説教「真実に生きる道」

2016年2月21日、六浦谷間の集会 
「受難節第2主日

説教、「真実に生きる道」 鈴木伸治牧師
聖書、列王記下6章8-17節
    エフェソの信徒への手紙5章6-14節
     ヨハネによる福音書9章1-12節
賛美、(説教前)讃美歌54年版・134「いざいざきたりて」
    (説教後)讃美歌54年版・452「ただしく清くあらまし」


 受難節第二週となりました。主イエス・キリストのご受難がこの私の救いの基でありますので、いよいよ主のご受難を受け止め、救い主への信仰を深めたいのであります。主のご受難を仰ぎ見るほどに、救いが見えてくるのであります。救いが見えるということ、まさに「真実に生きる道」が与えられるということです。
 前週2月14日はバレンタインデーということでしたが、丁度日曜日と重なりました。それによりチョコレートの売れ行きも上がったのではないかと思ったりしています。今はバレンタインデーと言えばチョコレートを贈ることが主となっています。しかし、中にはバレンタインデーの意味を知ろうとする人もいます。クリスマスにしても、表面的に喜びのではなく、やはりその意味を知りつつプレゼントを贈ったり、チョコレートを贈ることは大切なことであります。クリスマスの場合は、本来はイエス・キリストがお生まれになったことをお祝いすることですが、プレゼントが主流となっています。プレゼントをくれるのはサンタクロースでありますから、クリスマスの中心はサンタクロースになっています。いつもスペイン・バルセロナのお話しをしていますが、顕現祭の中心は東の国の占星術の学者ですが、スペインではその学者が王様になっており、その王様が子どもたちにプレゼントをくれるということになっています。顕現祭もクリスマスとして、イエス・キリストが中心なのですが、イエス様の存在が見えないお祭りになっているようです。バレンタインデーも本質を理解しないままに喜びあっているようです。
ところで、バレンタインデーはバレンタインさんという人を記念するお祭りです。ではバレンタインさんという人は何でお祭りの中心になっているのかということです。インターネットにはバレンタインさんについて、いろいろな人が報告しています。それらを読むと、私が今まで受け止めていた人物像と違う姿で紹介されているのです。ネットによりますと、バレンタインさんは3世紀にローマで殉教したキリスト教の神父さんでありました。その頃、ローマの皇帝は若者達が結婚すると戦争に出たがらない、との理由で若者の結婚を禁止したということです。それでバレンタイン神父さんは若者達の結婚を密かにしてあげていました。そのことがローマ皇帝に分かり、捕らえられて処刑されたということです。バレンタイン神父さんが若者達を結婚に導いたということで、殉教の2月14日は愛を深める日になったという説明です。
しかし、私が認識しているバレンタインさんは違った角度であります。それは日本基督教団出版局が発行した「キリスト教例話集」に紹介されているもので、このような紹介です。昔、ローマの国にバレンタインという熱心に神様を信じている人がいました。神様がお喜びくださることをしたいということで修道院に入りました。修道院に入ると、修道僧たちはみな何かの特技をもっていました。歌の上手な人、絵の上手な人、それぞれの特技を生かしながら神様の御用をしていたのです。ところがバレンタインさんは、自分には何の特技もないことを知り、大変悲しく思いました。そんな時、「あなたのできることがあるでしょう」との神様の声を聞いたような思いでした。考えた結果、自分ができること、人々に手紙を書くということでした。神様の愛を人々に手紙で知らせることであったのです。「イエス様がされたように、悲しんでいる人、苦しんでいる人、さびしく過ごしている人に、神様の愛を知らせましょう」との思いで、毎日のように愛の手紙を書くようになったというのです。バレンタインさんが死んだとき、人々は聖バレンタインが「愛のことば」を贈ってくれたことを思い出し、互いに「愛のことば」を贈りあうようになったのです。
バレンタインデーのことを長々とお話しする必要がないのですが、「真実に生きる道」の主題から、導入として考えてみました。私は後者のバレンタインさんを受け止めています。「神様の愛のことば」を手紙で知らされた人々は、真実に生きる道を示されたのでした。

