説教「永遠の命を与えられる」

2016年2月28日、六浦谷間の集会 
「受難節第3主日

説教、「永遠の命を与えられる」 鈴木伸治牧師
聖書、ヨシュア記24章14-24節
    ガラテヤの信徒への手紙2章15-21節
     ヨハネによる福音書6章60-71節
讃美、(説教前)讃美歌54年版・138「ああ主は誰がため」
    (説教後)讃美歌54年版・532「ひとたびは死にし身も」


 受難節第三週であります。後一ヶ月で受難週となり、主のご復活となります。今は主のご受難が私の救いのためであることをしっかり受け止めつつ歩みたいのであります。昔は受難節となると克己の生活が奨励されました。昔はと言いますが、今でも克己の生活は必要なことでもあり、実践されておられる方もいます。「克己」の「克」は「力を尽くして相手に打ち勝つ」という意味です。この場合、相手は「自分」でありまして、自分に打ち勝つのであります。自分は、いつも自己満足に生きています。自分の思いのままに歩んでいるのです。克己の生活をするということ、例えば外出先で喫茶店に入りコーヒーを飲まないということです。そのコーヒー代を克己献金としてささげるのです。今は店によって異なりますが、コーヒー代は300円くらいでしょうか。受難節の40日間で10回の喫茶店によるコーヒー代を節約するなら、3,000円の克己献金としてささげることができるのです。また、歩いて行かれる所へは電車やバスに乗らないで、運賃を克己献金にささげるのです。
 昔は教団から克己献金袋が送られてきました。しかし、今は送られてきません。克己する人が少なくなったからなのでしょうか。主のご受難をそれぞれが偲びつつ歩むことが本筋であり、各自に犠牲を強いるようで、克己献金を止めたのかもしれません。いずれにしても、克己の歩みは大切であり、受難節ではなくても、信仰に生きるものに求められている生き方でもあるのです。
 私たちが主イエス・キリストを信じて歩むこと、それは私たちもイエス様の歩みに倣いつつ歩むことなのです。それは受難節に限りません。常にイエス様に倣いつつ歩むことで祝福があるのです。私の青年の頃、「キリストに倣いて」(イミタチオ・クリスチ)という本を愛読しました。この本は1953年(昭和33年)に角川書店から発行されています。聖書に次ぐ宗教的古典として世界の人々に愛読されている本であります。日本においてもキリシタン時代から訳されていたとも言われています。青年の頃に読んだとき、強烈な示しを与えられたのでした。修道院に入ったような思いで読んだことが思い出されます。信仰に生きるには、常にイエス・キリストに倣うことが教えられているのです。いくつかを紹介しておきましょう。第一章は「キリストに倣って、この世のあらゆるむなしいものをさげすむべきこと」であります。1.「わたしに従ってくる者は、やみのうちを歩くことがない(ヨハネ福音書8章12節)」と、主は言われる。2.このみ言葉は、もしわれわれが自分の無知から啓蒙され解放されたいと願うならば、キリストとその生き方とに倣わねばならぬ、と勧められているのである。3.だから、われわれの主要な努力と無常の関心とは、キリストの御生活に照らして自分を訓練することでなければならぬ。
 最初の部分だけの紹介ですが、「キリストに倣いて」(イミタチオ・クリスチ)を読むとき、限りなく自分を捨てることであり、しかし、限りなく「いのち」へと導かれるのであります。「永遠の命を与えられる」のであります。

