説教「活発な信仰の歩み」

2015年10月4日 六浦谷間の集会
聖霊降臨節第20主日」、世界聖餐日

説教・「活発な信仰の歩み」、鈴木伸治牧師
聖書・レビ記25章39-46節
    フィレモンへの手紙4-7節、
     ルカによる福音書17章1-10節
賛美・(説教前)讃美歌54年版・202「奇しきみすがた」
    (説教後)讃美歌54年版・535「今日をも送りぬ」


今朝は「世界聖餐日」としての礼拝であります。世界の人々が共に聖餐に与ります。主の聖餐が世界の平和の基となります。エフェソの信徒への手紙2章15節、「キリストは双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」と示されるとおりであります。十字架を仰ぎ見る、そこに世界の平和の基があります。主を記念とする聖餐をいただくことにより、主の御心を与えられ、新しい歩みへと導かれるのであります。
10月の最初の主日を世界聖餐日としているのはプロテスタントの教会です。カトリック教会は毎週の日曜日に聖餐式を行っていますので、特別に世界聖餐日を設けなくても良いようです。スペインのバルセロナに娘が生活していますので、今まで三度訪問し滞在しています。娘はカトリック教会に出席し、奏楽していますが、今ではサグラダ・ファミリアのミサでも奏楽しています。従って、滞在中はカトリック教会のミサに出席し、聖餐式に与っていました。カトリック教会は毎週日曜日のミサでは必ず聖餐式が執行されるのです。昨年10月21日から今年の1月7日までバルセロナに滞在しましたが、クリスマスには羊子が親しくしている神父さんのミサに出席しました。羊子がその教会の奏楽を依頼されていたからです。羊子と共にミサに出席した私達を知った神父さんが、私も一緒にミサを司るように勧めてくれたのです。戸惑いましたが、良い機会であり、プロテスタントの牧師ですが、カトリック教会のミサを担当し、聖餐式をも担当したのでした。バルセロナカトリック教会に出席する皆さんは、毎週の聖餐を喜んでいただいている姿を示されました。
日本のプロテスタント教会は、多くの場合、月に一度の聖餐式が多いようです。しかし、教会によっては教会の三大祭り、クリスマス、イースターペンテコステの時しか聖餐式を執行しない教会もあります。聖餐式に与ることは信仰の原点に招かれることですから、少なくとも月に一度は聖餐式に与ることは大切なことであると思います。カトリック教会に馴染んだわけではありませんが、毎週の礼拝で聖餐式に与っても良いのではないかと思いました。バルセロナに滞在しているとき、カトリック教会では毎週のミサで聖餐式に与っていますが、羊子の家での家族礼拝においても聖餐式に与ったのであります。私と連れ合いのスミさんと羊子の三人ですが、プロテスタント教会としての聖餐式に与ったのであります。
今朝は「世界聖餐日」と共に「世界宣教の日」として示されています。世界の人々へ主の福音を宣べ伝える使命を与えられているのです。2010年10月まで日本基督教団の書記を担っていました。日本基督教団には世界宣教委員会があり、日本基督教団としてどのような場所に宣教師を送っているか、報告を受け、また協議していました。そして、2010年10月からはどこの教会にも所属しない無任所教師になりましたので、それからは時間もあり、スペイン・バルセロナに行くようになったのです。バルセロナ日本語で聖書を読む会があり、その集会の礼拝で御言葉を取り次がせていただきました、その関わりで知ったことですが、ヨーロッパにおけるキリスト者の皆さんです。それぞれの国において、キリスト者の皆さんは少人数ながら集会を開き、信仰の交わりを重ねているのです。世界宣教ということで、いろいろな国々で伝道しているのであると思っていましたが、いろいろな国々にいる日本人の皆さんの信仰の群れを維持するためなのです。ドイツへの宣教師は、ドイツにいる日本人のための教会に派遣されるのです。バルセロナの場合は、集会を担っている数人を中心に集会が続けられているので、専任の牧師はいません。そのため、バルセロナに滞在する度に集会のお手伝いをしているのであります。

