説教「イエス様のお招き」

2019年1月13日、六浦谷間の集会 
降誕節第3主日

説教・「イエス様のお招き」、鈴木伸治牧師
聖書・出エジプト記18章13-27節
    使徒言行録16章11-15節
     ルカによる福音書5章1-11節
賛美・(説教前)讃美歌21・280「馬槽の中に」
    (説教後)讃美歌21・401「しもべらよ、み声きけ」

 2019年が始まり、もはや1月13日ですが、この時期に聖書から示されることは主イエス・キリストの最初のお働きです。クリスマスに世に現れた主イエス・キリストでありますが、聖書のルカによる福音書は、イエス様がベツレヘムでお生まれになり、その後ヨセフさんとマリアさんエルサレムの神殿にお宮参りに行きます。それが終わるとヨセフさんやマリアさん達の町、ガリラヤのユダヤに帰ったと記しています。そしてイエス様が12
歳になったとき、過ぎ越しのお祭りの時、両親と共にエルサレムの神殿にお参りに行くのでありました。そしてその後はナザレの町で成長していくのであります。少年、青年時代のイエス様については記していません。その次に現れるのはバプテスマのヨハネヨルダン川で洗礼を授けている時、イエス様も洗礼を受けています。イエス様の洗礼の意義につついては前週の説教で示されています。この時、イエス様はおそらく30歳頃であったと思われます。洗礼を受けてから荒野の試練があり、そして世に現れるからです。イエス様が世に現れて十字架の死を遂げるまでは3年間であり、この期間は公生涯とされています。
 そしてガリラヤで伝道を開始されます。多くの人々に神様の御心、また病人をいやしたと言われます。その様に最初の働きの後に、今朝の聖書に示されるお弟子さんの選任になるのです。新約聖書の始めに福音書があり、主イエス・キリストについての記録がありますが、これはイエス様の伝記ではありません。示されていることは、救い主イエス・キリストの救いであります。ですからクリスマスにお生まれになったイエス様の幼少年時代、青年時代のことは割愛して、公生涯の3年間、イエス様の救いを示しているのであります。今朝はイエス様がお弟子さんたちを選び、いよいよ救いを人々に示していくのであります。
 務めている伊勢原幼稚園も1月10日から第三学期が始まりました。子供たちは学年ごとに暗唱聖句が決められており、礼拝の時にはその暗唱聖句を唱えてはお祈りをささげています。しかし、今までは暗唱聖句についてのお話しはありませんでした。会堂礼拝では予定されている聖書が示されており、礼拝で暗唱聖句を唱えても、それについてのお話しがなかったのです。そこで第三学期からは、クラスの最初の礼拝で暗唱聖句についてお話をすることになりました。先日の11日の日には三クラスを順次回ってお話をしたのでした。個人的なことですが、風邪を引いてしまい、従って、その日は遅い出勤になりました。それでも、間もなく園長が来るということで礼拝が始められていました。幼稚園に着くとともにすぐに礼拝に臨みました。子供たちは、一生懸命に園長のお話を聞いてくれます。ジョークをお話しすれば、笑ってくれるほどお話に集中しているのです。いつもイエス様のお話を聞いている子供たちが、祝福の成長が導かれる様お祈りしているのです。
 そしてその日の午後は新入園児保護者の準備会が開かれました。まず、キリスト教教育の意義についてお話をさせていただきました。一人の存在を尊重しながら共に園生活が導かれることをお話しをしたのでした。新しい子供たちを受け入れる準備をしているところです。新しく入園する子ども達もイエス様の働き人として成長してほしいのです。

