説教「神の国に生きる喜び」

2015年10月11日 横須賀上町教会
聖霊降臨節第21主日」、神学校日・伝道献身者奨励日

説教・「神の国に生きる喜び」、鈴木伸治牧師
聖書・創世記6章5-8節
    ルカによる福音書17章20-27節
賛美・(説教前)讃美歌21・405「すべての人に」
    (説教後)讃美歌21・510「主よ、終わりまで」


10月は覚える日が続きます。前週は「世界聖餐日・世界宣教の日」としての礼拝でありました。六浦谷間の集会も、夫婦二人だけの礼拝ですが、世界聖餐日として聖餐式を執行し、聖餐式に与る喜びをいただいたのであります。今朝は「神学校日・伝道献身者奨励日」として礼拝をささげています。神学校を覚え、学ぶ神学生を覚え、さらに伝道献身者が与えられるよう祈る日であります。
私は日本聖書神学校で学びました。この神学校は夜学でありまして、働きながら学ぶ学校でありました。従って、大学を卒業して、社会で働くうちにも牧師への道が示され、入学する人々も多くいました。私は21回生の卒業生で、神学校には6年間在学しました。従って、入学したのは神学校が始められて15年目でした。神学校の創立間もない頃に入学しました。創立の頃は学校という校舎はなく、教会を借りての授業であったのです。しかし、その後、広大な土地の寄付があり、木造の校舎が建てられました。そこで、学んでいるうちにも、模様替えが行われ、校舎の部分は一階が店舗で、上がマンションと言うビルが造られました。その店舗にピーコックストアーが入りました。新しく造られた校舎には半年位、学んだと思います。それで卒業したのですが、その後、その校舎はテアトルと言う俳優養成学校が使うことになり、校舎は奥まったところに造られ、礼拝堂も図書館も、いずれも新しい立派な建物になりました。これらの取り組みは、私達が卒業して後の時代の取り組みでした。毎年、送られて来る神学校の案内書を見ながら、随分とりっぱになったものだと思っていました。そのように思いながらも、懸念することもありました。案内書ですから、いいことづくしの内容を紹介するのは当たり前です。立派な校舎、立派な図書館、素晴らしい礼拝堂、快適な寮生活を豪華な冊子で紹介しているのです。神学校に入る決心をしている人は、この様ないいことづくしの内容を提示されて入るのでしょうか。大学の場合は、たくさんある大学の中から選ぶこともあり、いいことづくしで選ぶ基準になるのかもしれません。しかし、神学生の場合、将来は牧師になるのであり、いいことづくしより、牧師への道を整えてくれる場所であると思うのです。だから、立派な案内書で決めるのではないのですから、そういう案内書は不要だと思っていました。私達の入学当時は、簡単な学習の道筋を記している紙一枚の案内書でした。
現代の神学校の取り組みを、あまりよろしくないと思っていました。心配していたことが的中したようです。最近、神学校からお知らせがあり、神学校の現状を説明したいということでした。神奈川支部として蒔田教会で開かれましたので、説明を聞いて来ました。要するに神学校の運営が困難になっているということでした。神学校は伝道者を送りだす場であり、そのためにいいことづくしの取り組みをする必要がないのです。今後は初心に帰って取り組んで行かなければならないと示されたのでした。神学校日にあたり、自分自身の反省を示されながら、伝道者の育成の場をお祈りしたいのであります。
日本基督教団は10月の第二日曜日を神学校日・伝道献身者奨励日としていますが、今朝の聖書テキストは「審きの日」になっているのです。神様の審きをはっきりと示されることが、今朝の聖書であります。伝道献身者を生み出すということは、伝道者が世の人々に神様の審きをはっきりと示すことなのであります。しかし、私たちの信仰は審きが第一ではなく、十字架の救いが第一なのであります。イエス・キリストは私たちが神の国に生きるために世に現れました。人はどんなに努力しても自分を克服できません。神様はイエス様の十字架により私たちを神の国に生きるものへと導かれたのです。以前のことですが、「死後審かれる」とのプラカードを持ち、又はマイクで聖書の言葉を言いつつ歩いている人がいました。昔、宮城の陸前古川教会にいた頃、お祭りがあると、必ずそういう人が現れました。お祭りで人々はうきうきしています。そういう人々の中を縫うようにして、「死後審かれる」といって歩いているのです。一方、モルモン教の宣教師達は町に溶け込むために、お祭りのはっぴを着て、屋台に乗り、太古をたたいている。そういう姿を傍観しながら、子どもと共に出店を覗き歩いている牧師もいるわけです。
私たちは、死後審かれるから教会に導かれたのではありません。イエス・キリストの十字架の救いに導かれ、救いを与えられ、審きの前に立たされているということであります。そして、私たちが神様の前に立たされたとき、永遠の神の国に生きている者として、喜びと希望をもって主の前に導かれるのであります。今朝はそうした示しを聖書から与えられるのであります。