今朝は信仰においてどう生きるかが主題になっています。旧約聖書レビ記新約聖書のフィレモンへの手紙も、ルカによる福音書も、そして交読詩編82編も、弱い存在、他者を受け止めて生きることを示しています。まず、レビ記は同胞の弱い存在を受け止めることの教えであります。聖書の人々はエジプトの国で400年間奴隷でありました。その苦しみを神様はモーセを通して救い出しました。そして、人間として基本的に生きるために十戒を与えたのです。その十戒を基にして、人々の生きる指針、いろいろな掟、戒律がつくられました。それを記しているのがレビ記です。特に今朝の聖書は同胞を奴隷としてはならないと教えています。なぜならば、エジプトでの奴隷から解放されましたが、むしろ神様の奴隷なのであり、神様に養われている者として、互いに労わりながら生きなさいと示しているのです。それは、すなわち、神様を信じて生きることであり、神様を仰ぎ見つつ生きるものは平等に生きなければならないと示しているのです。
今朝の旧約聖書には「ヨベルの年」について示されています。旧約聖書には、神様が天地万物をお造りになり、七日目に休まれたと記されています。七日目は土曜日なので、その日を安息日としました。その後、七年目を安息の年としています。この安息の年は、畑等も休ませなければならないのです。そして、その安息の年を七回重ね、次の年が50年目になりますが、この50年目を解放の年、ヨベルの年としたのです。ヨベルとは、雄羊の角のことで、この角で作ったラッパが吹き鳴らされるのです。ヨベルの年には解放の年ですから、奴隷は解放され、売られた土地の権利はもとの所有者に変換されるのです。50年は長いですが、必ずやってくるのです。苦しい生活ですが、ヨベルの解放を待ちわびつつ生きたのが聖書の人々でした。
聖書では、同じ民族ですから、お金が無くなったとき、奴隷として身を売ることになりますが、雇い主は奴隷ではなく、雇人とはして扱うことが示されています。これは同胞の民であり、外国人の場合はヨベルは適用されないようです。しかし、人道的な聖書の教えは、外国人、寄留の民にも恵みが行き渡るように示しています。たとえば19章9節以下の教えとして、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫の落穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかなければならない」と教えています。これらの教えは積極的に隣人を見つめ、共に生きることを示しています。活発な信仰の歩みとして教えているのです。