 聖書は福音の働き人を示し、働き人への召しを与えているのであります。旧約聖書は最初の働き人を示しています。聖書の人々、イスラエルの人々はエジプトの奴隷の時代がありました。それが400年続いたと言われます。神様は聖書の人々をモーセと言う指導者を立てて脱出させたのです。今日の聖書は18章ですので、それまでが脱出物語であるのです。脱出物語は割愛しますが、モーセが救い出した人々の先頭に立って、神様が示す約束の土地カナンへと向かっているのです。ところが、エジプトを脱出し、モーセを中心にしていますので、旅の途上、いろいろな問題が出て来ます。人間関係もあり、生活の問題もあり、人々はそれらの問題をみんなモーセのところに持ってくるのです。従って、モーセは一日中人々の問題処理に当たらなければなりませんでした。
 それらの状況を見たエテロはモーセに助言するのです。エテロはモーセの奥さんの父親です。一人で裁いているのではなく、裁き人制度を作りなさい、と言うことでした。モーセに相談に来るのではなく、21節に示されるように、「あなたは、民全員の中から、神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び、千人隊長、百人隊長、50人隊長、10人隊長として民の上に置きなさい。平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があった時だけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい。もし、あなたがこのやり方を実行し、神があなたに命令を与えてくださるならば、あなたは任に堪えることができる。この民も皆、安心して自分の所へ帰ることができよう」と助言するのでした。モーセはこの助言を受け止め、実行します。モーセは指導者として全体の人々を見るのであります。
 聖書は福音の働き人は一人の人に求めるのではなく、人々がそれぞれ使命を与えられ、それぞれの福音の職務へと導かれることを示しています。出エジプト記モーセにより奴隷の国から脱出し、一路カナンへと目指すことが記されていますが、今朝の聖書の示しのように、そこにモーセと共に働き人が選ばれ、共に使命を担いつつ約束の地へと旅をすることが示されているのです。約束の土地出エジプト記では「乳と蜜の流れる土地カナン」でありました。その示しが基本になっています。現代に生きる私たちも「乳と蜜の流れる土地」すなわち「天国」に導かれるための歩みをしているのであります。その導きを与えてくださっているのが主イエス・キリストであります。そして働き人として選ばれている私たちが、人々を「乳と蜜の流れる土地」へと導く使命を与えられているのです。

 主イエス・キリストが具体的に働き人をお選びになっておられます。新約聖書ルカによる福音書5章にはお弟子さんをお選びになることが記されています。イエス様はガリラヤ地方で伝道を開始します。しかし、育った故郷では受け入れられなかったことが記されています。ガリラヤ地方の町や村で神様の御心を人々に示し、神様の力の証をされたのでした。5章1節以下はイエス様がゲネサレト湖畔に立っていたと記しています。このゲネサレト湖畔は別名ガリラヤ湖とも言われています。かなり広い湖になります。
 水辺にいるイエス様のもとへ大勢の人が、神様のみ言葉を聞こうとして集まってきました。あまりにも接近しているので、少し離れた所からお話することにし、一艘の舟に乗り、その舟からお話をしたのです。漁師たちは舟から上がって網を洗っていたのです。漁師たちが舟の後片付けをしているのですから、これは朝の時間帯です。この地域の漁師さん達は夜に漁をするのです。日中は暑いので魚が湖面に上がってこないのです。それで夜に漁をすることになるのです。イエス様が神様の御心を人々に話し終えると、イエス様は漁師さん達に、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。すると漁師たちは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言うのです。漁師さん達は、イエス様が人々に神様の御心をお話するほどの偉い人だと思っています。自分達は苦労しながら一晩中漁をしたのですが、何も取れなかったのです。それなのに、舟を漕ぎだしなさいとは、考えられないことでもあります。しかし、権威ある方のお言葉として従ったのでした。すると、一晩中取れなかったのに、今はたくさんの魚が網に入りました。偉大な奇跡を見る思いでした。そこでペトロはイエス様の前にひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と告白するのです。
 思いもよらないことを経験した時、そこにおられる存在が偉大な方であることを示されたのでした。その偉大な存在の前で、自分が罪深い者であると、告白せざるを得ないのであります。ペトロの他にヤコブヨハネの兄弟、そして名前が記されませんが、ペトロの兄弟アンデレもいました。彼らはペトロと同じように告白をしたのであります。その時、イエス様は「恐れることはない。今から後、あなたは人間を取る漁師になる」と言われました。その招きの言葉をいただくと、彼らはイエス様に従い、お弟子さんになったと示されています。こうしてイエス様も働き人をお選びになりました。このほかに8人選び、12人のお弟子さん達に御心をお示しになられたのであります。
以前、聖地旅行をしました。このガリラヤ湖のほとりのホテルに泊まりました。朝起きると、何の鳥か、カモメのような水辺で生きる鳥が一列になって湖を旋回していました。とても印象的な情景です。このガリラヤ湖に着いて舟に乗りました。イエス様が漁師さんたちと漁をした体験です。舟に乗ると漁師さんが網を水に投げ入れます。写真を写しやすいように、スローモーションで行います。そのうち日本の国歌と言われる「君が代」が流れてきます。女性のガイドさんは日本人でしたが、しかもクリスチャンであるということですが、私たちに一緒に歌うよう促し、一人大きな声で歌っていました。陸に上がると、食事になりましたが、ガリラヤ湖で取れるピーターズフィッシュという魚を食べさせられました。非常に淡白な魚で、ヒラメとかタラのようでした。イエス様が水辺でお話した場所にも行きましたが、そんなに広くなく大勢の人がここにいた状況を思ってみるのでした。このガリラヤ湖に関しては、聖書はいろいろな状況で示しています。ガリラヤ湖で嵐にあい、船が沈みそうになった時、船の中で寝ているイエス様に助けを求めたことが示されています。イエス様はすぐさま嵐を凪にしました。信仰を持って乗り切ることを示しています。また、そのガリラヤ湖の水を上を歩いて来るイエス様が示されています。その時、では私もイエス様のおそばに行かせてくださいとペトロが言いました。イエス様のお招きをいただき、水の上を歩きだしたペトロでしたが。溺れそうになるのです。波を見て恐ろしくなったからです。すぐさまイエス様に助けられましたが、疑うことのない信仰が求められたのでした。こうしてお弟子さんたちはガリラヤ湖で次第に信仰が養われて行ったのであります。
神様の御用のために、モーセが役割分担をしましたが、主イエス・キリストもお弟子さんを選び、働き人の養成を始められたのです。ですから、お弟子さんに選ばれましたが、まだ役割り分担ではありません。これから養成され、次第にイエス様の福音の僕として訓練されて行くのであります。