旧約聖書は創世記6章5節から8節で、ノアの時代の洪水の物語が始まるところであります。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」と記されています。「神様が後悔する」という言い方は面白い表現でありますが、これは物語であり、書いているのは人であり、神様の思いとして記しているのであります。それほど悪が栄えていることを示しているのです。神様は天地、宇宙万物をお造りになったのは、神様のご栄光のためでありました。その造った人間が、「常に悪いことばかりを心に思い計っている」ので後悔しているのであります。そこで、「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」と言われていますが、しかし「ノアは主の好意を得た」と記し、この後に「ノアの物語」が始まるのであります。ノアを通して新しい人の世界を造られるのでありました。
ノアは神様に命じられて大きな三階建ての箱舟を造ります。造り終わると、神様はノアと家族、そして他の生き物、動物たちを二つずつを箱舟に入れて舟の扉を閉めなさいと命じます。ノアが言われるままにすると、雨が降り出し、四十日四十夜雨が降り続きます。そして、洪水が起きます。洪水は四十日間地上を覆います。それにより、箱舟にいる生き物以外はすべて死に絶えてしまうのです。その後、水はなくなり、ノアと家族、生き物たちが地上に降り立ったとき、ノアは祭壇を築き、神様に礼拝をささげるのでありました。その時、神様は約束を与えます。それは9章13節以下に記されます。「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる」と言われ、虹によりあなた方を心に留めると言われているのであります。虹は恵みの雨の後に現れる現象でありますが、それはまさに神様の恵みを証しているのであります。
こうして、ノアの洪水物語は神様の恵みの導きを示しているのでありますが、恵に生かされている私たちは、神様に後悔されていないかと言うことも、聖書は問いかけているのです。旧約聖書は虹をもって救いの証を示しました。この旧約聖書の示しを新約聖書イエス・キリストの十字架こそ、神様の恵みの証であると教えているのです。

