれるのであります。
<祈祷>
聖なる神様。受難節のお恵みを感謝致します。受難節が私の救いの基であることを知り、十字架を仰ぎ見つつ歩ませてください。主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。