 日本基督教団の教職制度は二種教職制になっています。神学校を卒業し、教会に赴任しても、まだ牧師とは言われないのです。神学校を卒業して最初の二年間は教会の務めをしながらも補教師としての身分なのです。補教師なので、まだ聖礼典の執行はできないのであります。聖礼典とは洗礼を授けること、聖餐式を執行することです。従って、教会の責任を持ちながらも聖礼典が執行できないのです。そのため牧師である人を招くことになりますが、多くの場合、隠退牧師が求められるのです。私も2012年4月からは横須賀上町教会の聖餐式を担当するようになりました。その年から第二日曜日に説教を担当し、聖餐式を担当するようになったのです。横須賀上町教会は2012年4月から神学校を卒業した若い先生を招いたのですが、まだ補教師でしたので私が担当するようになったのでした。同教会は2017年5月まで担当しましたが、若い先生が正教師になったので、私の任務は終わったのであります。教団の教会はこのような形で、補教師が実践的に学び、正教師になっていくのであります。
 日本基督教団にはいくつかの神学校が関係しています。一つの神学校は日本基督教団立でありますが。他は認可神学校です。神学校はそれぞれ特色があり、イエス様の教えをいろいろな立場で解釈しています。それは統一できないのです。従って、牧師になっても信仰的にも異なりますが、互いに尊重しつつ共に歩んでいるのです。昔はカトリック教会とプロテスタント教会は、話し合いの場もなかったのですが、今は共に取り組んでいます。なによりも聖書を時代の言葉で訳しているのです。最近もカトリック教会とプロテスタント教会が共同で聖書を訳して発行したのですが、新共同訳聖書が定着しているので、はたしてどれだけ用いられるか疑問でもあります。とにかく、私たちはイエス様からお招きをいただいた弟子ですから、互いに尊重して共に歩むことなのです。その意味では、バルセロナに滞在していたとき、私はプロテスタントの牧師であるのに、カトリック教会のミサでは神父さんと共にミサを担当したのでした。娘の羊子が知人の神父さんに頼まれ、クリスマス礼拝の奏楽をすることになり、私達夫婦も一緒に出席したのでした。そうしましたら神父さんが、その日のミサを一緒に司ってもらいたいというのです。そこで神父さんのガウンを借りて、短い奨励をしたり、聖餐式一緒に司ったのでした。この日は12月25日のクリスマス礼拝でしたが、実はそこに至る経過がありました。娘がスペイン人と結婚式をサグラダ・ファミリア教会であげることになったとき、神父さんが、羊子の父親がプロテスタント教会の牧師であることを知り、それなら一緒に結婚式の司式をしましょうと提案してくれたのでした。そのときも短い奨励をしています。そのような経緯がありましたから、25日のクリスマスミサにも共同ミサを申し出てくれたのでした。
 イエス様お弟子さんに招かれている私たちは、立場や信仰の形態が異なっていても、イエス様のお弟子さんなのです。違いを拾い上げることではなく、救いへと導かれている共通点を数えつつ、共に弟子としての務めを果たしたいのです。「今から後、人間をとる漁師になりなさい」とイエス様は示されています。
<祈祷>
聖なる御神様。福音の僕として私たちをお選びくださり感謝致します。いよいよ喜びの福音により生涯を歩ませてください。主イエス・キリストの御名により。アーメン。