 「わたしとわたしの家は神様に仕えます」とはっきり立場を表明したのはヨシュアでした。ヨシュアモーセの後継者としてイスラエルの人々を導いた人です。モーセは人々を奴隷の国エジプトから脱出させ、荒れ野の40年間を通して、神様への信仰を教え導きました。そして、約束の地、乳と蜜の流れる土地カナンを前にして決別の説教を行いました。それが申命記であります。そして、モーセの使命はそこまでで、後のことは若きヨシュアに託したのでした。ヨシュアは指導者として、神様から賜った土地であるカナンに侵入し、12部族の土地を得たのであります。その時、ヨシュアイスラエルの全部族を集めました。そして、人々に今日までの神様の絶大な恵みと導きを話します。それは、最初の人、アブラハムの選びから始まり、イサク、ヤコブの時代に及び、ヤコブの時代にはエジプトに下り、奴隷の境遇になったもののモーセを通して救い出され、荒れ野の40年間もマナを与えられつつ導かれ、そしてカナンに到着し、定住へと導いた神様の恵みと導きであります。そして、神様の言葉として、「わたしは更に、あなたたちが自分で労せずして得た土地、自分で建てたのではない町を与えた。あなたたちはそこに住み、自分で植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑の果実を食べている」(ヨシュア記24章13節)ことを示します。だから、主の導きと恵みに応えて、神様に仕えることを人々に促しているのであります。新しい土地に生きることになりますが、今後の歩みにおいて偶像を拝んだり、他の宗教に気持ちを向けていくことが考えられるからでありました。
 「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」
 神様は歴史を通して導いてくださった存在であり、人々にとって「いのち」の根源なのであります。「いのち」である神様に従いなさいとヨシュアは、人々に勧告するのです。
 モーセは荒れ野の40年間において、何かとヨシュアを側に置き、大切な役目を担わせていました。そうした中で、ヨシュアの信仰が証しされることがありました。それは、モーセによってカナンの偵察隊が12人選ばれますが、その中にヨシュアも入っていました。彼らは40日間カナンを偵察して帰り、それぞれ報告します。10人はカナンの土地には自分達より大きな人間がいて、到底我々の力では対抗できないと報告します。しかし、ヨシュアとカレブは、カナンの土地は豊かな土地であり、まさに神様が示された乳と蜜の流れる土地であると報告したのでした。人々は10人の偵察隊の報告を信用し、嘆き悲しむのであります。その時、ヨシュアは人々に声を大にして、「神様が導いてくださっている土地であり、大きな人間がいても恐れることはない」と人々を説得するのでした。ここにヨシュアの深い信仰が見られるのです。
 このような信仰に生きるヨシュアモーセの後継者に選ばれたとき、神様はヨシュアを励まします。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ」。この励ましを基にして、ヨシュアは神様の約束の土地、カナンに侵入したのでした。そして、改めて人々に神様への信仰を促しているのであります。何よりも「わたしとわたしの家は神様に仕えます」とはっきりと信仰の告白をしたのであります。「いのち」の根源である神様に従って生きることを公にしたのでありました。

「いのち」に従うのか、私たちに問われていることであります。「いのち」に接しながら、「いのち」を拒否し、裏切る人の弱さを示しているのがヨハネによる福音書であります。今朝は6章60節以下でありますが、ここに至る前の部分、6章1節以下の示しが全体の教えとなっているのであります。まず、6章1節以下では五千人に食べ物を与えられたイエス・キリストが報告されています。食べ物はパンであり魚でありました。五千人もの人々に対して、イエス様は「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われました。弟子達は、たとえお金があっても、こんなに大勢の人に対しては食べさせることはできないと思います。しかし、イエス様は少年が持っていたパン五つと魚二匹を受け取ると、感謝の祈りをささげ、それを五千人の人々に分け与えられたのでした。人々は満腹したのであります。この大きなしるしを示した日の翌日、人々はイエス様を捜します。ようやく探しあてると、イエス様は「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物ではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と、五千人にパンのしるしを与えた意味を示されたのでした。確かにパンにより満腹しましたが、その象徴的しるしは神様の救いであることを知らなければなりません。このパンこそ「いのちのパン」なのであります。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」とイエス・キリストは教えておられます。
 その後、イエス様と人々のあいだにパン問答が続きますが、イエス様ご自身が天からのパンであり、「いのち」であることを人々は理解できないのでありました。結局、人々はイエス・キリストにつまずいたのであります。そして、多くの弟子達がイエス・キリストから離れたということです。イエス様につまずき、裏切るのはイエス・キリストの「いのちのパン」を拒否したことになったのでした。「いのちのパン」の教えは、まだ予備的なものであります。この後、イエス・キリストは十字架への道を歩むことになります。人間が自分のためにしか生きられないので、共に生きることができるように十字架にお架かりになりました。これは時の社会の指導者達のねたみにより殺されることになったことでした。しかし、神様はこの十字架により、人間を救う基にしたのであります。人間の自己満足、他者排除は人間が持つ根源的な罪の発祥元であります。いつの間にか他者を切り捨てながら生きている人間なのであります。その人間が持つ根源的な罪を十字架により滅ぼされたのでありました。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」との意味であります。
 イエス様は、十字架にお架かりになる前、お弟子さん達と最後の晩餐をいたしました。その時、パンをお弟子さん達に与えながら、「これはわたしの体である」と示します。そして、ぶどう酒を渡しながら、「これは罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と示されました。イエス・キリストの体と血をいただくことは、十字架の救いを信じることであります。十字架が私を救われたことを信じるものであります。十字架を基にしてパンとぶどう酒をいただくことにより、「いのち」へと導かれていくのであります。「永遠の命を与えられる」とはイエス様の十字架の救いを信じるということであリます。