この旧約聖書のメッセージは、新約聖書ルカによる福音書17章1-10節により、イエス様が「赦し、信仰、奉仕」として教えておられます。
 「イエスは弟子達に言われた。『つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。(中略)もし兄弟が罪を犯したら戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい』」と示しています。私たちは常に罪と戦い、誘惑に負けてしまう自分自身を悲しく思っています。そこで出てくる思いは、私がもっと信仰を強く持つことであります。イエス様のお弟子さん達も同じ思いを持ちました。だから、お弟子さんたちはイエス様に「わたしどもの信仰を増してください」とお願いしたのでした。
 本当に、信仰がもっとあったら、私は毎日の生活の中で、くよくよしないと思っています。信仰がもっとあったら、力強く生きているに違いないと思っています。信仰がもっとあったら、礼拝にも祈祷会にも欠かさずに出席していると思っています。信仰がもっとあったら役員でも委員でも引き受けることができると思っています。いつも弱く、心が動揺しているのは、信仰が足りないからだと思っているのです。お弟子さん達がイエス様に、信仰を増してくださいと願っているように、私たちもまた、イエス様に信仰を増してくださいとお願いしているのです。
 信仰とはその様なものなのでしょうか。信仰はそのようなことではありません。信仰が強くなって確信を深め、しっかりと立つのは、自分に依存する姿であって信仰ではないのです。信仰する者は神様を仰ぎ見る、ただそれだけです。神様を仰ぎ見ることは、神様の恵みに頼り、主の御心に自分を委ねることなのです。不安がある、眠られぬ夜が続く、悲しみがある、痛みがある。そういうときに信仰が強くなって不安と戦うのではなく、不安なら不安のままに神様を仰ぎ見ることであります。眠られぬ夜が続くなら、その姿で神様を仰ぎ見ることであります。その姿が信仰なのです。
 私たちは結果をすぐに求めますから、信仰を増してくださいと願うのです。信仰があれば、こうなんだと結果を考えます。そして、信仰の結果においてバラ色の人生を思い浮かべているのです。信仰はただ神様を仰ぎ見ることであります。神様の御心にこの身を委ねることなのであります。「わたしたちの信仰を増してください」とお願いしたお弟子さんたちに、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」とイエス様は言われました。
 私たちの信仰が増しているので、イエス様のお恵みをいただくのではありません。たとえば、からし種のような小さな信仰であっても、主のお恵みは確実に与えられるのです。 からし種一粒の信仰があれば、ここに植えられている桑の木に向かって、海に移れと言えばそうなると言われます。昔、グリコキャラメルのキャッチフレーズが「一粒で300メートル走れる」ということで、キャラメルの箱に颯爽と走っている絵が描かれていました。小さい頃、この招きの言葉に引かれるように食べたものです。しかし、思い出す限り、徒競走で入賞したことはありませんでした。いつも8人グループの中で6、7番目でありました。子どもでありながら、一粒食べて300メートル走れるほどの力が出るなんて思っていなかったでしょう。でも、そのキャッチフレーズがうれしかったのです。
 今、お弟子さんたちはイエス様が、からし種一粒の信仰があれば力が出ると教えられました。するとお弟子さんたちはどう受け止めたのでしょうか。常識では考えられないことであります。いくら信仰があるからといっても、植えられている木に、抜け出して海に根を下ろせと言えば、その通りになるなんて信じられないのです。そんなことは不可能であると、口には出さなくても思っていたのです。
 イエス様がこのように教えているのは、私たちに自分の力、能力、経験というものを忘れること、それが信仰ですよと教えておられるのです。あなたがたは自分自身なるものから離れなさいということです。自分の信仰の程度や度合いから離れて、神様の御慈しみに生きること、そこに信仰の人生があります。くれぐれも自分の信仰の大きさ、強さ、素晴らしさの中に生きようとしてはなりません。私たちが落ち込んだり、弱さを思うのは、自分の信仰に依存しているからなのです。自分の信仰が強いとか弱いとか、大きいとか小さいとか、そんなことを考えなくてよろしいのです。信仰は神様を仰ぎ見ること、神様の御慈しみを受け止めること、それが信仰であります。信仰の妨げとなっている私たちの力、能力、常識を忘れなさい、とイエス様は教えておられます。

 ここでイエス様は方角違いの弟子達にたとえ話をしています。7節以下、「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言うものがいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか」とお話しされています。
 主人は僕に仕事を言いつけて、「忠実な良い僕」とは言わないのです。「ご苦労様」の一言くらい言っても良いのではないかと思います。言うどころか、さらに仕事を言いつける。この僕は言われるままに仕事を続けているのです。まして、「よくやった。忠実な良い僕よ」なんての感謝の言葉を期待していないのです。イエス様は、この僕こそ忠実なんですよと教えておられるのです。主人に感謝を要求しない僕になりなさいと教えているのです。
 信仰をましてくださいと願い、信仰があれば主の御心に生きるでしょう。そうすれば主の祝福が与えられる、という人生ではなく、神様を仰ぎ見、恵みに生かされていることを喜び、その恵に導かれて主の御心を行う、そのような信仰の人生を歩みなさいと教えておられます。そして、「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもはとるに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」とイエス様は教えています。主の愛に生きる私達は、もうこれで仕事が終わったということはありません。主の御心はもっともっと愛をもって生きなさいと命じておられるのです。くれぐれも信仰が増した上での働きと考えるのはやめましょう。
 このような信仰の人生を生きるとき、イエス・キリストは十字架の愛をもって、私に迫り、それは休むことなく、終わりがなく、私に関わって下さるのです。とるに足りない僕は、終わりのない愛に生きるのです。社会の中に、私のごく近くに悩む人、苦しむ人、悲しむ人がいます。イエス様の愛をもって共に生きましょう。終わりがない愛に生きましょう。イエス様が終わりなく私を愛してくださるように、私たちもまた、神様を仰ぎ見つつ、人々を愛して生きるものへと導かれています。
<祈り>
聖なる御神様。十字架の信仰を与えてくださり感謝いたします。終わりなき愛に生きる信仰の人生を導いてください。イエス・キリストのみ名によりおささげ致します。アーメン。