「真実に生きる道」のメッセージを旧約聖書列王記下により示されます。列王記は題名のごとく、王様達の興亡を記しているものであります。その王様達の興亡の中で神の人といわれるエリヤ、エリシャの働きが記されています。今朝の聖書はそのエリシャの働きを示しています。アラムの国とイスラエルの国が戦っている状況です。アラムの王様は家臣達と作戦会議をし、イスラエルの攻略を決めます。神の人エリシャはそれを察知し、イスラエルの王様にアラムの作戦を知らせるのです。それでイスラエルの王様はアラムの作戦の備えをします。アラムの国は作戦を変えるのですが、それもエリシャによってイスラエルの王様に知らされるのです。アラムの王様はことごとく作戦が相手に分かってしまうのは、誰かがイスラエルの王と通じているからだと家臣に言います。すると家臣の一人が、イスラエルには預言者エリシャがおり、彼が何もかも我々の作戦を王様に知らせているのです、と答えるのでした。そこで、アラムの王様はエリシャを捕らえるために、エリシャがいる町を包囲します。エリシャの従者は町がアラム軍に包囲されていることを知り、あわててエリシャに報告します。すると、エリシャは「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言い、神様にお祈りします。「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願うのであります。すると、従者の目が開かれ、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見ることになるのであります。天の軍勢が共にいることを知り、神様のお導きとお守りをはっきりと見たのであります。人間的な思いでは、町を囲んでいるアラム軍しか見えませんが、そこには神様の導きがあり、この現実に神様の真実が示されていることをはっきりと見たのであります。この現実を私の目で見る限り、苦しい状況と判断して恐れを持ちますが、神様にあって心の目が開かれることにより、大きな導きを見ることになるのです。
 アラム軍は神様により目がくらまされ、イスラエルの中のサマリアに導かれることになります。サマリアイスラエルの中心の町でありました。イスラエルの王様はそのアラム軍を撃ち殺すとエリシャに言うのですが、エリシャは食事を与えるよう示します。いわば捕虜を暖かくもてなして返すことにより、もはや戦いを挑んでこなくなるのであります。神様がアラム軍の目をくらませているのですが、結果的には戦いを終わらせることの導きでもありました。アラム軍も真実を見ることになったというわけです。
 神様のお導きとお恵みは私たちを包んでいるのです。しかし、私たちは私を包む神様のお恵みが見えません。それは、現実を私の気持ちで見ているからであります。私の気持ちは自己満足的に判断しますから、自分にとって有利なのか不利なのか、得なのか損なのかとの観点で見ます。従って、そこに示されている神様の恵みの事実を見ることができないのであります。神様にこの私を委ねるとき、そこにこそ神様の豊かな導きと恵みを見ることになるのであります。