日本基督教団聖餐式を大切にしています。聖餐式に与ることができるのは洗礼を受けた人です。洗礼は主イエス・キリストの十字架の救いを信じて信仰の告白をします。そして、聖餐式は洗礼を受けた者が、十字架の救いを信じて生きる励ましのため、信仰の原点へと導かれるために聖餐をいただくのです。この聖餐式は通常、礼拝の中で行われます。そうすると礼拝には洗礼を受けていない人も出席しているので、それらの人は聖餐を受けられないので、なんとなく差別されているような思いになります。教会も、そんなつもりはないにしても、やはり洗礼を受けた者だけが聖餐を受けることに対して、問題を感じるのでした。特に地方の教会では、洗礼を受けたくても、家族や親族の関係で受けられない人もいるのです。中には聖餐式は礼拝出席者全員が受けるような教会もあるのです。
 日本基督教団の総会書記をしていました。5月になると日本基督教団にある17の教区の総会に、議長、副議長、書記、総幹事が分担してそれぞれの教区総会を問安します。そこで教団議長の挨拶文を読み、質疑応答があります。ある年、奥羽教区総会に出席したとき、一人の議員の質問がありました。教会には知的障害を持つ青年がいて、みんなが聖餐を受けるとき、説明しても分らないので、洗礼を受けていないが、一緒に聖餐を受けていると言われ、その様な場合、教団としてどのように判断するのか、との質問でした。その時、私は教団としてではなく、個人的な体験をお話ししました。大塚平安教会時代のことです。小さい頃から、自閉症であり、いつもお母さんと一緒に礼拝に出席していたのです。聖餐式の時には、お母さんが聖餐をいただくのですが、自分も手を伸ばしてパンや杯を取ろうとしますが、いつもお母さんは制止していました。その彼が20歳になりました。その時、役員会で相談しました。彼は幼児洗礼を授けられていますが、彼自身の信仰告白はできないのです。それで、教会員が彼と共に全員で信仰告白をすることにしたのです。それを堅信礼と言いますが、その時、教会員が全員起立して、彼と共に信仰告白をしたのでした。こうして、彼は教会が受け入れた一人の信仰者となりました。以後、一緒に聖餐を受けるようになり、今まで制止していたお母さんは大きな喜びを与えられたのです。
 「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません」(ガラテヤの信徒への手紙2章19節)との信仰が私たちの信仰であります。イエス・キリストの十字架の贖いによって、生まれながらの私は死んだのです。そして、生きている今の私は主イエス様の「いのち」を与えられているのです。イエス様が十字架にご自身をささげられたように、私たちも聖餐をいただくとき、自分をささげるのであります。聖餐をいただくほどに「永遠の命が与えられる」のであります。
<祈祷>
聖なる御神様。十字架の救いを与えてくださり、聖餐式の導きを感謝致します。永遠の命を与えられる喜びを持って歩ませてください。主の御名によりおささげします。アーメン。