新約聖書ルカによる福音書17章20節から37節です。この部分の表題を「神の国が来る」としています。「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた」ことが導入になっています。ファリサイ派の人々はユダヤ教の社会において、中心である律法、戒律を厳格に守って生きている人々です。いわば社会の人々の模範生でもありました。そのファリサイ派の人々は、イエス様が律法、戒律を新しく教えなおしていることに警戒しており、いつもイエス様のそばにいて教えを聞いていたことが考えられるのであります。神の国については、イエス様は常に示していました。それで、「神の国はいつ来るのか」と尋ねたのであります。イエス様は答えて言われました。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と教えておられます。神の国と言いますから、やはり死んで彼方の世界と思っています。あるいは、神の国はメシヤが現れて、地上を平和にしてくれると言う希望でもあるのです。ファリサイ派の人々が尋ねているのは、神の国の到来ですから、昔現れたダビデのような偉大な王様が、今はローマによって苦しんでいるので、その苦しみから解放してくれるときが、神の国の到来と言うことになります。その神の国がいつ到来するのかと尋ねているのです。
神の国は見える形では来ない」と教えています。ここにある、あそこにあると言えるものでもないとも言われています。では何処にあるかと言えば、「神の国はあなたがたの間にある」と言われるのです。「あなたがたの間」、すなわち人と人との間に神の国があるということです。ノアの時代に、神様はどうして人を造ったことを後悔したのか。それは、人が「常に悪いことばかりを心に思い計って」いたからでありました。そこには人と人との間が無いのであります。自分の事ばかりを考えているからであります。自分の前には人がいないと言うことであります。人を人とも思わないから、そこには人との関係が生まれないのであります。私たちの前に人がいなければ、神の国には導かれないのであります。従って、私は人とのお付き合いが嫌いであるから、家で聖書を読み、お祈りをささげ、賛美の歌を歌うことは、確かに平安な日々でありますが、イエス様が示す神の国に導かれてはいないのであります。イエス様は私たちが共に生きるときにこそ神の国の到来があることを教えているのです。それはルカによる福音書では示されていませんが、マタイによる福音書25章31節以下で示されています。イエス様のたとえ話でありますが、王様が右側にいる人々を祝福するのです。この人達は王様に仕えたからだと言います。しかし、右側の人々は、いつ王様に何かして差し上げましたかと尋ねます。すると王様は、「あなたがたは社会の中で、飢えている人に食べさせ、喉が渇いていれば飲ませ、旅をしている人には宿を貸し、裸の人には着せ、病気の人を見舞い、牢にいる人を尋ねた」、それは私にしてくれたことと同じなのだと言われ、「天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と言われたのです。人と人との間に神の国があるということです。
その後、イエス様はまた不思議なことを言われています。「あなたがたが、人の子を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない」と言われています。ここで、「人の子」とは救い主を示しており、その救い主をひと目見たいと望むが、できないと言われている意味は、現に救い主がいるのに、心に見えないからでもあります。まして、この後、イエス様は十字架への道を歩むことになりますが、いよいよお弟子さん達も救い主が見えなくなってくるのであります。あなたがたは人と人との間に生きて神の国に生きなさいと教えつつ、やがて到来する終末をしっかりと受け止めなさいと教えています。そのために、このルカによる福音書において、旧約聖書のノアの時代の洪水を示し、またロトの住んでいた悪徳の町ソドムの滅亡を示しているのです。神様の審き、それは終末のときでありますが、私たちが人と人との間をどれだけ生きたかを問われるときであるのです。

先週の水曜日に東京の霞ヶ関まで電車で行ってきました。電車に乗ると「優先席」があります。昔は「シルバーシート」と言っていました。シルバーシートは老人や身体障碍者のために設けられていたのです。しかし、大切にしなければならないのは、老人や身体障碍者ばかりではなく、怪我人、妊婦、乳幼児連れ、ハンディキャップを持つ人等もいます。それで、それらの人々を含めて「優先席」とするようになりました。場所によっては、「専用席」とか「おもいやりぞーん」と称しています。横浜地下鉄は「すべての席が優先席」としています。それで、昔の「シルバーシート」と言われていた頃、その席に座りましたら、窓際にメモ用紙が置かれていました。それとなく読みましたら、「シルバーシート、座るとみんな、目をつぶり」と言う歌が詠まれていました。誠にその通りの歌であると思います。座って眠っていれば、老人が前に立っていても、そのまま座っていられるわけです。目を開けていれば、老人を見て代わらないわけにはいかないからです。先日の霞ヶ関からの帰り道、夕刻なので結構電車が混んでいて座るところがありません。吊革につかまっていたのですが、ある駅について座っている人が降りました。しかし、その前にいるのは私より別の人の方が権利があるようです。すぐに座らないので、私が「どうぞ」と言ってあげました。それでその人は空いた席に座ったのですが、すぐに立ち上がって、私に「すいません」と言いながら席を譲ってくれました。その人は座るまで、私の姿を見ていなかったのです。座った瞬間に私を見たのでしょう。いかにも老人と見えたと思います。もはや弁解の余地がありません。老人を差し置いて自分が座ってしまったので、誤りながら私に席を代わったのです。この人が私を見もしないで座っていることもできるわけです。しかし、見るということ、そこに大切な生き方が導かれてきたのです。
さあ、私たちは自分の現実に派遣されます。そこには人がいます。この人はイエス様が、私が神の国を生きるために与えてくださった存在なのです。イエス様の十字架に導かれて、人と人との間に生きて、一人の存在を見つめつつ歩みたいのであります。
<祈り>
聖なる神様、イエス様の十字架のお導きを感謝いたします。人と人との間に生きて、神の国へと導いてください。主イエス・キリストのみ名によりお祈りします。アーメン。