神様の恵みをしっかりと見なさい、との旧約聖書のメッセージを示されながら、ヨハネによる福音書は、一人の人が真実見えるようになったことを報告しています。今朝はヨハネによる福音書は9章であります。9章には生まれつきの盲人が癒されたことが記されていますが、それは見える、見えないという肉体的なことと共に、神様の真理が見えることへの示しであります。
 イエス様と弟子達が通りすがりに一人の生まれつき目の見えない人を見かけます。すると弟子達は「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」とイエス様に聞くのです。この時代、因果応報的に考えていたので、病気の人、体の不自由な人は罪の結果と理解していました。それは本人か、両親か、あるいは先祖が悪いことをしたからなのです。うっかり風邪も引けない社会でもありました。イエス様は罪人といわれる人々と共に過ごし、食事をしているというので批判されることが福音書に記されています。その罪人といわれる人達は病気の人であり、体の不自由な人々であったのです。弟子達の質問に対してイエス様は、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言われました。イエス様は因果応報的な考えを否定しました。神様の御業がこの人に現れるためであると教えたのであります。
 人はそれぞれの姿で生まれ、この世に生きることになります。みな同じ人間ではありません。姿や形、性格もみな違うのであります。あるいは生まれつき目が見えないこともあります。「神様の御業が現れるために」今の私の存在があるということなのです。因果応報の考えの社会の中で、イエス様は人間の真の姿を示したのであります。このイエス様のメッセージも示されるのでありますが、今朝は「真実に生きる道」として示されたいのです。
 生まれつき目の見えない人はイエス様により見えるようになりました。すると、この人を知っている近所の人々が不思議がるのです。どうして見えるようになったのか、納得できません。そこで近所の人々は「お前の目はどのようにして開いたのか」と聞きます。イエスという方が見えるようにしてくれました、と答えても信用しない人々でした。それで、人々は社会の指導的な立場のファリサイ派の人々のところへ、この生まれつき目の見えなかった人を連れてゆきます。そこでも、どうして見えるようになったのかと聞かれます。それで同じように答えるのですが、やはり納得してくれません。指導者達は、今度は両親を呼んで聞くのです。両親は答えます。「どうして見えるようになったのかは分かりません。本人に聞いてください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」と答えるのでした。両親にとって、やたらなことを言えば、追放されることを知っていたからです。イエス・キリストをメシア、救い主という者は追放すると決めていたからでありました。そこで、また生まれつき目の見えなかった人を呼んで、どうして見えるようになったかを聞くのでした。彼は答えました。「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」とはっきり自分を証したのでありました。
 その後、目の見えなかった人はイエス様に出会います。イエス様はご自分がメシア、救い主であることを示すと、「主よ、信じます」と言い、ひざまずいたのでありました。その時、イエス様は、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と言われたのであります。そこに居合わせたファリサイ派の人々は、このイエス様の言葉を聞き、「我々も見えないということか」と言います。それに対して、イエス様は「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だからあなたたちの罪は残る」と言われたのであります。
 私たちが「見える」と言ったとき、見えているものは、自分の意に適ったものであります。自分の意に適わないものは見たくないのであります。この生まれつき目の見えない人が見えるようになったとき、そういうことは今までにないことであり、その事実を認めたくないのです。この人は目が見えないことが当たり前なのであり、見えるという事実は否定しなければならないのです。真実を見ない、受け止めない姿勢であります。だから、イエス様は「見える」という人々は「罪が残る」と示しているのです。神様の御業を見ようとしない、御心を受け止めようとしないこと、「罪が残る」のであります。「罪がある」というのであれば、それは一過性のものです。しかし、「罪が残る」と言われたとき、今後においても罪の姿を持ち続けるということなのです。

エリシャの導きにより、従者は目が開かれ、天の軍勢を見ることになりました。救いをはっきりと見たのであります。生まれつき目の見えない人は、イエス様の御業をいただき、この自分に救いを見たのであります。私たちに救いの事実をはっきり見させてくれるのは、主イエス・キリストの十字架であります。自己満足が働き、自分の好みにより見たり、聞いたりしているこの私に、御自分の命をささげて、私たちの中にある自己満足を滅ぼされたのであります。私達が「真実に生きる道」を歩むためなのであります。
2月14日はバレンタインデーということでお話しましたが、この日は前任の大塚平安教会時代の井馬栄さんの召天記念日であります。井馬栄さんのお証を示されましょう。井馬栄さんは1986年の2月14日に召天されました。神戸栄光教会で日野原善輔牧師より洗礼を受けています。その息子さんが日野原重明さんで、青年の頃、一緒に教会生活をされました。井馬さんは教会の集会をしているとき、例えばクリスマスの祝会等のとき、突然立ち上がり、「私は聖書の言葉に日々励まされて歩んでいますが、最近励まされた聖書を読みます」と言って、マタイによる福音書の6章25節以下、「思い悩むな」のイエス様の教えを読んだりしていました。このようにして証をする井馬さんは「真実に生きる道」を与えられており、証しせざるを得なかったのです。イエス・キリストの十字架を常に見ながら歩むこと、「真実に生きる道」なのであります。
<祈祷>
聖なる御神様、救いを見つめる導きを感謝致します。十字架を見つめつつ、真実に生きる道を歩ませてください。主イエス・キリストのみ名によりおささげ致します。アーメン